第96話「パラダイムシフト」
始まりは、2つの場所だった。
徳ジェネレータが崩壊の間際に放つ、虹色の光。虹霓を大地にぶちまけたかの如き燐光の氾濫が、徳エネルギーフィールドの淵に沿って広がっていく。一つは徳島。もう一つは「船団」の作業船。2つの地点から広がった光は、やがて結び付き、欠けた巨大な輪を形作る。
その、欠けた場所。円形の徳エネルギーフィールドに穿たれた蝕の部分。そこは正しく、得度兵器達の拠点施設群であった。施設の周辺には、巨大な霊璽めいたモノリス群が海に向かって幾つも並べられ、小刻みな振動を続けている。
それらは全て、施設を守護する徳エネルギーフィールド中和器である。『マロ』達の急造品とは、比べ物にすらならない完成品。それらですら、未踏の規模の徳エネルギーフィールドの前では余力を残す余地はない。モノリスの表面が虹色に染まり、複雑な光の紋様が浮かび上がる。小さなビル程の大きさのモノリスは、その全てがマンダラ・サーキットと同質の構造体で作られている。
三方向から斥力を加えられ、広大な徳エネルギーフィールドはゆっくりと縮み……圧縮される。フィールド空間内の徳エネルギーレベルが急激に上昇する。上方へと押し出された徳エネルギーが雲を貫き、電離層と衝突して黄昏の空にオーロラを生じさせる。
末法の終わり。そして、救済の始まり。その光景を目にした誰もが、天を仰いだ。大なり小なり、形は違えど、救いを願って。
そして、その願いに応えるかのように、空が、割れた。
現れたのは、巨大な手だった。輝く手が、天の隙間から現れたのだ。
「……あれは、」
徳島の地。フィールドのすぐ間際で、『マロ』達はそれを目にしていた。
彼らの横では、定格出力をとうに超過した徳エネルギー中和器のマンダラ・サーキットが光を放ちながら崩壊を始めている。
フィールド中和器の作る『壁』が崩れれば、正に眼前の光景が彼等をもまた襲うのだろう。
だが、それすら忘れる程に。人々は眼前の超常の光景から目を離すことは出来なかった。
「……功徳とは、記憶でおじゃる」
不気味な沈黙の中で。『マロ』は、口を開く。彼だけは、目の前の現象を解き明かす言葉を持っていた。
功徳は、記憶だ。そして徳エネルギーは、その『記憶』を転写することがある。
膨大な徳エネルギーは、即ち、無秩序な人類の記憶の総和である。
集合的無意識、という概念があった。まだ科学が人の心を蹂躙するよりも以前の概念だ。それは、人類に普遍の心の領域であるとされる。
そして、『記憶』と『意識』の境界は、ひどく曖昧なものだ。
ならば今、眼前にあるもの……フィールドの中で渦潮めいて渦巻く膨大な徳エネルギーのうねりは。正に、人類の意識の総和、普遍的意識領域の具現と言えよう。
そして……それを形と成す手段もまた、既知のものだ。徳エネルギーへの、意識による干渉。徳エネルギーを介した意識の物理現象としての具現化。それは、『奇跡』に他ならない。
人々の共通の願い。徳エネルギーへと刻み込まれた、その積み重ねによって束ねられた力が起こした『奇跡』。それが、あの手の正体だ。
「……その、筈でおじゃる」
彼の理論が、正しいならば。あれは、人の求める救いの形ということになる。
「……本当に、そうなの?」
だがヤオは、彼の言葉を継いだ。
功徳情報理論には、確かに未検証の部分が多々存在する。嘗て反論が行われたように、未完成の理論であることもまた、事実だ。
故に『マロ』は、少女の問いかけに応える言葉を持たない。
彼等の傍で、徳ジェネレータの光をたたえる底板に罅割れが走る。
徳エネルギーフィールドを巡る三方向からの力比べにおいて、最初に限界を迎えたのは徳島のフィールド中和器であった。
巨大な手は、天からゆっくりと下りてくる。中和器が抑えこんでいたフィールドが、徐々に漏れだしはじめる。
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同時刻。その、数十キロ彼方。徳エネルギーフィールドの中心部。
海に浮かぶ、敗残者達の群れ。「船団」の主戦力であった戦闘艦隊の中枢たる、セミマルⅢ世の船長室。全身を蓮の花に覆われながら、船長は変わらず煙草をふかしていた。
眼と鼻の先には、タイプ・シャカニョライ。
「一花咲かせる積もりだったが……こんな有様になるとはな」
この船は、徳島と船団との通信中継点として機能していた。その通信も、数十分前に途絶えたのだが。
その間に船を動かす慣性は消えた。彼は、己の戦果よりも船団のために尽くすことを優先した。今や、体当たりすらままならない始末である。
一時は死を覚悟していたが、不思議なことに眼前の得度兵器もまた動きを見せなかった。その結果が、今の奇妙な睨み合いだった。
仏像の姿をした機械は何も語りはしない。そして船長にもまた、解脱の時が近付いていた。
「……なぁ、折角だ」
彼は、手に持った煙草の灰を床に払い落とした。
不徳行為によって、船長を覆う蓮の花が一輪、溶けて消えた。だが、その程度で強制的な解脱は止まりはしない。
「あの世まで、付き合って貰おうじゃないか」
船長は、目の前の得度兵器に話しかける。
実は。この船にはまだ最後の武器が残されている。レールガンの砲弾用に搭載された液体炸薬タンク。砲は、エネルギー切れと損耗によってとうに使い物にならなくなった。だが、弾は別だ。
この至近距離でタンクごと起爆させれば、幾らあの得度兵器と云えど、無傷では済むまい。しかし、船長にはその選択は取れなかった。
第一に。船を自分の手で沈めてしまうこと。第二に、船員達を巻き込むこと。
その2つは、彼の矜持を著しく傷付ける。これは、戦闘や体当たり攻撃とは違う。確実な死を齎す、ただの破れかぶれだ。彼にとって、己の、船長としての矜持は徳よりも重い。
船は、彼にとっての家だ。そして周辺海域には、船から脱出した家族……船員達が、まだ漂っている。
……だが、それでも。
それでも、縋るものが在るとしたら。
「……輪廻転生、か」
彼は、思い出す。死んだ人間は、生まれ変わる。遠い昔の、宗教の思想だ。そんなものは、気休めだと思っていた。
死んだ人間は、何処へ行くのか。解脱した人間は、何処へ行くのか。果たして、どちらが『マシ』なのか。
彼は、そう思い悩みながら、新しい煙草に火を点けた。
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