第五章
1
急に、右足が動かなくなった。
近頃はもうこの感覚に驚かなくなった自分がいる。一つ溜め息を零して、一応、下を確認する。
案の定、そこにはなにもいなかった。
「はいはーいっ! あ、翔太くん見つけてくれたんだー。ありがとうねー、ヘップー」
足元のなにかを撫でる仕草をする。僕はそれを一瞥し、ポケットからスマホを取り出した。
「こんにちは翔太くん。ねぇねぇ、聞いて下さいよー。私、昨日は母方のおばあちゃんに会いに行ってみたんですよ。けど結果は見ての通り、残念ながら成仏出来ませんでしたー。でもめげずに、次は回らないお寿司の食べ放題に挑戦しようとしたんですよね。で、早速天使さんにお願いしたんですけど、漁獲量の減少とそれに伴う物価の高騰を切々と語られてしまい、敢えなく断念となりましたー」
ここ最近、彼女は僕を見つけると、小さい子供のように一日の出来事を逐一報告してくる。やれコンサートに行った、やれフォアグラを食べた、と淀みなく喋っては付き纏った。
僕はそれを、スマホ片手に聞き流す。
「うーん、次はなにしようかなー。『デラックスパフェを一人占め』なんかステキですけど、お焚き上げするの大変そうですしー……『世界一周』はそんなに興味ないしなー……うーん」
僕が写してやったアンケート結果とにらめっこしつつ、今後の計画を立て始めた。太陽に焦がされながら、そんなことは一人でやれやと心底思う。
汗が、顎を伝った。
「……おい」
「あ、はい。なんですか?」
「離せ」
「えー、もう少しお話しましょうよー」
「暑い」
「あ、じゃあ向こうの木陰に行きましょうか」
「断る」
えー、と不満げな彼女を睨み付ければ、渋々といった風に右足にいるなにがしを退かした。
スマホを仕舞い、さっさと歩き出す。
「ねぇねぇ翔太くん。今日はどこに行くんですか?」
「……図書館」
「へー、なにを借りるんですか?」
「本」
「いや、そりゃあそうでしょうけども」
「予約してた本」
「あ、図書館って予約とかも出来るんですねー。全然知りませんでしたよー」
横でなにやら言ってくる彼女を見ることなく、蝉の鳴く道を突き進んだ。
「……もしかしてその予約してた本って、お菓子のレシピ本だったりします?」
「そう」
「ということは、翔太くんまたなにか作るってことですよね?」
「……まぁ」
「いいなー、食べたいなー」
なにかを期待するような視線を向けられる。
「翔太くんのお菓子って、とーっても美味しいんですよねー」
媚びる姿勢で、僕の周りをちょこまかし始めた。
「この前くれたシフォンケーキも絶品だったなー」
あれはやったんじゃない。お前らが勝手に集ってきただけだ。
「ヘップも翔太くんのお菓子大好きだよねー。おー、そうかそうかー」
特にこの犬は、僕がなにかを作っていると高確率で嗅ぎ付けてくる。そしてあれこれ悪知恵を働かせては、僕の作品を消し炭にしていくのだ。
「あーぁ。翔太くんのお菓子を食べたらー、私嬉しすぎて成仏しちゃうかもしれないなー」
……色々言いたいことはあるが、それらは全て、溜め息に乗せて吐き出した。
「……気が向いたらな」
「わーいっ! ありがとうございまぁぁぁぁっすっ!」
諸手を上げて飛び跳ねる彼女をちらと見やり、滲む汗を拭い取る。
◆ ◆
「あ、やぁ田中くん。こんにちは」
料理コーナーへ行くと、そこには荻原さんがいた。カートから本を取っては棚に戻す作業を繰り返している。その胸元には、相も変わらず不細工なマスコット付きボールペンが鎮座していた。
ギャグのつもりなのかなぁ、と内心思いつつ、今日も特にツッコむことなく挨拶を返しておいた。
「予約の本を取りに来たの?」
「はい。あと、他にも見たくて」
「そう。相変わらず熱心だね」
微笑ましげな目線を食らい、咄嗟に顔を棚へと向ける。
「どう? コンクールの方は」
「……難航してます」
「そっか。まぁ、そう簡単にはいかないよね。締切は九月のいつだっけ?」
「九月の十日です」
「じゃああと一カ月か。うーん、長いようで短いね」
「でも、なんとなく方向性は見えてきたので、どうにかなると思います」
「そっか」
彼は柔和に笑い、カートに手を掛けた。
「納得のいくものが出来るといいね」
「はい」
カートを引く荻原さんに会釈をし、僕はレシピを物色し始める。
「……翔太くん翔太くん、ねぇねぇ」
いつもよりいく分も小さな声で、彼女が僕を呼ぶ。
お前が声を潜めたところで誰にも聞こえちゃいないだろうと思いながら、返事代わりに目線をくれてやった。
「今の人、カッコイイですねー。なんていうお名前なんですか?」
妙に目を輝かせる彼女に呆れつつ、スマホに答えを打ち込んでやる。
『荻原さん』
「え、これなんて読むんですか? おぎわらさん? はぎわらさん?」
『おぎわらさん』
「あー、これでオギワラって読むんですか。で、下の名前は?」
『知らない』
「ちょっと聞いてきて下さいよー」
『嫌だ』
「えー、なんでですかー?」
『面倒くさい』
「いいじゃないですかー、ねぇねぇー」
テンションがいつもの二割増しでウザい。なので、無視してレシピ探しに集中する。
「翔太くん? 翔太くーん……無視ですか。いいですけどね、慣れてますから。いやー、しかし沢山ありますねー。『優しいお菓子の作り方』『夏に食べたいゼリー・ムース』。あ、これなんか、丸々一冊プリン尽くしですって。プリンなんてそんなに種類あるんですかね?」
五月蝿い。
もう少し静かにしろ、という旨の文章を端的に打ち込んで、見せる。
「あ、はいすいませーん、黙りまーす」
口を押さえてアピールする彼女。それにふと溜め息を吐き、また本棚に意識を戻した。
心地いい静寂が、場に落ちる。
「……ん、なによヘップ……え、抱っこぉ? やだよー、だってヘップデブじゃん。……そりゃあ、犬目線だと下の列しか見えないだろうけどさー……いや、頑張ってジャンプしてみなよ。この空いてるところに乗れば、上の方も見放題に……あー、そっかー。足の長さがなー」
隣から、なんか聞こえてきた。
そっと視線を下げれば、彼女が地面と会話していた。
「……はぁー、しょうがないなー。ちょっとだけだよ? ……ふんぬうぅぅぅぅっ! ど、どうヘップッ? 見えたっ?」
セーラー服の女子高生が、突然重量挙げのパントマイムを始めた。
「もういいっ? いいよね、下ろすよっ! え、まだっ? まだってどういうことっ!? いやヘップちゃん、わ、私、もう腕が限界でっ……え、なにっ? それっ!? それってどれよっ!? ていうか、いい加減下りてくれないかなっ! いや、やだじゃなくてっ!」
全身を震わせて、彼女は初めて会った時そっくりのゴリラ顔を披露する。
「へ、ヘップちゃんやっ! お願いだから下りてちょうだいっ! 見てよこの小鹿の如く震える細腕をっ……え、なにっ? だからそれってどれよぉっ! 大事なことは言葉にしないと伝わらないんだからねっ! ……それねっ? それでいいのねっ!? しょ、翔太くんっ、翔太くんっ! お手数ですが、二段目の左から十二番目にある『彼もときめく☆メロメロスイーツ』って奴取って下さいっ! なんかヘップが見たいらしくてっ! ……あ、あれっ? 翔太くんっ? しょ、翔太くんっ? え、聞こえてますよねっ? その顔は絶対聞こえてますよねっ!? ねぇってばっ! ちょっ、もしもぉぉぉぉぉしっ!」
面白いから、もう少し放っておこう。
◆ ◆
「貸し出しと、予約の本お願いします」
「はいはい」
荻原さんは僕の利用カードを受け取ると、スタッフルームに引っ込んだ。
「うぅ、ヒドいですよ翔太くん……ドエスですか翔太くん……ドエスですね翔太くん……」
横から恨みがましい声が聞こえてくるが、なんてことない顔で受け流した。
「無視ですか……くそー……いい、ヘップ。あんたがあの本を読めるのも、ひとえに私の頑張りのお陰なんだからね。ちゃんと感謝してよねっ。……軽っ! え、感謝軽っ!」
相変わらずの舐められっぷりに、内心鼻で笑う。
と、不意に寒気が襲った。
カウンターの上からは、冷気を纏った風が勢い良く吐き出されている。
一瞬、パーカーを羽織るという考えが過ぎるも、すぐ外に出るのだからと思い直し、鳥肌の立つ腕を擦って耐えることにした。
「はい、お待たせしました」
本を片手に荻原さんが戻ってきた。自身を抱きしめて揺れる僕を、不思議そうに見やる。だがその理由に思い当ったのか、すぐさま苦笑いを浮かべた。
「あぁ。ここ、エアコンの真下だから寒いよね」
彼は椅子に座り、慣れた手つきでバーコードを読み取っていく。
「僕もこのカーディガン着てないと、カウンターに長居は出来ないよ」
「……ここって、なんでいつも寒いんですか」
「館長が凄く暑がりな人でね。これくらいやらないと、涼しくないんだって」
「……要望を出せば、どうにかなりますかね」
「うーん、どうだろう。でも、一応伝えておくよ」
「お願いします」
雑談しつつ、荻原さんの手元を眺める。
すると、彼の動きが急に止まった。
視線の先にあるのは、『彼もときめく☆メロメロスイーツ』なるふざけたタイトル。
変な沈黙が、僕らの間を横切った。
「……たまには、そういったものも、読んでみようかと思いまして」
「あ……そ、そうなんだ」
「……もしかしたら、なにか、ヒントになるかもと思いまして」
「そっか、うん……」
疾しいことはなにもないはずのに、何故か荻原さんの顔を見れなかった。
「……田中くん」
「……はい」
「……コンクールのお菓子、本当に煮詰まってるんだね」
「……まぁ」
「……もし、僕に出来ることがあれば協力するからさ、遠慮なく言ってね」
荻原さんの気遣いが、妙に心を深く抉る。生温かい眼差しに、誤解だ、と声を大にして叫びたい。だが、ぐっと堪えた。
「……ありがとうございます」
どうにかそれだけ絞り出し、この思いの丈を、足元にいるであろう犬へとぶつけた。
「ちょ、翔太くん足がっ! おみ足がヘップの頭に突き刺さっておりますっ!」
五月蝿い。
「……はい、計七点貸し出しです。来週の十三から十五日は、当館お盆休みとなりますので、ご来館の際はお気を付け下さい」
「はい、ありがとうございます」
本を受け取り、リュックに詰める。それを背負い上げながら会釈をして、僕は出口へ向かって歩き出した。
しかしすぐに立ち止まり、荻原さんの元へ舞い戻る。
「あれ、どうしたの?」
首を傾げる彼を前に、一拍、言い淀んだ。
「……あの、荻原さん。突然なんですけど、質問いいですか」
「うん、いいよ」
一つ呼吸をして、ゆっくり口を開く。
「……荻原さんの下の名前、なんですか」
◆ ◆
「ふんふんふーん、ふふんふんふーん♪」
僕の前を、馬鹿丸出しな鼻歌とともにスキップする馬鹿が先行する。
「ふふーん、コウイチさんかぁー、ふふふーん♪」
ご機嫌な彼女がターンした拍子に、にやけ切った顔と対面してしまった。
「荻原浩一さん。うーんちょっと古風だけど、でもカッコイイ名前だよねー。ヘップもそう思わない? ……だよねーっ! こう、大人の余裕ってゆーの? それが全身から滲み出ててさー。なのにブルリンのボールペン使ってる辺り、可愛いってゆーか、ギャップ萌えってゆーか……うんうんっ、分かる分かるーっ!」
なんか、犬相手に盛り上がり始めた。五月蝿いなと眉を顰めつつ、リュックからレシピの本を取り出す。
「もし付き合うならさー、ああゆう優しくてー、一緒にいると癒される感じの人が一番だと思うんだよねー。……えー、なになにー、ヘップってそういうタイプのオスが好みなの? うわー、いがーい。え、ちょっとー、なに照れてんのさー、デブのくせにー痛たたたたたっ! え、嘘でしょヘップ。ちょ、照れ隠し激し過ぎだってっ! 待っ、うおあぁぁぁぁぁっ!」
突然叫んだかと思えば、一人で楽しそうに走り始めた。なにやってんだこいつ。呆れ交じりの溜め息を吐き、次のページに目を落とす。
「わ、私が悪かったからっ! 全面的に私が悪かったから落ち着いてっ! ……ふぃー……あーぁ、でも荻原さんって本当カッコイイなー。彼女とかいるのかなー? ねぇ翔太くん、知ってます?」
「……知らない」
「そうですかー……歳はいくつなんだろー? 見た目からして十歳は離れてないと思うんだけど。ねぇ翔太くん、知ってます?」
「知らない」
「そうですかー。はぁー、年上の彼氏とか憧れますよねー。こう、学校終わりに校門の前まで車で迎えに来てくれたりして。で、『あの人カッコ良くない?』『誰か待ってるのかな?』『えっ、麻美の彼氏なのっ?』『うっそーっ、超カッコイイじゃーんッ!』みたいな羨望の眼差しを一身に浴びて、私は颯爽と助手席に乗り込むんですよっ! で、で、集まる野次馬に手を振って、ドライブデートに出発進行っ! 良くないですかっ? 超良くないですかっ!? あ、でも荻原さんって車の免許持ってるのかな? ねぇ翔太くん」
「知らない」
「まぁ、別に車でお迎えはなくてもいっか。はっ! でも荻原さんって、女子高生は許容範囲かな? 若さには自信あるけど、でも色気は皆無だし……ねぇ翔太くん。荻原さんって、どんなタイプの女性が好み」
「知らない」
「じゃあ女子高生はストライクゾーンに入ってるのか否か」
「知らないし、そもそもお前幽霊だろ」
「なに言ってるんですか翔太くん。人を愛するのに、男も女も、生も死も、なにも関係ないんですよっ!」
得意げな顔で踏ん反り返る彼女。
冷たい一瞥を食らわせ、すぐさまレシピに意識を戻す。
「あー、また会いたいなー。ねぇねぇ翔太くん。次はいつ図書館に行くんですか?」
「……多分、お盆明けの十六日」
「十六日かぁ。じゃあ、荻原さんに会えるのは来週ですねー」
当然の如く言われた言葉に、つと思考が止まる。
「……お前、まさか僕と一緒に行く気なのか」
「え、そうですよ」
「なんで」
「なんでって、え、逆になんで一緒に行かないんですか?」
「お前五月蝿い」
「じゃ、じゃあ、静かにしますっ」
「犬も面倒くさい」
「ヘップもいい子にしますっ。ね、ヘップッ」
「一人でゆっくりしたい」
「じゃあ、じゃあ……あ、翔太くんが本を見ている間、私は荻原さんを観察してますっ」
「気持ち悪」
「あれ、唐突に悪口言われた」
そんな押し問答を繰り返していると、ふと、ある疑問が頭を過ぎった。
「おい」
「はい、なんですか?」
「お前、お盆は実家帰るのか」
前を行く彼女は、なにも答えなかった。
僕の質問などなかったかのような態度で、只管夕陽に向かって歩くだけ。
その背中をちらと見やり、またレシピへと戻った。
静かな空間が、続く。
そろそろ駅に着く頃となり、僕は本をリュックにしまった。代わりに定期入れを掴み取る。
すると、不意に、彼女が立ち止まった。
つられて僕も、立ち止まった。
「……お盆に帰る帰らないは、希望制なんですよ」
彼女は前を見ながら、独り言のように語る。
「帰りたい人もいれば、帰りたくない人もいますから」
僕の位置からでは、
「……帰らない人もいれば、帰れない人もいますから」
彼女が今、どんな顔をしているか分からない。
「幽霊にも色々あるんですよ」
「……そう」
でも、
「……じゃあお前は」
なんとなく、
「帰れないのか」
なにかを我慢しているように見えた。
「……帰らないつもりですよ」
彼女は振り向いた。
「だって、みんなの悲しい顔見るの、辛いじゃないですか」
でも夕焼けが逆光になって、やはりどんな顔をしているのか分からない。
「……ふーん」
僕は止めていた足を動かし、前に立つ彼女を追い越した。
駅に向かって一人歩く。
後ろから追い掛けてくる気配は、なかった。
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