2
タイマーの音が響く。蓋を開けると、中からリンゴの甘く香ばしい香りが、台所一杯に広がった。
ミトンを装備して、熱された型を掴む。そのまま作業台まで運び、上から大皿を被せて一気にひっくり返した。本当なら一晩ゆっくり冷ましたいところだが、まぁこいつらに食わせるんなら、多少形が崩れてても問題ないだろう。
熱々の表面に四苦八苦しながら、八等分に切り分ける。その中で一番と二番目に汚いピースを皿によそり、後ろのテーブルで待機している彼女と、犬がいるであろう場所に、それぞれタルトタタンを置いてやった。
フォークは置かない。手掴みで食べろ。
「うわぁー、いい匂い……これですよー、私が食べたかったのはー。あ、ヘップ、よだれよだれ」
彼女はなにもない空間に手を伸ばし、なにかを拭う仕草をした。それを眺めつつ、エプロンを外す。僕は自分の分のタルトタタンを手に、彼女の正面へ腰を下ろした。
出来たてのそれにフォークを突き立て、食べる。
リンゴの食感良し。
タルト部分良し。
キャラメルはもう少し苦い方がいい。
全体的に砂糖が少なかった気がする。いや、でもこのくらいの方がリンゴの甘みと酸味が引き立つか。
神経を集中して、目の前のこいつをこと細かく分析していく。
今は温かいから、アイスなんか添えてもいいかもしれない。そう思い立ち、冷凍庫からバニラアイスを取り出した。
カップの三分の一ほどを皿に乗せると、溶けた部分とリンゴが混ざり、とてつもなく美味そうだ。思わず唾を飲み込んで、先程の席へ戻った。
前を見れば、二切れの崩れたケーキは、未だ手つかずのまま置かれていた。
「……さっさと食べろよ」
「あ、そうですね。じゃあ早速お願いしますっ!」
彼女はそう言って、へらへら笑いながら姿勢を正した。
なにしてんだこいつ。様子からして、僕になにかを求めているようだが。
……もしかして、フォークか。
沈黙が過ぎる中、しょうがないと溜め息を吐き、食器棚から持ってきてやった。目の前に叩き付ける。
それでも、彼女は食べなかった。犬の分も、一向に減る様子はない。
沈黙は続く。
……なんか、苛々してきた。
「……あ、そっか。翔太くん、生きてるから分かんないですよね。あのですね、私達幽霊は、このままじゃ食べられないんですよ。ほら、貫通しちゃうんで」
彼女はタルトタタンを指で突き刺した。
しかしリンゴに穴が開くことはなく、指自体が皿ごと通り抜ける。
「ね? なので、翔太くんにこのケーキをお焚き上げして欲しいんです」
「……お焚き上げ」
「はい。そうしたら、こう、タルトタタンが成仏したーみたいな状態になって、幽霊でも食べられるようになるんですよ」
「ふーん」
「そんなわけで、これ、燃やしちゃって下さいっ!」
満面の笑みで彼女が示したのは、僕がわざわざ作ってやったタルトタタン。
青筋の立った音が、米神から聞こえた気がする。
「……つまりお前は、人様が作ったものを消し炭にしろって言ってるんだな」
「おおおおお怒りはごもっともですっ。でもそうしないと、私達食べられないので……け、決して無駄にするわけでもないですし、そ、その」
馬鹿言うな。なにが悲しくて自分の作品をゴミにせねばならんのだ。
どもる彼女と、断固拒否の姿勢を崩さない僕。無言の攻防を繰り広げる。
と、唐突に、僕の体が動かなくなった。
次いで、自分の意志とは関係なく足が動き出し、両手はキッチンの引き出しを漁り始めた。マリオネットの如く振り回される感覚に、気持ち悪さが込み上げてくる。
「あっ、ヘ、ヘップッ! 止めなさいっ、なにやってるのっ!」
彼女の焦った声が聞こえる。でも僕の周りを動き回るだけで、この状況をどうにか出来そうな感じは一切見受けられない。
「ほら、ヘップっ! ハウスッ! ハーウースーッ! あ、しまった。ヘップなにも芸やらないんだった。ど、どうしよう」
「おい……っ、これどうなってんだ……っ!」
「え、あ、あの、それはですね……あっ、ヘップッ! ダメだってッ! いい子だから止めなさいっ、ね? ほら、あとでカボチャあげるから……え? ……まぁ、そりゃあどっちかって言うと、タルトタタンの方が美味しいけど……あっ、やっぱ今の嘘っ! ケーキなんかよりカボチャの方が断然美味しいよっ! あ、ちょっと、ヘップ聞いてる?」
こいつ本当馬鹿だな。なんで犬に丸め込まれてるんだよ。
心底冷めた目線を彼女に食らわせていれば、目当てのものを見つけたのか、手になにかが握られた。視線を戻す。
チャッカマンだ。
それを持ったままテーブルに戻らされるや、強制的に、僕自らの手で、犬の分のタルトタタンへ火を点けさせられた。
皿の上のケーキが、燃える。
砂糖の焦げる甘い匂いが、辺りに充満した。どんどん甘みが苦味に変わっていき、最後には、真っ黒い、無残な塊へとなり果てていった。
途端、体の自由が戻ってくる。
だが同時に、言いようのない疲労感も押し寄せてきた。
目の前が、白くぼやける。
立っていられなくて、僕はその場に座り込んだ。
「ヘッ、ヘップッ! あんた、本当なにやってんのバカッ! 美味いじゃないでしょっ! 暢気なこと言ってないで、さっさと謝りなさいっ! ……あ、あの、大丈夫ですか、翔太くん。私が言ってること、分かりますか?」
固く目を瞑って、頭の眩みをやり過ごす。数秒静かに呼吸をし、それから、ゆっくり、目を開ける。
僕の横では、彼女が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「……今の、なに」
「え、あ、い、今のですか? 今のは、その、ヘップが翔太くんに、憑依した、というか、そんな感じです」
「……憑依」
「あ、あのっ。もう、二度とこんなマネしないよう、ヘップにはきつーく言い聞かせますので、どうか許してやって下さい。ほらヘップおいでっ! あんたも一緒に謝るのっ! やだじゃないでしょっ! ……こんのぉ、我儘ブルドッグめぇ……っ!」
彼女は、椅子の上からなにかを引きずり下ろすパントマイムを始めた。押し問答のようなやり取りを交えつつ、僕の目の前までなにかを引き摺ってくる。
「本当にすいませんでしたっ! この通りヘップも謝ってますし、一見ふてぶてしい顔をしてますがこれは生まれつきで、本当はすんごく反省してるんですっ! ねっ、ヘップッ! ほら、もっと頭下げてっ!」
彼女は正座しながら、傍らの空間を下へ下へと押し込んでいる。
正直、見えてないからなんの感慨も湧いてこない。でも彼女の言動から察するに、こいつは僕の体を好き勝手にした挙句、不本意丸出しでふてぶてしく頭を押さえ付けられているようだ。お前らの為にタルトタタンを作ったやった僕に対して、だ。
躾のなってない犬だ、と大きく溜め息を吐き出す。
そして犬のいるであろう場所目掛け、迷わず拳を叩き落とした。
「ヘ、ヘェェップゥゥゥゥゥーッ!」
騒ぐ彼女の声が妙に清々する。一つ鼻を鳴らして、僕は席に着いた。
「しょ、翔太くんっ! いくらなんでもこれはやり過ぎだよっ! ヒドいっ! 動物虐待っ!」
「五月蝿い」
「あ、ごめん」
「敬語」
「あ、すい」
「質問がある」
「あ、はいどうぞ」
「その憑依って奴のせいで、僕は眩暈を起こしたのか」
「そう、だと思います。原理はよく分からないんですけど、天使さん曰く、『憑依中の人間と幽霊を例えるなら、妊婦と胎児』、らしいので」
「……どういう意味」
「いやー、私にもさっぱり」
笑って誤魔化す彼女に冷たい一瞥を送り、アイスとリンゴを一緒に頬張った。
うん。予想通り、美味い。
「……美味しいですか?」
「ん」
「……いいなー」
意味ありげに、僕を見つめる。
「……私、タルトタタン大好きなんですよねー」
なにか言いたげに、僕を窺う。
「……ヘップー、タルトタタン美味しかったー? ……そっかー。いいなー、私も食べたいなー」
遠回しに催促してきた。
「……熱々のリンゴにアイスなんか添えちゃって、想像するだけで美味しいじゃないですか……はぁ、見てるだけってなんて辛いんだろう……そうか、ここが地獄だったのか」
「五月蝿い」
大人しくなった。
が、視線はもの凄く五月蝿い。燦々と降り注ぐ恨めしげなオーラが、頻りに食べたいと自己主張を繰り返す。
沈黙。沈黙。沈黙。
のち、僕の溜め息。
前を見れば、お預け食らった犬みたいな顔で、彼女はテーブルに顎をくっ付けている。
「……お前、皿は貫通するくせに、なんでテーブルには顎を乗せられるんだよ」
「……その疑問に答えたら、このタルトタタン、お焚き上げしてくれますか?」
無言でもう一口。今度はタルト部分とリンゴを頬張った。
「……なんかこう、『座るぞー』とか、『乗せるぞー』とか気合い入れれば、意外とどうにかなるもんなんですよ」
なんか勝手に答え始めた。
「……このタルトタタン、私は持てるぞー……ダメかー……このタルトタタン、私は食べられるぞー……ダメかー……どんなに想いが溢れていても、気合いではどうにもならないことってあるんですね、翔太くん……あぁ、なんて世知辛い世の中なんだろう……」
彼女はテーブルに顔をめり込ませて、悲壮感たっぷりに左巻きの旋毛を見せつけてくる。
もう一度、深い深い溜め息。
のち、チャッカマンで火を点けてやる。
「ありがとう翔太くんっ! さっすが翔太くんっ! 優しいぞ翔太くんっ! 私が生きてたらきっと惚れてるっ! ふぅーっ、結婚してっ!」
「断る」
「そんな顔しないで下さいよ。幽霊だって傷付くんですからね」
二切れも消し炭にしてしまい、僕の機嫌は急降下。他愛のない戯言でも気に障って仕方がない。
焦げくさい匂いに顔を顰め、八つ当たりのように思い切りリンゴを突き刺した。
「……お、おぉぉぉぉっ! うひゃー、美味しそうっ! いっただっきまぁーすっ!」
彼女は待ちきれないとばかりに鷲掴むや、女子らしからぬ豪快さでタルトタタンに齧り付いた。
「んぐっ! ……くぅぅぅぅぅっ! 美味っ! 美味ですぞ翔太くんっ! リンゴの酸味と程良い食感。タルトのサクっとホロっとした歯触り。その二つをキャラメルが懸け橋となって出会わせ、混ざり合い、高め合い……誠に最高でございまぁぁぁっすっ!」
顔が変形するのもお構いなしに、彼女は大口を開いては自身の中へ詰め込んでいく。その不細工な面を、真っ向から見せられる僕。
こいつ本当に女かと疑いつつも、自分のお菓子でこれだけ喜ばれるのは、まぁ、悪い気はしない。
「……美味いか」
「ん、んぐっ! ……そりゃあもうっ! こんなに美味しいタルトタタン食べたのは久しぶりですよっ!」
口の周りをカスだらけにして、彼女は僕に笑ってみせた。
こいつ、本当に女か。
「でも……んー、これじゃあなかったみたいです」
幸せそうな笑みが一転、残念そうな笑顔へと変わった。
「もしかしたら、これが私の未練かもって思ったんですけどねー」
もう一口、今度は味わうように、小さく齧った。
なんとなく、無言になる。
静かな空間が広がり、時折食器の当たる音が響いた。
「……この前成仏したおじいちゃんの話なんですけどね」
彼女が、ぽつりと呟いた。
「ジャムパンが大好きで、死ぬ間際も食べてたらしいんですよ。でもジャムの部分に到達する前に力尽きちゃったみたいで、それが心残りで仕方ないって同じ話を延々繰り返しては嘆くんです」
話に耳を傾けながら、リンゴに溶けたアイスを塗す。
「それで、天使さんがジャムパンを持ってきてくれたんですけど、もう狂喜乱舞ですよ。入れ歯が外れるのもお構いなしにかっ食らって、そしたら、スッと消えたんです。あー、成仏したんだなー、って思って、なんか……自分の未練が分かってるって、なんか、いいなーって」
そして彼女は自嘲すると、また一口頬張った。
沈黙が戻ってくる。
「……未練って」
なんとなく。
「え?」
「……未練って、例えばどういうのがあるの」
なんとなく、口をついた質問。
別に意味なんかない。
なんとなく。
なんとなくだ。
「……そうですねー。まぁ、何々が食べたいーとか、どこどこへ行きたいーとかが多いですかね。他にも何々が欲しいーとか、誰々に会いたいーとか……あ、この前なんか、『世界征服したい』って言って、天使さんを困らせた男の子がいましたよ」
「ふーん」
「でも世界征服なんて無理じゃないですか? だから他の未練にしなさいってショートケーキ片手に天使さんが説得したんですけど、そしたら今度は『じゃあ正義のヒーローになる』って言うんですよっ。さっきまで征服する側だったのに寝返っちゃってっ! もうどうしようかと思いましたよーっ!」
彼女は膝を叩いて笑った。僕はそれを一瞥し、最後の一切れを口に含んだ。
「で、結局は遊園地でよくやる、ほら、ヒーローショーってあるじゃないですか? あれを見に行ったんですよ。こう、小っちゃい体で腕を組んで、『しょーがねーからこれで勘弁してやるよ』とか言っちゃって。そのくせ、最前列のど真ん中で大はしゃぎしちゃってっ!」
「それで成仏したと」
「はいっ!」
「……未練って、そんなコロコロ変わっていいものなの」
「いいものですよ。そもそも、未練って一個じゃないんです。数は人によって差があるらしいんですけど、その中から実現可能なものをやるって感じですね」
「じゃあ、実現不可能なものもあると」
「はい。液体とか不燃ゴミとか、お焚き上げ出来ないものは基本ダメです。お金が掛かり過ぎるのもダメです。予算の都合があるからって天使さんが言ってました。あとは、生きてる人に迷惑を掛けること、これもいけません。程度にもよりますが、最悪悪霊と見なされて、魂を壊されるみたいです」
「ふーん」
未練を晴らすにも、色々と制約があるらしい。
「ま、大体の場合、天使さんからストップが掛かりますからね。不可能を推し進める人なんて殆んどいませんよ。誰だって、死んでなお死にたくはないですからねー」
そう言って、彼女は残りのタルトタタンを押し込もうとした。
けれどそれは、口に入ることなく忽然と消える。
「あぁぁっ! ヘ、ヘップなにすんのっ! それ私のでしょっ! なんで食べちゃうのさっ! 吐けっ、吐き出せこのデブッ!」
彼女はなにもない空間に腕を回し、締め上げるポーズを取った。
騒がしいそれを眺めながら、心の中でふと思う。
こいつ、犬の吐き出したものを食べる気か。
さり気なく、距離を置いた。
「あ、あぁぁー……私のタルトタタン……いや、美味いじゃないでしょぉ……はぁー……」
「……おい」
「……はい」
「食べ終わったんならさっさと帰れ」
「あ、そうですね……ほら、ヘップ行くよー」
見えないなにがしを連れて、彼女は壁際まで歩み寄った。
「今日はありがとうございました。タルトタタン、とっても美味しかったです。ごちそうさまでした。ほら、ヘップも挨拶して……はい、よく出来ましたー」
足元のなにかを撫でる仕草をする。
「では、お邪魔しました。翔太くんまたねー」
こちらに手を振ると、彼女は壁の方を向き、そのまま通り抜けていった。
静寂が訪れる。
ふと溜め息を吐き、片付けるかと腕を捲くった。テーブルの上には、空の皿と、消し炭の乗った皿が二枚鎮座している。それが目に入るや、自然と顔を顰めてしまう。
きつく寄った眉間の皺を揉み解し、取り敢えず三枚の皿を一纏めにした。
「あ、一つ言い忘れてたんですけど」
壁から生首が生えた。
「あのタルトタタン、生地に全粒粉が混ざってましたよね。あれって私が好きだって言ったから入れてくれたんでしょ? ありがとうございます。翔太くんの心遣い、私とっても」
僕は咄嗟に消し炭を掴み、生首目掛け大きく振り被った。
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