なにを言われたか、よく分からなかった。


 意味を理解する前に、体中の毛が、一気に逆立つ。


「今年の三月にね、僕、彼女にプロポーズしたんだ。車の中で、隠してた指輪を出して。ドキドキしながら返事を待ってたら、彼女が泣きながら頷いてくれたんだ。凄く嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、自分は世界で一番幸せな男なんだって本気で思ったんだ。運転しながら彼女と未来を語ってさ。式はどこにしようかとか、子供は何人欲しいねとか、正直、舞い上がってたんだ」


 荻原さんの告白に、頭がついていかない。


「だからかな。信号が変わってたのに、気付けなかったんだ」


 でも、手足はどんどん冷たくなって、凍りついてしまったかのように動かない。


 動けない。


「倒れる二人を見てね、逃げなきゃって思ったんだ。最低だよね。助けようとかじゃなくて、逃げないと、誤魔化さないとって、それだけを考えたんだ。これから始まるはずの幸せを、手放したくなかったんだ……でも、神様はちゃんと見てるんだね」


 彼の瞳から、一筋の感情が零れ落ちる。


「だから、僕は報いを受けなきゃいけない」


 荻原さんは僕を見たまま、徐に靴を脱いだ。


「……待って下さい」


 前に向き直ると、手すりを掴んで、柵の間に足を掛ける。


「なに、するつもりですか」


 緊張した僕の声に、荻原さんは困ったように笑い、


「君は、早く帰りなさい」


 と言うだけ。


 嫌な、嫌な沈黙が、僕の帰宅を今か今かと待っている。


「…………一つ、質問がある」


 彼女からの返事はない。


「……これが、お前の未練なのか」

「……そうです」

「荻原さんが死ぬことがか」

「……そうです」

「……なら聞くが、これは『実現可能』な未練なのか」


 彼女からの返事は、ない。


「……答えろ。これは、天使とやらからも制止を受けない、『実現可能』な未練なのか」

「そんなわけねーじゃん」


 突如、僕の後ろから第三者の声が現れた。


「これどう考えてもアウトだろ。つーか麻美ちゃんさ、俺、何度もそう言ったよね? 生きた人間に危害を加えるのはダメだって」


 そいつは僕を通り過ぎ、荻原さん達に近付いていく。


「それ分かった上で、やるの?」

「……はい」


 ……なんで。


「魂、壊されても?」

「……やります」


 なんで。


「それは、困ったなー」


 なんでここにいるんだ。


「……橋本……」


 口から零れた呟きに、そいつはいつもの快活な笑顔を浮かべた。


「やっほー、田中ー」


 いつか図書館で会った時のように、極々軽い挨拶を僕に寄こしてきた。


 どういうことなんだ。


「あ、驚かせた? 悪い悪い。ま、気にすんなよ」


 見慣れたクラスメートの顔が、今はとても遠く感じる。

 溜まった唾を飲み込んで、ゆっくり、口を開いた。


「お前が、天使、なのか」

「正確には天使じゃねーけどな。でも説明するのも面倒くさいから、それでいいや」


 学校で見る、いつものおちゃらけた彼がそのままそこにいた。この場の雰囲気に相応しくない程にへらへらしている。

 

 こんなのが本当に天使なのかと思いつつも、もしかしたら、橋本なら、彼女を止められるかもしれない。そんな期待が僕の胸に広がった。


「麻美ちゃんさ、考え直してみない? 魂が壊れるのは痛いよー。いや、俺が体験したわけじゃないんだけど、見るからに痛そうなんだよね。もう壮絶。断末魔を上げてのたうち回んの。で、俺達に追い掛け回された挙句消滅。それも一瞬じゃ終わらないよ。例えるなら、彫刻刀でじわじわ肉を削り取られる感じ。苦しいと思うなー」


 自分で自分の言葉に頷く橋本。話される内容は重いはずなのに、次の授業なんだっけ、くらいのなんてことなさで言われるから、いまいち伝わってこない。


「俺もさー、出来ればやりたくないんだよね。ほら、魂を壊すって、やってることは人殺しと一緒なわけだからさ。しかも君とは歳も近いじゃん? 精神的にねー、きついんだよねー」


 あはは、と橋本は声を出して笑うと、


「だから、それ、止めない?」


 それ、と荻原さんを指す。


 沈黙が、しばし流れた。


「……天使さん」

「はいはい、なんでしょう」

「……もしも、このままずっと成仏出来なかったら、私、悪霊になっちゃうんですよね?」

「このまま成仏出来なかったら、ゆくゆくはそうなるね」

「……そしたら、魂壊されるんですよね?」

「そしたら、そうなるよ」

「……もしも、今ここで、私がこの人を突き落としたら」

「即、壊すよ」


 深く息を吐き出す音が、静かに広がる。


「……どっちに転んでも、私は魂を壊されるんですね……」

「どっちかに転んだらね」


 橋本の答えを聞いて、彼女は、真っ直ぐ前を向いた。


「なら、私は、今を選びます」


 底の見えなかった瞳に、なにかが宿った。


「……俺は『どっちかに転んだら』って言ったんだけど。麻美ちゃんの未練は、他にもあるかもしれないよ?」

「……ないですよ」

「分からないよ」

「ないですよ。散々試した結果がこれなんですから」

「まだ五カ月しかやってないじゃん」

「……っ、五か月っ、やったんですよっ」


 彼女の声が、僅かに強張る。


「毎日毎日、沢山考えてっ。でも、なにも変わらない……っ。もう、これ以外、思いつかないんですよ……っ」


 微動だにしなかった顔に、感情が映った。


「……麻美ちゃんさ、本当に成仏したいの?」

「……はい」

「でも、やろうとしてるのは自殺みたいなもんだよ?」

「……それでも、やります」

「……それって本末転倒じゃね?」

「……そうですね」


 彼女は一旦目を伏せて、


「でも、私バカだから」


 あの大人びた笑みを張り付けた。


「死んでなお死ぬって分かってるけど、でも、どうしても許せないんです。損得とかじゃないんですよ。この気持ちはどうにもならなくって、この人を殺したところでなにか変わるわけじゃないって分かってるけど……でも……っ、私バカだから、どうしても……っ、この人が幸せそうに笑ってるのが、許せないんです……っ」


 大人びた笑顔の下から、等身大の彼女が、少しずつ姿を現した。


「ずるいじゃないですか。私達の未来奪っといて、幸せな家庭作るなんて。式はどことか、子供は何人とか、そんなのずるいじゃないですか。私達を見殺しにしたくせにっ、そんな、未来を嬉しそうに語ったりしてっ、ずるいじゃないですかぁ……っ」


 憎いとか妬ましいとか、上手く説明出来ない程グッチャグチャに混ざり合った言葉が、次から次へと吐き出される。


「私だって夢があったのにっ。バカだけど、頑張って勉強して大学受かったのにっ。頑張って資格取って、マミとお店を開くはずだったのにっ。いつかは素敵な人と出会ってっ、いつかは結婚してっ、いつか……っ、いつかっ、子供を産んでっ、世界で一番幸せな女の子にっ、なりたかったのにぃ……っ!」


 彼女の動きに連動してか、荻原さんの手が固く手すりを握りしめた。


「私が、どんな気持ちでっ、走り去る車を見てたかも知らないくせにっ、そんなのっ、そんなのずるいじゃないですかぁ……っ!」


 初めて見た泣き顔は、思いのほか、胸糞が悪かった。


「例え、自殺だって言われてもっ、バカだって思われてもっ、私はっ、私とっ、マミの仇……っ、取りたいんです……っ。どうしても……っ!」


 彼女の嗚咽が響く。


 なにも言えず、立ち竦む僕。

 茫然と、荻原さんを睨む彼女を見つめた。


「……そっか」


 唐突に橋本は呟くと、荻原さんが乗っている柵とは反対の手すりに寄り掛かった。


 荻原さんの体が、ゆっくりと動き出す。柵を跨ぐように、左足が上げられた。


「……おい」


 その様子を、ポケットに両手を入れたまま眺める橋本。


「……おい橋本。なに暢気に見てるんだ」


 橋本は、まるで聞こえていないかのように表情を変えない。


「おい……おいっ。お前天使なんだろ。早く止めなくていいのか。このままじゃこいつ、荻原さんを殺すぞっ」

「そうだな」

「っ、そうだなじゃないだろ……っ。止めろよっ。早くっ。彷徨う幽霊を成仏させるのが、お前の仕事じゃないのかっ」


「違うよ」


 橋本は、静かに言った。


「俺の仕事は、魂を成仏させることじゃない」


 彼女から視線を逸らすことなく、


「魂をことだ」


 次の授業なんだっけ、くらいのなんてことなさで、こいつは僕に話し始めた。


「成仏するのを手伝うのは、あー、なんつーか……自分の仕事を減らす為かなぁ。魂一つ壊すよりも、魂九つ成仏させた方が何倍も楽だからさ。で、そんなこと続けてたら、いつの間にか天使ーなんてあだ名で呼ばれてたわけだけど、本当は死神寄りなのよ、俺って」


 話している内容と快活な笑顔が、どこか噛み合っていない。

 僕の背中を、嫌な汗が伝った。


「じゃあ……じゃあ、なんで見てるだけなんだ。その理屈で言えば、お前は彼女を止めた方が仕事も減って楽なんじゃないのか」

「……さて、ここで田中に問題です。魂を壊すよりも大変なことって、なーんだ?」


 唐突なクイズに眉を顰める。

 意味が分からず答えない僕に、橋本は笑ってみせた。

 口元だけ。


「正解は、『覚悟を決めた人間の覚悟を覆すこと』でしたー」


 この間も、橋本の意識は彼女から外れない。


「……人の心ってさー、理屈じゃないんだよなー。傍から見たらバカげた行動でも、本人がそうと決めたら梃子でも動かねーの。数学みてーに綺麗な答えなんて出ないんだよ。色々分かった上で、それでも覚悟決めた人間を動かすなんざ、魂壊すより何十倍も難しいんだ」


 微動だにしない水面そっくりな目で、橋本は言い放つ。


「そいつの気持ちはそいつのもんだろ。人がとやかく言って揺らぐくらいなら、俺の仕事なんか、端っから存在しねーんだよ」


 強く、落ち着いた、色んな意味を含む口調だった。


「……じゃあ、このまま黙って見てろって言うのか」

「……少なくとも、俺はこれ以上動くつもりはない」


 橋本は、彼女から目を離さない。おちゃらけた雰囲気はいつの間にかなりを潜め、隙のない、多分、もうすぐ訪れるであろう“仕事”へ向けて集中しているのだろう。


「でも」


 ぽつりと、橋本が呟いた。


「田中がなにをしようとも、それに口出しするつもりもないから」


 僕を一切見ずに、そう言い捨てた。


 誰もなにも言わない中、荻原さんだけがゆっくり動き続けている。

 彼の体は柵を超え、歩道橋の端につま先を掛けているだけ。手すりから手を放せば、すぐさま落ちるところに立っていた。


「……荻原さん」


 僕は一歩、踏み出した。


「荻原さん。今の話、聞いてましたよね」

「……うん」


 彼は、前だけを真っ直ぐ見ている。


「あなたが死ぬと、彼女の魂は壊されるんです。そうしたら、死後の世界に行くことも、生まれ変わることも出来ないんです」

「……うん」

「お願いです……どうか、死なないで下さい……彼女を、死なせないで下さい」


 荻原さんは、なにも答えなかった。

 でも、苦しそうに顔を歪めた。

 彼の意志なのか、それとも彼女の意志なのかは分からないが、手すりを掴む手が、小刻みに震えている。


 長い沈黙。叫び出しそうなのを、必死に押し込んで待った。


「……僕は」


 彼が、ようやく口を開ける。


「僕は、彼女の決定に従うよ」


 小さく、それだけ言って、荻原さんは目を瞑った。

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