6
沈黙がまた流れる。
彼も、彼女も、橋本も、誰も動かず、喋らない。
僕は、もう一歩、前へ足を進める。
「それ以上近付いたら、落ちますよ」
上げようとした後ろ足を、瞬時に止めた。
先程の感情剥き出しな声とは一転、元のなにも見えない口調に戻っていた。
「……おい」
「説得に応じるつもりはありません」
こちらに一瞥もくれることなく、はっきりと宣言する。
「私はこの人を殺して、私と、マミの仇を取るんです。絶対に、譲ったりなんかしません」
彼女は、前だけを真っ直ぐ見ている。
「だから、お願いだから帰って下さい。翔太くん、お願いします」
「……どうしてもか」
「……はい」
「どうしても止めないのか」
「……止めません」
凄く綺麗な眼差しで、彼女はそう言い切った。
同時に、僕の中のなにかも、切れた。
「……じゃあ、僕の質問に答えろ」
彼女の髪が、風に揺れる。
「僕の質問に全部答えて、僕を説得してみろ。そうしたら、大人しく帰ってやる」
顔はそのままに、目線だけが僕を捉えた。
「……大体、さっきから思っていたが、なんで僕がお前の言うことなんぞ素直に聞かなきゃならないんだ。帰って欲しかったら、それ相応のものを持ってこい」
「……相応のものって、なんですか……」
「僕が納得する理由だ。説得に応じないとか、絶対に譲らないとか、否定ばっかりしやがって。お前、いつからそんなに偉くなったんだ。思い上がるな馬鹿。不愉快だ馬鹿」
「……あれ、可笑しいな。今って、こういうノリのシーンでしたっけ?」
「五月蝿い」
「あ、すいません」
溜まっていた鬱憤を、溜め息に乗せて外へ押し出す。
「……まず一つ。お前が憎むのも、仇を取りたいのも、正直どうでもいいが」
「どうでもいいって、え、ヒドくないですか? ここは嘘でも『お前が大切なんだ……っ』とか言って、翔太くんらしからぬ熱さで私を引き止めるところじゃないんですか?」
「五月蝿い」
「あ、すいませ」
「心底どうでもいい、が、その仇の取り方は、荻原さんに罪を償わせるんじゃ駄目なのか」
僕の問い掛けに、彼女は唇を突き出した不満げな顔で答えた。
「だって、それじゃあいつかは刑期を終えて、普通に暮らしていくじゃないですか」
「……おい橋本」
「なに?」
「お前、法律は詳しいか」
「んー、齧った程度かなぁ」
「ではここで問題です。女子高生を二人轢き逃げした犯人が自首しました。はい、刑期は一体何年でしょう」
自分で言っておきながら、答えの分からないクイズを出題してみた。
橋本は宙を眺めて首を捻り、何秒かして僕を見た。
「正解は、『十年くらい』です。あ、多分ね? 執行猶予とか色々あるからさー、もしかしたら二十年かもしれないし、はたまた五年かもしれねーけど。ま、大体それくらいじゃね?」
「十年って……それっぽっちなんですか?」
「でも、出所後の人生、ずっと殺人犯として見られながら過ごすんだぞ。死ぬまで。それって、死ぬより相当苦しいんじゃないか」
「でも……でも、この人には奥さんが傍にいます。一人じゃありません。そのうち子供も生まれて、辛いかもしれないけど、それでも幸せに」
「その子供に、自分の親は“人殺し”だって一生背負わせる羽目になるんだぞ……それって、本当に幸せなのか」
僕の問いに、彼女は言い淀んだ。
「なぁ田中ー」
「……なに。口出ししないんじゃなかったのか」
「いや、そのつもりだったんだけどさぁ、今の一言、流石に厳し過ぎんじゃね? 一生背負わせる羽目になるかもしれない本人に聞かせるのはさぁ」
そう言って、橋本の目は荻原さんへ流れた。
荻原さんは、目を瞑ったまま俯き、静かに佇んでいた。
全てを受け入れるような彼の姿に、配慮が足りなかったと内心舌打ちを零す。
「……すいません、荻原さん。無神経なことを言いました」
「……ううん、田中くんの言う通りだから」
悲しそうに眉を下げる彼に、もう一度、内心舌打ちを零す。
「……じゃあ……」
ぽつりと、彼女が呟いた。
「……もしも、ここでこの人を解放して、警察へ行って、裁かれて、刑期を終えたあとも一生苦しむとして、そしたら……」
彼女は、僕をしっかりと据えた。
「そしたら、私はどうすればいいんですか……?」
顎に皺を作り、口元を震わせて、縋るように、僕を見つめる。
「ずっと憎み続ければいいんですか? この人のこれからが暗いものであるよう祈り続ければいいんですか? それって悪霊となにが違うんですか? 人の不幸を糧にして、それで……私の気持ちは、楽になるんですか?」
僕は、なにも言えなかった。
「私、この人の幸せそうな顔が許せないんです……でも、そうやって妬み続けるのも凄く辛いんです。仇を取りたい自分と、ダメだって思う自分に挟まれて、頭がグチャグチャになるんです。だから早く成仏したくって、五ヶ月間、一生懸命頑張りました……でも、なにも変わらないんです。なにも……」
彼女の顔が、一層歪む。
「もう……嫌なんです。こんなの、もう嫌なんですよ。お願いだから、私を、解放して下さいよ……っ」
切実な音色だった。
「この人を殺して、私も死んで、そしたら、やっと楽になれるんですっ。楽に、なりたいんです……っ。そう願うのって、そんなにダメなことですか……っ?」
自分と同じだけ生きた人間が出しているとは思えない程、とても心髄な音色だった。
「私はただ、このどうにもならない気持ちを、どうにかしたいんです。それだけなんです……っ」
赤縁眼鏡の奥から、潤んだ視線が僕を突き刺す。
「……お前のじいさん、向こうで待ってるぞ」
「……はい」
「お前の両親も、お前が天国にいるって信じてる」
「はい……」
「中村麻実さんだって」
「分かってますよ」
「本当かよ」
「本当ですよ」
「じゃあお前知ってるか」
「なにをですか」
「この犬も、お前を助けたいらしいぞ」
彼女の目が、僕の足元へと動いた。
「こいつはな、まず荻原さんの彼女さんのところまで僕を連れて行った。勝手に憑依をして、だ。非常に腹立たしいが、そこは今目を瞑るとして、そのあとこいつはお前を探した。そして僕をお前の元へ連れていく為、またしても憑依し、全力マラソンを強いた。お陰で全身汗だく、疲労困憊。そもそも、なんで僕がこんな目に合わなきゃならないんだ。明日筋肉痛になったらどうしてくれる。ロケット花火どころか、爆竹叩き付けてくれるわ」
「田中ー、話ずれてるぞー」
橋本の一言に咳払いして、軌道修正した。
「兎に角。そこまでしたこいつの気持ち、お前知ってるのか」
僕も、見えないあいつに目を向けた。
「……うん……うん、ごめん。でも、……でも……え、……そう……うん……でも……」
彼女は、ヘップと話をしているようだった。僕には聞こえない言葉で、あいつはなにかを訴えているようだった。その証拠に、彼女の顔がどんどん苦悶に歪んでいく。
静かな空間に、彼女の相槌だけが響く。
だがしばらくすると、その相槌さえも聞こえなくなった。
ただただ、息苦しい沈黙が過ぎる。
「……っ、それでもねぇ……っ」
彼女は喉を引き攣らせ、声を絞り出した。
「……私はっ、私とマミの仇っ、取りたいよ……っ」
ごめん、と小さく付け加え、彼女は口を閉じた。
誰も、なにも言わない。いや、もしかしたらヘップがなにかを言い募っているかもしれないが、それ以外は誰も。
気味が悪いくらいに、静かな時間が流れる。
「……さっきから、ずっと思ってたんだけど」
つと、僕は口を開いた。
「中村麻実さんは、多分、仇なんて望んでないぞ」
彼女の胡乱げな視線が向けられる。
「……なんなんですか。さっきから、昔の刑事ドラマみたいなセリフばっか言ったりして。そういうの、似合いませんよ翔太くん」
「僕もそう思う。見ろ、この鳥肌」
「腕毛総立ちですね」
「だが、それでも言うぞ。彼女は多分、仇なんて望んでないあー虫唾が走る」
「なら言わなければいいじゃないですか」
「この台詞は、今が言い時なんだよ」
「なんですか、言い時って」
「食べ頃の従兄弟」
「……なんですかそれ」
思わず、と言った風に彼女は笑った。
「……質問、いいですか?」
「ん」
「その根拠は?」
些か砕けた雰囲気だが、赤縁眼鏡の奥では、真剣な眼差しが僕を睨む。
「マミが仇を望んでない根拠を教えて下さい。まさか、本当にただドラマの真似をしただけだなんて言いませんよね?」
「その質問に答える為に、僕の質問に答えてくれ」
軽く眉を顰められるが、彼女からの拒否はなかった。沈黙が僕を促す。
「お前は、中村麻実さんを見たことがあるか」
「……なに当たり前なこと聞いてるんですか。ありますよ、幼馴染なんですから」
「死んでからは」
「……え?」
「死んでから五ヶ月の間、一度でも彼女と会ったか。この世で」
彼女は、答えなかった。
「……橋本」
「なに?」
「中村麻実さんという幽霊は、まだこの世を彷徨っているか」
「いーや」
「じゃあ彼女の魂を壊したか」
「いーや」
「……じゃあ、向こうの世界に、中村麻実さんという、五ヶ月前に、車の事故で亡くなった魂は、いるか」
「いるよ」
彼女の顔色が、変わる。
「……彼女は、成仏してるんだな。未練を晴らして」
「つーか、そもそもあの子、現世彷徨ってないからね。死んだー、はいあの世ー、みたいな感じで直行だったし」
「……嘘……」
彼女の小さな呟きが聞こえた。
「なんで……だって……マミは留学も決まってたし、パティシエになるって夢もあって、これから、色々、やりたいこともあったはずなのに……なんで……」
困惑した様子で、頻りに地面を見つめては、なんで、と繰り返した。
「……じゃあ、それ、直接本人に聞きに行け」
僕は、ようやく一歩、前に足を踏み出せた。
「向こうの世界に行って、『なんでだよ』って言ってやれ」
「……でも……でも、私……」
彼女が僕を見やる。
「……っ、成仏、出来ない……っ」
それはまるで、助けを求めているかのように、苦しげな響きだった。
もうどうしたらいいのか分からない、そんな表情だった。
だから、だろうか。
僕の口から、わりと素直に言葉が出てきた。
「『三人寄れば文殊の知恵』ってことわざ、知ってるか」
「……え?」
「『三人寄れば文殊の知恵』とは、凡人でも三人集まって相談すれば、なにかいい知恵が浮かぶ、という意味だ」
「……それが、どうしたんですか?」
……察しろよ、馬鹿。
これ以上は説明したくなくて、腕を組んだまま奴を睨み付ける。
「田中が言いたいのは、つまりアレでしょー?」
嫌な笑顔と視線を寄越しつつ、橋本が口を出してきた。
「麻美ちゃんと、田中と、俺の三人で考えれば、きっと成仏出来る方法が見つかるだろうって言いたいんでしょ?」
本当か、と問い掛ける彼女の瞳。
僕は、口を開かない。
だが、決して目は逸らさなかった。
彼女は僕を見て、僕の足元を見て、橋本を見て、そして、荻原さんを見た。
唇を噛み、途方に暮れた顔をする。
沈黙が長引く程に、彼女の頭は俯いていく。左巻きの旋毛が、前を向いた。
「……翔太くん……」
のれんのように揺れる髪の隙間から、消えてしまいそうな声が聞こえてきた。
「…………ありがとう……っ」
荻原さんの指が、開かれる。
支えを失った彼は、目を瞑ったまま、ゆっくり後ろへ倒れていった。
それを見ながら、もう体中が重くて仕方なかったけど、僕は必死に足を動かす。
視界の外れでは、橋本が僕達を見ていた。固い表情で、ポケットに手を突っ込んでいる。
僕は手を伸ばす。でも届かない。
僕はもっと手を伸ばす。その分、荻原さんが遠ざかる。
それでも、僕は手を伸ばす。彼の腕まであと三歩。懸命に、足を回した。
だが荻原さんのつま先が、橋から離れてしまった。完全に宙へ放りだされた体は、重い頭を下にして、重力に従い落ちていくだけ。
僕は手すりに腹を乗せ、右手を精一杯伸ばした。交差点に吸い込まれそうな彼の足首を、根性で鷲掴む。
途端、肩に痛みが走る。
でも、左手で手すりを握り、どうにか耐えた。
足の裏が地面から剥がれそうになる。
でも、柵の間に膝を突っ込み、どうにか堪えた。
荻原さんの体が、空中で止まった。
ほんの一瞬だけ。
すぐさま柵の外に引き寄せられる。鳩尾に手すりが食い込み、苦しさに顔を顰めた。
持っていかれないよう、左手で柵を固く掴む。絶対に放すものかと、歯を食いしばって耐えた。
だが、僕の足掻きも空しく、
足の裏が、地面から剥がれた。
前に傾く体。重心が下に下がる。
まるで逆立ちするかのような格好となり、僕は、荻原さんとともに宙を舞った。
彼女の泣き声が聞こえる。
謝るくらいなら最初からやるな馬鹿が。
胸糞悪い。
「田中くん……っ」
荻原さんが、悲しそうに僕を呼ぶ。
その目が僕を捉え、次いで、僕の後ろに移動した。
彼の優しげなタレ目が、驚きに広がる。
そして小さく、口の動きしか分からない程度に、呟いた。
「………………オードリー……」
彼の瞳越しに、首にリボンとピンクを巻いた、妙に丸いブルドッグと目が合う。
そいつは吠えるように口を動かすと、短い足で僕の肩にしがみ付いた。
瞬間、信じられない速さで、僕の体は、動き出した。
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