リュックを背負い直し、駅までの道を歩く。終業式の時より更に重くなったそいつは、遠慮の欠片もなく僕の肩に圧し掛かってきた。

 ちょっと借り過ぎたかもしれない。一葉さんに浮かれて勢い付いていたようだ。


「ヘップ、お手。おーて。お手ってば」


 ふと顔を上げると、電信柱のすぐ傍にしゃがみ込むセーラー服が目に入った。頻りにお手と言い続けている。僕の位置からでは背中しか見えず、どこの誰だかも分からなかったが、なんとなく、


 なんとなく、嫌な予感がした。


「もー、なんでお手してくれないの? ほら、お手。あ、じゃあおかわりは? おーかーわーりーっ! ……いや、伏せじゃなくて」


 僕は最大限道の端に寄って、気配を殺し、足早に進んだ。


「ヘップー、ヘップちゃーん。なぁーんも芸の出来ないおバカなヘップちゃー嘘嘘っ、嘘だよっ、うーそだーからーっ! 落ち着いて落ち着いて、どうどう」


 声を聞く限り、どうやら犬を怒らせたらしい。

 馬鹿かと呆れつつちらと見やれば、取り乱す彼女の足元には、犬なんかいなかった。


 なにも、いないのだ。


 ……あいつ、一人であんなにはしゃいでいたのか。

 心の底からドン引きした。


「ほ、ほら、機嫌直して、ね。後で天使さんにお願いして、ジャーキー貰ってくるから……え? あ、あぁっ! こ、こんにちはっ、また会えましたねっ! いやー、私もう毎日あなたを探してて、って、あ、あれ? あの、ちょっとすいません。え、ちょ、ちょっと待って待って待って待ってってぇぇぇっ!」


 さて、帰りがけにスーパーで材料を買おう。


「ねぇっ! 聞こえてますよねっ? これ絶対聞こえてますよねぇぇぇぇっ!」


 無塩バターと、生クリームと、薄力粉も一応買っておこうかな。


「ちょっ、ちょーっ! お願いですから待って下さいっ! 少しで良いのでっ! ほんの少しで良いのでぇぇぇぇっ!」


 先程からなにかが追い掛けてくるが、関わりたくないので僕は只管競歩した。


「うおぉぉぉーっ! ヘ、ヘップーッ、ヘルプーッ! あとでサツマイモあげるからぁぁぁぁぁーっ!」


 彼女の叫びが轟いた直後、突然、僕の右足が動かなくなった。つんのめりそうになるも、なんとか踏み止まる。


「ヘップナイスッ! そのまま押さえといてっ!」


 下を見る。しかし、そこにはなにもいなかった。

 けれど僕の足は、まるで強力な接着剤でも付いたかのように、コンクリートから剥がれない。


 なんなんだ、一体。


「いやー、やっと追い付いたー。あ、こんにちはっ! 一週間ぶりくらいですよね? もー会えなくてとっても寂しかったですよー。ところで今、すんごい怒ってます?」


 僕のこの顔を見て、怒ってないと思えるのかこいつは。


「い、いや、その……す、すいませんでしたぁぁぁぁっ! で、でも、ですね。どうしても、またあなたとお話したくって、あの」


 しどろもどろと言い訳を重ねる彼女に、溜め息が零れる。


「……取り敢えず、この足どうにかして欲しいんだけど」

「あ、そ、そうですよねっ! ほらヘップ、退いて退いて」


 しかし、一向に足は軽くならない。


「……おい」

「いや、わ、私が悪いんじゃないですよっ! ヘップが……え? ……うん……あ、あぁっ! あぁー、はいはいはい……ふふーん、あのー、その足ー、どうにかしたいんですよねー?」


 彼女の態度が、急に変わった。いぶかしむ僕の目にもヘコたれず、寧ろ勝ち誇った顔で踏ん反り返っている。


「退かしてあげてもいいですけどー、その代わりー、私のお願いも聞いて欲しいんですよねー」


 むふふー、とか言いながらほくそ笑む彼女。なんか腹立つ。その眼鏡かち割ってやろうか。


「ほら、交換条件って奴ですよー。こういう時は平等でなくっちゃー」

「……ふーん、交換条件ねぇ。なら僕は要望通り“待った”んだから、当然君はこの足をどうにかしてくれるんだろうね」

「……え?」

「そういうことだろう。君は『待ってくれ』と言って僕を追い掛けた。そして僕は今、待って、話までしている。なら交換条件として、君は僕の“お願い”を聞くべきだ」

「え、あ、えっと」

「自分で言い出したんだ。自分の発言には責任を持て」


 先程の余裕はどこへやら、彼女はまたどもり始める。追い打ちを掛けるように腕を組み、尊大な態度で一睨みしてやった。


「あ、そ、その……え? ……あ、でも……うん、うん……え。い、いや、それは……そ、そうだけどさぁ……」


 なにやら僕の右足辺りと話し始める。戸惑うような素振りを見せるも、一つ頷き、深呼吸して僕に指を突き付けた。


「つ、つべこべ言ってないで、大人しく私の要求を飲めぇいっ! でなければ、貴様は一生このままであるぞぉっ!」


 声も高らかに宣言する彼女。それを、極々冷たい眼差しで凝視する僕。

 お互い同じ姿勢のまま、ただ時だけが過ぎていった。


「……な、なんか言って下さいよぉ……」


 どうやら人並みの羞恥心はあるらしい。徐々に顔を赤くすると、僕に左巻きの旋毛を見せつけた。


「……お前、犬に入れ知恵されるなんて、恥ずかしくないのか」


 って言ったら、彼女は奇声を発して悶え回った。


 なに言ってんだか分からない呟きを聞き流しつつ、僕は未だ動かない右足に目を落とす。軽く揺すってみるも、重いなにかが邪魔をして、足首さえ曲げらない。


 目の前の馬鹿は兎も角、ここにいるであろうなにがしは、中々に食えない存在のようだ。多分今も、僕を頷かせる方法でも考えているのだろう。


 このまま時間を浪費するよりは、さっさと済ませてさっさと帰る方が得策か。


「……おい」

「ふんぬぅぅぅぅ……わ、私だって、別に言いたくて言ったわけじゃあ」

「おい」

「え、あ、はいっ。あ、あの、あれは、ヘップが言えって言ったから」

「用件」

「あ、え?」

「用件。早く」

「あ、は、はいっ! あの、えっと、なににしようかなぁ」

「あと五秒」

「え、時間制限あるんですか」

「三」

「あ、あ、えっと」

「二」

「ちょっ、ど、どどどど」

「一」

「あ、あぁーっ! な、名前っ! 名前教えて下さいっ!」


 ……僕は、閉口した。


 沈黙が流れる。その時間が長くなれば長くなるほど、彼女の顔が不安げなものに変わっていった。


 不意に、右足の拘束が強くなった、気がする。ここにいるらしいヘップとかいう奴からの催促だろうか。


 僕は長く、盛大な溜め息を、それはもう思いっきり吐き出した。


「………………田中翔太」

「……田中、翔太くん?」

「……そう」

「……そっか、田中翔太くん……へへ、うん、ありがとうっ」

「足、早く」

「了解でーすっ! ヘップ、もういいよー。ありがとねー」


 しゃがみ込んだ彼女がそう語り掛けると、重石から解放されたかのように、呆気なく右足は軽くなった。動かしてみるも、違和感は全くない。


「ヘップありがとうね。うん、勿論だよっ! ちゃーんと天使さんにお願いして、サツマイモを……え、二本? い、いやー、それは、どうだろう……いや、そうだけどさ、でもそれは流石にがめつ過ぎるんじゃないかなーうわぁっ! わ、分かった分かった、分かりましたっ! 二本ねっ! 分かったから落ち着いてよぉーっ!」


 犬に足元見られている馬鹿は放っておいて、僕はさっさと歩き出した。もう今日は気分が乗らないから、スーパーは明日にして早く家に帰ろう。


「……あっ! また、またねっ! 翔太くんっ! ばいばいっ!」


 その声に、足を止める。


 後ろを見れば、彼女が満面の笑みで手を振っていた。


 数秒それを眺め、そして体ごと向き直ると、一言。


「気安く名前を呼ぶな」


 嘘だろ、みたいな顔をする彼女など目もくれず、僕は駅へ続く道を悠々と進んだ。


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