陽は完全に落ち、辺りは深い群青色に包まれる。


 ぽつりぽつりと街灯が並ぶ道を、僕は一人歩いていた。

 いや、もしかしたらあの犬が近くにいるかもしれないから、本当は一人ではないのかもしれない。だが生憎、僕はあいつの存在を知覚することが出来ない。よって、いるもいないも同じ。誰かと話すわけでもなく、足早に近所のスーパーを目指した。


 彼女は、無事告白出来ただろうか。幸せそうな荻原さんを前にして。

 僕がそんなこと考えたってどうなるわけでもないのだけれど、ふと気になった。


 あの時の彼女の顔が甦る。感情の見えない、胸の内を悟らせない表情。それがなんとなく、観覧車で見た美しい横顔と重なった。


 徐にスマホを取り出し、思わず撮ってしまった画像を出す。

 そこには美しい夕陽と、空席が映っているだけだった。

 意味もなく溜め息を吐いて、スマホをポケットの中に仕舞う。街灯が照ら示すままに、僕は淡々と進んでいった。


 スーパーに着いたら、まずは一番高いリンゴを六個選ぼう。勿論、天使とやらの金でだ。それからバターも買って、急いで家に帰って、手を洗ったらリンゴの皮を剥いて……と、二十二時半までに作り終えられるよう、頭の中で手順を確認する。


 すると突然、僕の体は動かなくなった。次いでどこかへ向かい走り出す。


 こんなことする奴なんて、一匹しかいない。


 自分の意志以外で動き回る手足は、相変わらず気持ち悪いだけだった。


 けど、もしかしたら、と思う。


 もしかしたらお盆の時みたく、彼女になにかあったのかもしれない。だからこいつは、僕を走らせているのかもしれないと、そう思った。


 だから、というわけでもないが、今回は特別に、大人しく体を好き勝手使わせてやることにした。


 こいつの思うがままに走っていくと、人気のない路地へ連れて行かれた。先程まで通っていた道より静かで、灯りもない。


 こんなところにいるのかと不審に思っていれば、一つだけ寂しく立っている街灯の下に、誰かが蹲っているのを見つけた。


 途端解放される体。同時に白くなる世界。

 倒れないよう塀に手を付き、目を瞑った。そのまま数秒静かに呼吸し、ゆっくりと目を開ける。


 座っていたのは、彼女ではなかった。

 女性ではあるが、、なかった。


 予想が外れたかという少しの安堵と、じゃあなんで連れてきたんだという大きな不満が胸に生まれる。

 眉を顰めつつも、この距離で無視はあれだなと思い、一応声を掛けた。


「あの」


 女性からの反応はない。


「あの、大丈夫ですか」


 女性からの反応は、ない。意識が飛んでいるのだろうか。

 僕はその場にしゃがみ、女性の目線に顔を合わせた。


「……聞こえてますか」


 覗き込むように首を傾けると、今まで微動だにしなかった女性の頭が、のろりと動いた。


「……あなた……」


 僕の体感時間が、一瞬、止まった。

 見間違いじゃないはずだ。


 彼女は、だ。


 だが様子が可笑しい。先程まで幸せそうに緩んでいた目は、今は力なくぼんやりと彷徨っている。

 僕を見ているようで、全く見ていない。


「体調、悪いんですか」


 顔色は相当悪い。彼女さんの頬は白を通り越して青かった。

 暑さにやられたか、人に酔ったか。


 でも、それにしてはなんでこんなところに座っているのだろう。


 しかも、一人で。


「あの、荻原さんは」


 周囲を見渡しながらそう聞く。


「コウちゃん……」


 この状況をいぶかしむ僕に返ってきた、小さな小さな返事。


 彼女さんは虚ろだった顔を徐々に歪ませ、その瞳から雫を次々に湧き上がらせた。


「……コ、コウちゃぁん……っ」


 嗚咽を零しながら、ただただ荻原さんを呼ぶ。


 正直、どうしたらいいのか分からなかった。


 だが、あいつが僕をここに連れてきたということは、きっとなにか意味があるんだと思う。


 あいつの聞こえない訴えを、僕は必死で考えた。


「……荻原さんは、どこへ行ったんですか」


 彼女さんは、泣き続ける。

 下を向く彼女の肩を掴み、僕の方を向かせた。


「落ち着いて下さい。落ち着いて、話して下さい……荻原さんは、どうして、ここに、いないんですか」


 聞き取りやすいよう、言葉を区切って問い掛けた。

 すると彼女さんは、引き付けを起こす子供のように息を詰まらせながら、それでもどうにか答えてくれた。


「コッ、コウちゃんっ……連れ、てぇっ、かれちゃって……っ」

「誰に」


 彼女さんは一層顔を歪め、苦しげに絞り出す。


「……河村ぁっ…………あ、麻美さん……っ」


 ……河村麻美?


 かわむら、、だと?





 ………………あの、馬鹿が……っ。





「どっちに行きましたか。荻原さんは、どっちに、連れて行かれましたか」


 彼女さんの震える指が、左の路地の奥を示した。


「分かりました。僕が、必ず、荻原さんを連れてきます。だからあなたは、不安でしょうが、家で待っていて下さい。いいですね。一人で帰れますね」


 左巻きではない旋毛が、小さく縦に動いた。それを見届け、左の路地へと走り出す。


「……ごめ、なさい……っ」


 後ろから、彼女さんの声が聞こえる。でも僕は振り返ることなく、荻原さんと、あの馬鹿目指して足を動かした。


 彼女は、なにを思ってこんなことをしたのだろう。

 失恋の痛手なのか、デートのつもりなのか、はたまた別のなにかがあったのかは分からないが、兎に角、今は早く見つけ出すしかない。それで全力の右ストレートをお見舞いしてやるんだ。


 人様に迷惑掛けやがって。それで悪霊認定されたらどうするんだ馬鹿が。そんなことも分からないのか馬鹿が。あぁだから馬鹿なのか。

 馬鹿の考えは理解出来ないと苛立ちを募らせ、僕は道なりに走った。只管真っ直ぐな舗道を突き進み、突き辺りを左へ曲がる。


 と、僕の目の前に、駅前の大通りが現れた。


 右と左には太くて広い道が続き、至るところに細い抜け道が存在する。道路を挟んで反対側にも枝分かれした道があり、通路の先に更に通路がある状態だ。


 この沢山の選択肢から、荻原さんが通った一本を探し当てるなんて、出来るわけがない。


 でも、やらねばならない。


 分からないけど兎に角走った。

 考えもなしに只管走った。

 人の間をすり抜けながら、勘だけを頼りにただただ走った。


 でも。


 でも見つからない。


 僕の足じゃどうにもならない。


 僕の力じゃ、どうにもならないんだ。


 ……それなら。


「っ、ヘップッ! ヘップいるかっ!」


 突然叫び出した僕に、怪訝な目がそこかしこから集まった。

 視線が五月蝿い。

 だがそんなこと、気にしてられるか。


「ヘップ頼むっ! 僕を彼女のところまで連れてってくれっ! お前だって、あいつをどうにかしたいから僕を連れてきたんだろっ! おい聞こえてるかヘップッ! 頼むっ! 僕を……っ!」


 出っ張りに足を取られ、体が前に傾く。倒れるものかと腕を広げ、足を大きく踏み出した。


 瞬間、信じられない速さで、僕の両手足は動き出した。


 吹き飛ばされそうな胴体に力を入れる。歯を食いしばって、込み上げる気持ち悪さを無理やり飲み込んだ。


 息が切れる。切れるどころじゃない。明らかに可笑しな呼吸音をしている。

 汗が垂れる。垂れるどころじゃない。尋常ではない噴出し方をしている。


 それでも。


 それでも、僕は耐えた。


 頭が痛くなろうが汗が目に入ろうが、そんなの構わず必死に眼球を動かし続けた。

 それらしき姿を、懸命に探した。


 大通りを抜け、人気が段々と少なくなる。そのまま道を進んでいくと、車の通りが多い交差点に着いた。上には、H型の歩道橋が掛かっている。


 その歩道橋の真ん中、丁度交差点の中心に位置する辺りを、覚束ない足取りで歩いている人影が一つ。


 その影に寄り添うセーラー服も、一つ。


 いた。


 階段を二つ飛ばしで駆け上がり、彼目掛けて突進した。


「……っ、荻原さぁんっ!」


 叫んだ拍子に、例えヘップに憑依されてようとも、もう体が限界だったのか、僕はその場に崩れ落ちた。

 目の前が白く光って、一気に暗くなる。なにも見えない。

 でも、全身が今まで経験したことない程に震えているのは分かった。

 暑いとか寒いとかよりも、ただただ苦しかった。


「……田中くん?」


 喉が立てる変な音の合間に、小さく荻原さんの声が聞こえた。


「田中くん、だよね。どうしたの? もう日は落ちたよ。学生さんは、そろそろ帰る時間じゃないかな」


 いつも通り穏やかな話し方だが、それが返って不気味に感じた。


「夏休みだからって羽目を外し過ぎちゃいけないよ」


 彼は一度小さく笑い、言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を続ける。


「補導される前に、早く帰りなさい」


 ……帰れ帰れ五月蝿いな。


 手探りで柵を掴み、笑う筋肉を叱咤する。震える膝に手を当てて、気力で地面から体を離した。


 未だぼやける視界。それが鬱陶しくて、投げ捨てるように頭を振った。

 一旦固く目を瞑り、そして、開く。


 ようやく合った焦点が捉えたのは、手すりを掴んだまま、歩道橋の外を眺める荻原さんの姿だった。


「……どういうつもりだ」

「田中くん、」

「荻原さんじゃない。僕はお前に聞いてるんだ」


 彼の真後ろに佇む彼女を、見据える。


 彼女は、静かにこちらを向いた。それに連動して、荻原さんの首も動く。


 真正面から見た彼女は、美しい、底の見えない顔をしていた。


「お前、自分がなにしてるのか分かってるのか」


 彼女はなにも答えない。


「人様に迷惑掛けて、本当なにやってんだ馬鹿」


 彼女の口は動かない。


「なにをしたいのか知らないけど、さっさと荻原さんを解放しろこの馬鹿」


 彼女の表情は変わらない。


「……おい」


 彼女は無言を貫いた。


「……おい……っ」


 彼女はなにかするわけでもなく、ただ僕を視界に入れるだけ。


「……おい、聞いてるのか」


 その態度が、無性に苛々する。


「……いい加減にしろ。僕はお前に聞いてるんだっ、返事をしろっ!」


 怒鳴る勢いで、一歩足を踏み出した。





「来ないで下さい」





 彼女が、ようやく口を開いた。


 冷たい、まるで別人のような一言を発する。


 僕の足は、それ以上前には出なかった。


「……翔太くん、帰って下さい」


 ぽつりと響いた呟き。命令染みた圧力を感じる言葉が、僕に投げ掛けられる。


「お願いですから帰って下さい」

「……断る」

「……お願い」

「断る。僕は荻原さんを連れて行く。彼女さんとも約束したんだ」


 絶対引くつもりはないと睨み付ける。だが彼女は、微動だにしない。


 本当に、なんのつもりなんだ。


「……田中くん」


 ふと、荻原さんの声がした。


「僕のことは気にしなくていいから、君は早く帰りなさい」

「嫌です」


 即答すれば、彼は形のいい眉を少し下げた。


「これは僕の自業自得だから。河村さんはなにも悪くないんだよ」

「そんなわけないでしょう。人の体を好き勝手使って、こんなところまで連れてきて、挙句の果てには荻原さんの彼女さんも泣かせて……これでなにも悪くないなら、法律なんて要りませんよ」

「……それでも、河村さんは悪くないよ」


 優しげなタレ目を更にタレさせて、困ったように微笑んだ。





「だって、彼女達を殺したの、僕だから」

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