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宅配の手配を終え、サービスカウンターのある建物から外に出た。時刻は間もなく十八時を迎える。オレンジ色の夕陽が、辺りを万遍なく照らしていた。
外で待っているはずの彼女を探す。
すると、なにやら隅の方でしゃがみ込んでいた。
なにやってんだ、あいつ。
「……だからさぁ、ほら、ヘップだって女の子なんだから分かるでしょ? 夕暮れ時、二人っきりの観覧車の中で、向かい合って美しい景色を眺める……すんごいいい雰囲気じゃん。なんか素敵なことが起こるフラグがビンビンに立ってるじゃん。……でしょっ、でしょっ! キスするタイミングは今よって感じでしょっ! だから、ね。お願いだから、翔太くんと二人っきりにして欲しいのー。……ありがとうへップゥゥゥーッ! 話の分かる犬だよー。よっ、日本一ピンクが似合う犬っ! 空気が読める女っ!」
またくだらないことやってるなと呆れつつ、未だ僕の存在に気付かない彼女の元へ歩み寄る。
「……え? あっ、しょ、翔太くんっ! もう、あの、荷物のあれは終わったんですか?」
小さく頷いて見せれば、彼女は嬉々と目を輝かせた。
「じゃあじゃあっ、夕陽も綺麗な時間帯になりましたし、観覧車に乗りましょうよっ! ね、はい行きましょうすぐ行きましょうーっ!」
今日一番のテンションで、彼女は観覧車のあるエリアへ向かい走り出した。
そんなに急ぐ必要がどこにあるんだと溜め息を零しながらも、一応付き合ってやる。早歩きで。
「翔太くーんっ! 早く早くーっ! そんなんじゃあ夕陽も沈んじゃいますよーっ!」
そんなわけなかろう。
とは思うものの、それを言ったらまた面倒くさいことになるのは目に見えている。
なので仕方がないから、ほんの、ほんの少しだけ、足を速めてやった。
◆ ◆
観覧車の列に並ぶと、彼女は明らかに落ち着きがなくなった。頻りに下を見ては、なにもありません、みたいな顔で宙に目を泳がせる。
そして、僕らの順番まであと三組となった時、徐に、地面に向かってウィンクした。
「……えっ! そうなのぉー、ヘップゥー? うんうーん、じゃあしょうがないねぇー。あのぉー、翔太くぅーん。ヘップがですねぇー、高所恐怖症だから観覧車には乗らないって言い張ってるんですけどぉー、ヘップ抜きでもいいですかぁー?」
『いいよ』
どうでも。
「よっしぁっ! あ、いえ、なんでもないです。じゃあヘップはここら辺で待っててねー。……ふふー、分かってるよー。……うんうん、なにか素敵なことが起こったら、あとで報告するからねー」
色々と丸聞こえだが、ツッコむのも面倒くさいので気付かなかったことにした。
「いらっしゃいませ。何名様ですかー?」
係の人に指を一本立てて見せると、
「はい、一名様ですねー」
と頼むから黙ってて欲しい現実を叩き付けられつつ、観覧車の中へ誘導された。入って左側に腰を下ろせば、向かい側に彼女が座った。
「ヘップー、行ってきまーす」
浮かれた様子で両手を振る。それを一瞥してから、外の景色に目を向けた。
ゆっくりと地上が離れていき、目の高さにアトラクションの頂上が来る。それを通り越し、入場ゲートが見えて、段々と、雲が近付いてきた。
目の前に、オレンジ色の光が溢れる。
柄にもなく、綺麗だなと、ただ単純にそう思った。
「うわー、綺麗ですねー」
「……そうだね」
スマホを取り出して、この景色を切り取った。方向や角度を変えて、二枚、三枚と撮っていく。
画像を確認してみると、実際に広がるこの光景には一味も二味も劣っていた。眉を顰めるも、仕方ないかと再度シャッターを押す。
ふと、妙に静かだな、と感じた。
次いで、すぐに理由は分かった。
彼女だ。先程綺麗だと言ったきり、一言も喋っていないのだ。
僕が外ばかり見ているからヘソでも曲げたのかと思い、向かいの席を見やる。
瞬間、僕の時間が、一瞬、止まった。
窓の外を眺める彼女は、幻覚じゃないかと思う程に大人びた顔をしていた。
いつもの馬鹿丸出しの雰囲気を捨て去って、全く別人の皮を被っているような、なんとも言えない近寄りがたさと儚さを纏っている。
自分でも信じられないが、そんな彼女の横顔を、不覚にも、綺麗だと、ただ単純にそう思ってしまった。
だから、だろうか。
僕の指は、無意識の内にシャッターを押していた。
「……ん、あれ? あっ、翔太くん、今私のこと撮りました? もー、それなら一言言って下さいよー。隠し撮りはマナー違反ですよー?」
「……勘違いするな。僕は夕陽を撮っただけだ」
「またまたー、スマホのレンズこっち向いてたじゃないですかー。あ、もしかしてー、夕陽に照らされた私に見惚れてしまった感じですかー。きゃっ、麻美恥ずかしいっ」
「違う。自惚れるな。不愉快だ」
「そこまで言わなくたっていいじゃないですか。幽霊でも泣くんですからね」
なにかぶつくさ言っている彼女から目を逸らし、また外の景色を眺めた。時折話し掛けてくる彼女に、相槌なり罵倒なりを返す。
観覧車が、頂上に差し掛かった。
遊園地どころか、ここら一帯の土地を一望出来るその場所からの景色は、正に絶景としか言いようのないものだった。
僕達は、ただただ無言で魅入る。
「…………これもダメかぁ」
ぽつりと、彼女が呟いた。
「……なにが駄目なんだよ」
「……翔太くん。今日の目的、覚えてます?」
「……アンケート結果の残りを試す」
「はい……デートしたって、ジェットコースターに乗ったって、お揃いのものを買ったって、観覧車に乗ったって、私、ここにいるじゃないですか……もう、やることなくなっちゃいましたよ」
お互い、口を閉じた。
なんとなく、居心地の悪い沈黙が過ぎる。
「……でも確か、アンケートの残りは“五個”だったよな。デート、ジェットコースター、揃いのもの、観覧車。これで四つ。まだ一つ残ってる」
「……まぁ、それはそうなんですけど」
「なら、そのもう一つをやってみれば」
「……でも、それはちょっと難しいですよ」
「なんで」
「だって……最後の一つって『思い切って告白する』ですよ?」
気まずい空気が、流れる。
僕はなんとなく、彼女から外へ視線をずらした。
「……あの、翔太くん……」
「……なに」
「……私の深読みかもしれませんが……今のは遠回しに、『僕に告白しろよ』って言ってるんですか?」
「馬鹿が」
「あ、凄いストレートに罵倒された」
彼女の空笑いが小さく響き、またなんとも言えない沈黙が戻ってきた。自然と僕の足は揺れ、彼女も頻りに腕のオレンジを弄っている。
息苦しい空間を吹き飛ばすように、大きく溜め息を吐いた。
「……おい」
「あ、は、はい、なにですか?」
「……お前、生前好きな人とかいなかったのか」
「えっ、す、好きな人ですか? えー、あー……まぁ、私も女の子ですから、無きにしも非ずですよ」
「じゃあそいつにしてこい」
「え……えぇー、いやー、それはちょっと……」
困ったような、でも少し嬉しそうな顔で彼女は渋る。
「……いいから言ってこいよ」
「そうは言ってもですね、ほら、私って周りの人には見えてないし、声も伝わってないじゃないですか。そんな奴が告白したって……ねぇ?」
「要は気持ちだろ」
「ま、まぁ、そうかもしれないですけどぉー、でもぉー……」
どうもはっきりしない物言いを繰り返す彼女。いつまで経っても進まない話に、段々と苛々が募った。
「……お前、本当に成仏したいのか」
「あ、当たり前じゃないですかっ。なんですか突然」
「ならやれ。駄目元でやれ。どうせ相手には見えてないんだから、振られるなんて心配しなくていい。好きだと一言言うだけだ」
「で、でもぉー……」
「……チッ、なにが問題なんだ。もしかしたら成仏出来るかもしれないのに、なんでやらない」
舌打ちとともに詰問すれば、彼女は目線を彷徨わせ、口を小さく動かした。
「……あ、あの、ですね……その、私が、好きというか、気になっている人は、ですね……話したこともなければ、学校も違って、ぶっちゃけ、名前と顔くらいしか、知らないんですよねぇ……」
気まずげに伝えられた内容に、僕は眉を顰める。
「いや、あの、友達の知り合いみたいな、そんな感じの方なんですけど、たまたま出先ですれ違った時、『あ、この人この前もいたなー』って、本当にたまたま思ったんですよ。それからなんとなーく気になって、極々たまーにその人を見かけると、なんかこう、間違い探しで間違いを見つけたみたいな嬉しさが込み上げてきて……それで何年もその人を探してたら、なんか、変な愛着が湧いたと言いますか、あ、今日も機嫌悪そうだなーとか、どうしても彼を目で追ってしまうと言いますか……」
気恥かしそうにスカートを揉みながら、彼女はその彼について語った。
僕の変化など、気付くことなく。
「初めて気になったのが、えーと……小学校六年生の時だから、かれこれ六年くらいは彼を見てきましたかねぇ。高校に入ってから同じ路線を使ってるって分かって、それで電車に乗る時は必ず彼を探すんです。その度にマミに笑われて……ずっと見ていただけだったから、なんというか、彼に話し掛けるなんて想像つきませんよってちょっとちょっと、なんですかその顔。人が折角恥を忍んで恋バナしてるんですから、もっと温かい目で見守って下さいよ」
「お前……真正のストーカーだったんだな……」
「なにしみじみ言ってるんですか。違いますよ。ただ健気に遠くから見つめてただけです」
「ストーカーはみんなそう言うんだぞ」
「止めて下さい。私の恋心を犯罪者と一緒にしないで」
どれだけ彼女が言い繕っても、犯罪者予備軍には変わりない。
しかし、告白する相手にはその彼が持ってこいだとも思う。どうせ聞こえないんだから、迷惑を掛けるわけでもなし。
僕は尊大に足を組み、未だ言い訳を繰り返す仮免ストーカーと向きあった。
「兎に角だ。ものは試しに行ってこい」
「で、でもですね。翔太くんは分からないかもしれませんが、女の子にとって告白とは一大イベントなんですよ? 大好きな彼を前にちゃんと気持ちを伝えられるかとか、なんて返事をくれるんだろうとか、不安だから友達についてきて貰ったりとか、色々あるんですよ?」
「大丈夫。お前パグだから」
「仮に私がパグでも女の子ですからねっ!? ってゆーかそもそもパグじゃないですからっ! いつまでこのネタ引きずるつもりですかっ! そんなに気に入ったんですかっ!?」
リアクションがいいのは構わないが、五月蝿いのは頂けないな。なんて自分勝手なことを思いつつ、彼女のボルテージが下がるのを待った。
観覧車が四分の三程を回り終えた頃。一頻りツッコんで満足したのか、肩で息をしながら彼女は大人しくなった。そこを見計らい、次の提案をする。
「じゃあ、他に気になる相手はいないのか。件の彼以外で、もっと気軽に告白出来そうな人物」
「気軽に告白って、そんな相手……あ、じゃあ翔太くんで」
「断る」
「ですよねー。うーん、気軽にかぁ……」
口をへの字に曲げて考える。ついでに首も上半身も曲げて唸る彼女から目線をずらし、僕は窓の外を眺めた。
「うーん……そもそも私、異性の知り合いそんなにいないんですよねぇ。同じ学年でカッコイイって言われてる男子とかいましたけど、私からしたら子供じゃんって感じで全然興味なかったですしぃ……うーん……」
観覧車の壁を突き破る程に体を曲げる彼女。このまま放っておけば、こいつ頭から下に落ちるんじゃないか。そんな期待を少しばかりしていたら、
ふと、閃いた。
「おい」
「え、あ、はい。なんですか?」
「いっそ荻原さんはどうだ」
「お……おぉっ、成る程っ! 確かに荻原さんカッコイイし、大人な雰囲気が私の好みにドストライクですし。うんうん、そうですねっ。じゃあ荻原さんに言い逃げしてみますっ!」
拳を握りしめ、声も高らかに宣言する。
だが、すぐに勢いは落ち、少し不安げに眉を下げた。
「もし……これで駄目だったら、私、告白した損になりますねー、あははー」
「……まぁ」
「しかも相手は、私のことなんか全然見えなくって、告白されたことさえ気付かなくって……それでも、未練って晴れるもんなんですかねぇ……」
「……要は気持ちだろ、お前の」
「……そうですかね」
「やらないよりマシ」
「……そうですね」
「それで盛大に恥をかいてきたら、僕は面白いと思う」
「あれ、可笑しいな。ここは励まされるシーンなはずなのに」
へらりと締まりのない顔を晒して、僕達はまた口を閉じた。
観覧車が、ゆっくりと地上へ近付いていく。
心地のいい沈黙が、部屋の中に漂った。
「……ねぇ翔太くん」
「……なに」
「失恋したら、慰めてくれますか?」
「……特別にタルトタタン作ってやる」
「……へへ、やった」
観覧車のドアが開く。係の人におかえりなさいと言われつつ、地面へと足を付けた。
「ヘップー、ただーいまー。……いやー、素敵なことどころか甘い雰囲気さえなかったよー。いつも通りのドエスに散々いびられて、あろうことか好きな人を暴露させられる羽目に……ちょ、だろうなってどういうことよぉっ!」
騒ぐゴリラ属に近付き、スマホの画面を向ける。
『なにか食べたい』
「あ、じゃあどこかで休憩しましょうか。それで暗くなったところを見計らって、もう一回スピード三兄弟に乗りますよっ! ……え? ……ヘップは、どうだろうなー。流石に犬は乗れないんじゃない? ……じゃあ一回だけチャレンジしてみようか、ね。はいっ、じゃあそういうことで、行きましょうっ!」
浮足立つ彼女を先頭に、一番近い売店を目指した。
◆ ◆
白くモチモチとしたバンズ。その真ん中に横たわる太ったソーセージ。上にはケチャップとマスタードが掛かっており、見た目はどう頑張ってもただのホットドッグだ。
だが一口食べれば、ソーセージから溢れる肉汁と、その下に潜む千切りキャベツの食感が噛む度に混ざり合い、あとを引く美味さを僕に知らしめてくれた。
熱いだろうからと敬遠していたが、これは熱々だからこそ食べる価値がある。すぐ隣で展開される所詮ガールズトークなるものも気にならない程、僕は夢中でホット“ブル”ドッグに齧り付いた。
「でさー、翔太くんがねー、『いっそ荻原さんはどうだ』って言ってさー。それだっ! って思ってー。今度荻原さんに会ったらー、私告白してみようと思うんだー。……だよねだよねっ! 告白なんて生まれてこの方初めての経験ですから、もードキドキだよぉ。あー、なんて言えばいいかなぁ……えー、それはちょっと大胆なんじゃなーい? ……まぁ、そうかもしれないけどぉ……うん、うん……あぁーんどうしようっ。荻原さんを前にして、私ちゃんと言えるかな? ……あぁーん不安になってきたぁーっ。ねぇヘップー、お願いだから一緒に付いてきてよぉ。……いいじゃーん。ほらぁ、私が緊張して言葉が出なかった時にさ、『大丈夫だよ麻美、絶対上手くいくってっ!』みたいな感じで勇気付けてくれたりさぁ……そうそうっ、そんな感じでっ! ……いいねいいねぇっ! よぉーしっ! じゃあ私、次に荻原さんと会ったら絶対に告白するっ! ここに告白宣言しちゃうからねっ! ヘップッ、ちゃんと見届けてちょうだいっ!」
五月蝿い。
咀嚼を繰り返しながら、横に座る彼女を睨み付けた。
「……あれ、田中くん?」
唐突に、名前を呼ばれた。
反射的に顔を向けると、そこには今話題の荻原さんが偶然にも立っていた。
女の人と、手を繋ぎながら。
「……こんばんは」
「こんばんは。あれ、一人?」
「……今、友達を、待っていまして」
「あぁ、そっか。ごめんごめん。そうだよね。流石に遊園地に一人はないよね」
笑顔で放たれた言葉が、胸に突き刺さる。
「コウちゃん、どなた?」
「あぁ、うん。彼がほら、前に話した田中くん」
「え、この子がそうなの? うわー、そうなんだー。こんばんは、はじめましてー」
「あ……はじめまして」
妙に友好的な笑顔に、少し戸惑う。
「あ、ごめんなさい馴れ馴れしくって。よく話を聞いてるから、初対面な気がしなくって。この人ったら、週に一回は『田中くんがね』って言うんですよ?」
「ちょ、ちょっとちょっと。本人の前で言わないでよ」
「いいじゃない」
とても仲良さそうに話すお二人に、嫌な予感が胸を過ぎる。
「あの、荻原さん。失礼ですが、そちらの方は……」
「あぁ、うん。あの、僕の彼女。今度、結婚するんだ」
照れくさそうに頬を掻く彼に、一瞬、思考が停止した。
それでも、どうにか祝福の言葉を述べれば、彼女さんともども、ありがとう、と返された。幸せそうな、見ているだけで心が温かくなるような、柔らかい雰囲気を纏いながら。
僕の中のなにかが膨らむ。お二人の空気に当てられる度に、それは重く、大きくなって、僕に圧し掛かった。
隣に座る彼女の顔が、見れない。
そんな自分を誤魔化すように、なんとなく、口を開いた。
「……なんか、あれですね。荻原さんが半袖着てると、変な感じしますね」
心底どうでもいい話だが、こんなことでも言ってないと、なにかを口走ってしまいそうで。
「田中くんと会う時は、いつもカーディガンを着てるからね」
彼は笑いながら腕を擦った。その拍子に、右手首に付けていたブレスレットが揺れる。
彼女さんの左手首にも、同じデザインのブレスレットが揺れていた。
「じゃあ、僕達そろそろ行くね」
それを合図に頭を下げる。歩き出したお二人。繋がれた手首が交差して、互いのブレスレットが軽くぶつかった。
……隣の彼女を、視界の外れでそっと盗み見る。
幸せそうな後ろ姿を、ただただ見つめていた。
そこに、感情は見えなかった。
彼女の胸の内は、分からなかった。
なんとなく、声を掛けられない。
だからなにも言わず、ホットドッグを小さく齧る。
夕陽がほぼ沈み、辺りは薄暗くなってきた。まだまだ閉園には程遠いが、退場ゲートへと向かう客がちらほらと目立ち始める。
「……翔太くん」
ぽつりと、彼女は呟いた。
「……私、行ってきます」
『どこに』
「……荻原さんのところ」
『なにしに』
「……告白」
『失恋確実だぞ』
「……そうですね」
『やらないよりマシどころか、やるだけ無駄なんじゃないか』
「……そうですねぇ」
ふと、大人びた顔で笑い、
「でも」
彼女は立ち上がる。
「……要は、気持ちですから……やるだけやってみます」
僕の方なんか一度も見ずに、
「ヘップー、私やっぱり一人で行くねー。……うん……でもさ、ほら、恥ずかしいじゃん。フられるの分かってるんだからさ。……うん、ありがとう」
荻原さん達が消えた方へ歩き出した。
「……おい」
彼女は立ち止まらない。
「……おい……っ」
彼女の足は、止まらない。
「……今日の……今日のタルトタタンはっ、最高級のリンゴを贅沢にも六個使ってあるっ」
彼女の足が、止まった。
「しかも生地にはドルチェと全粒粉を八対二の割合で使用してあり、更には横にバニラアイスも添えてあるっ。頬どころか骨ごと溶け落ちるであろう、タルトタタン好きには堪らない一品だっ」
彼女は振り向かない。
「僕の予想だと、恐らく二十二時半が食べ頃だっ。サクサクしっとりとしたタルトタタンは、そりゃあもう美味いだろうなぁっ。想像するだけで涎が零れ落ちそうだっ」
それでも彼女は振り向かない。
だが、小さく笑った。
「……今日は、タルトタタンなんですか?」
「……タルトタタンの気分だったんだ」
「もう作ってあるかのように喋ってますけど、それどう考えても嘘ですよね」
「そんなことない」
「だって今日は、朝から遊園地に来てたじゃないですか」
「昨日の内に仕込んでおいたんだ。家に帰ったらオーブンの中に転がってる」
「じゃあ、今すぐ行ってもいいですか?」
「……僕の予想だと、恐らく二十二時半が食べ頃だ」
しばし間が空き、それから笑い声が聞こえた。
「二十二時半ですか。そんな時間に食べたら太っちゃいますね」
「……仕方ないだろ。その時間が一番の食べ頃なんだから」
「……そうですか」
ようやく、彼女が振り向いた。
「じゃあ失恋したら、二十二時半頃食べに行きますねー」
いつも通りの馬鹿丸出しな笑顔を浮かべ、彼女は僕に手を振った。
不自然なくらい、いつも通りだった。
小さくなるセーラー服を眺めながら、残りのホットドッグを、口の中に詰め込んだ。
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