第十一章
第100話「萌芽」
ヤオは、大きな屋敷の部屋の隅で泣いていた。それを止める者は居ない。広大に過ぎる屋敷の主は、既に去った。
喪失の実感は、いつも遅れてやって来る。14年前のあの時もそうだった。全ては、瞬く間の出来事だった。気が付けば、彼女は全てを失っていた。
彼女が徳ジェネレータの中に居た僅かな間。突如として現れたヒトデのような飛行機と、棒のような、恐らくは武器であろう道具を持った人間達によって『マロ』は連れ去られていった。
パイプラインという、彼女と両親との間に遺された絆は既に失せ。歳の離れた……そう、ずっと離れた友人もまた、今は傍には居ない。戻るのかも判らない。
あの後の彼女を待っていたのは、腫れ物に触れるかのような扱いだった。冷たくあしらわれた訳ではない。寧ろ、多くの労いの言葉すらかけられた。だが、それでも。彼女はどこか人々の中で浮いていた。
『マロ』の居ない今、集落は彼女にとって居心地の悪い場所になった。ヤオにはもう、そこに留まる理由も無かった。パイプラインの点検という日課は、既に無いのだから。
そうしてヤオは逃げるように、この屋敷へと転がり込んだ。
屋敷での生活は、物質的には快適とすら呼べるものだった。『マロ』がよく口にしていた「スローライフ」の意味が、彼女にも少しだけ分かった気がした。
「……『マロ』さん」
彼女は、彼が使っていたと思しき御帳の中に蹲る。
焚き染めた香の香りが、彼女の鼻を擽った。それは、微かな彼の残り香だ。
彼女はやがて寝そべり、御帳の天蓋を見上げる。……天井には、一首の和歌が記されていた。
「おもかげも……えにし……も、うつり……も、にのこるころかな……?」
所々に、読めない文字が混ざっている。それでも、ヤオは読める場所だけでもと声に出す。
『おもかげも絶えにし跡もうつり香も月雪花にのこるころかな』。それが、天蓋に記されていた短歌だ。嘗て、1500年の昔。この地に流され、宮殿を構えた貴人の詠んだ歌である。
この屋敷に住まう不死者が、果たしてそれに何を思ったかは定かではない。
この時代、既に漢字が滅びて長い。人類は衰退を続けている。芸術や文化もまた、その多くが既に失われ、今も失われ続けている。それでも、まだ人は微睡みの中にある。滅びは穏やかに。救いは早足で訪れる。
少女は、いつしか眠りこけていた。この先に待つ現実がどれほど厳しいものであろうとも。その夢は、夢だけは。今は、穏やかなものに違いはなかった。
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「……今、なんと」
『マロ』は、玉座の前に居た。御簾の奥には船団の長。旧・トリニティ・ユニオン第三位が居る。だが、その姿は見えない。ただ通信の時と同じ声だけが意志を伝える。
「人類の、再興を」
『マロ』は、船団の目的を尋ねた筈だった。だが、返ってきたのはその答えだった。
「本気でおじゃるか」
「無論。私がそれをせず、誰が為すのか」
少女の声は、即座に迷い無く答えた。『マロ』は、耳を疑った。
これは、方便ではない。声に嘘は感じられない。それに、嘘を吐くならば、もっと心地よい嘘を吐くだろう。彼女は本気で、そうすべきであると信じている。
狂っている。
方便として掲げるならば理解できる。人を束ねるには、嘘も夢も必要だろう。
だが……それを、本気で口にするとなれば話は別だ。
「麿は、負ける博打は苦手でおじゃる」
『マロ』には、そう返すのが精一杯だった。
「そうだな。人は遠からず滅びるだろう。だが、そちの言い方に従えば。まだ、目はある」
口振りから察するに。目指すものは可能性こそ低いが、実現可能だと思っている。一番、始末に終えないタイプだ。
だが
「何か、策があるでおじゃるな」
あの得度兵器を目にした後で、尚もそれを口にするのだ。彼女とて、決して愚鈍ではない。そんな者が、あの世界を生き抜けよう筈はない。
「それを教えることが、協力の条件であるか」
「内容次第で考えるでおじゃる」
「良かろう。触れて周らぬというならば、聞かせるに吝かではない」
「いいでおじゃるよ」
……しかし。その言葉を聞いた直後。『マロ』は完全に硬直した。
「……正気でおじゃるか」
「二度も、同じ言葉を吐かせるか」
御簾の奥で。エミリアは、笑っていた。それは、悪巧みを囁く少女のような笑顔だ。
「プラン・ダイダロス」。
彼女は、確かにそう言った。
それは天上の船。星々を駆ける翼。
ノアの方舟。バベルの塔。奈良の大仏。そういった神話に限りなく近い、遥か昔のお伽噺である。
いや……彼と彼女にとって、それは遥か手の届かぬ昔ではない。己の生に連なる時代の出来事だ。
二人は、確かに同じ永き時を見てきた者達だ。であるからこそ、その時代を知っている。しかし……そこで目にしたものまでは、同じではない。
不死の人間といえど、世界の全てを知るわけでは決してない。彼は、それを思い知ることとなる。
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