第二章
1
夏休みに入ってまずやったことは、宿題を早々に片付けることだった。理由は、さっさと終わらせて、残りの休暇を有意義に使う為である。
あと、親との約束のせいでもある。
『もしも一週間で宿題を終わらせられたら、材料費として五千円あげる』
一も二もなく飛び付いた。テスト勉強もこんなに頑張ったためしがないくらい、連日机に向かい続けた。
こうして僕は、まんまと親の策略に踊らされ、夏休みの課題を見事一週間で終わらせたのだ。財布の中にいる一葉さんが、僕に優しく頬笑み掛けている。
早速なにか作ろうと思い立ち、リュック片手に電車へと乗り込んだ。
新和台へ到着する。外は相変わらずのいい天気。つまり、とても暑い。
滲む汗を拭いつつ、ホーム全体を見回した。
どうやらあの女はいないようだ。
今日は邪魔されずに済みそうだな、と気持ち軽くなった胸を携えて、改札を出る。学校とは線路を挟んで反対側にある、市立図書館へ足を伸ばした。
◆ ◆
「あ、やぁ田中くん。こんにちは」
入ってきた僕を見るや、
「こんにちは。これ、返却お願いします」
「はいはい」
荻原さんは、手際良く本に付いたバーコードを読み取っていく。
「……はい、五点全て返却です」
向けられた柔和な笑顔に会釈をして、僕は真っ直ぐ料理コーナーを目指した。
女の人に囲まれつつ、お菓子のレシピを物色する。取り敢えず気になったものを数冊キープして、一旦近くにあった椅子へ腰を下ろした。
じっくり内容を吟味して、作りたいものだけを手元に残す。借りない本は元の場所に戻し、また新たなレシピを物色、という作業を只管繰り返していった。
「……あれ、田中? 田中じゃね?」
声に顔を上げれば、クラスメイトの橋本が僕を見下ろしていた。
「おー、やっぱ田中だ。やっほー」
「あぁ、うん」
「反応クールッ、流石田中っ」
なにが流石なんだか。
「橋本、なんでここいるの」
「あぁ。ほら、夏休みの課題で、小論文ってあったじゃん? でも小論文なんてどう書けばいいのか分かんないからさ、参考資料を借りに来たわけですよ」
そう言って橋本は、持っていた本を見せてくれた。『図解・よくわかる小論文』『これで誰でも小論文マスター!』『正しい小論文の書き方』などなど。
「……なんか、意外」
「なにが?」
「橋本って、八月のラスト三日で泣きながら課題をやるタイプだと思ってた」
「おっと。お前、さては俺を馬鹿にしてるな?」
「いや。寧ろ褒めてる」
真顔で断言してやったら、橋本は喜んでるんだがどうなんだか微妙な顔付きになった。
「そういう田中は何してんの?」
「レシピ探し」
「え、うおっ、ケーキ?」
「そう」
「田中って、ケーキ作んの好きなの?」
「好き。将来はパティシエ目指してるから」
「おぉー、カッコイイー」
橋本は興味津々とばかりに本を覗き込んでくる。
「え、じゃあさ、こんな豪華なのとかも作れるわけ?」
「一応」
「すっげー。はー、もう将来のこと決めてるなんて、やっぱ田中ってしっかりしてるよなー」
「そうでもないよ」
「そうでもなくないんですっ! 俺の周りなんか、やりたいこともないから取り敢えず大学行っとくかーって感じが大体だし、俺だって家業を継ぐ一択のみで、将来を決めるもクソもなかったからさ。田中みたいに夢に向かって進む姿は、こう、輝いて見えるのですよー」
大げさに頷いてみせる橋本に、呆れ交じりの笑いが込み上げた。
「あ、なんかごめんな、邪魔して」
「いや」
「俺、そろそろ行くわ。じゃーなー」
橋本は快活に笑い、カウンターの方へ消えていった。僕はレシピに意識を戻す。
途端、寒気が走った。リュックからパーカーを取り出し、いそいそと腕を通していく。
この図書館は、市内一の規模と所蔵資料数を誇る中々に素晴らしい施設だが、一つだけ欠点がある。
それは、いつ来ても寒い、ということ。
夏は冷房が効き過ぎで、冬は暖房がなさ過ぎる。お陰でここに来る時は、なにか羽織るものを持ってこないと最悪腹を下す羽目になる。経験者は語る、だ。
ようやく目ぼしい本を絞り終える。残りは本棚に戻し、貸し出しの手続きへ向かった。
「貸し出しお願いします」
「はいはい。わぁ、今日は一段と借りるね」
「夏休みですし、そろそろコンクールに向けて本腰を入れようかと」
「あぁ、成る程。学校もないから存分に作れるってわけか」
荻原さんと雑談しつつ、バーコードが読み取られていくさまを眺めた。
「あ、そうだ。田中くん、ちょっと待ってて」
そう言って、一旦スタッフルームに引っ込んだ。なにか予約してたっけ。内心小首を傾げている間に、荻原さんはなにやら分厚い本を持って戻ってくる。
「これ、さっき返却されたばかりの奴なんだけどね。田中くん、こういうの好きなんじゃないかなって思ってさ。良かったらどうかな?」
手渡されたのは『世界のお菓子 ~未知との甘い遭遇~』というタイトルの本。
中を捲れば、定番の焼き菓子からその国特有のスイーツ、はたまた見たことも聞いたこともないお菓子の作り方まで載っており、それはそれはボリューム満点の一冊となっていた。
「あ、勿論、興味がないなら遠慮なく断ってくれていいからね。どうせ棚に戻す予定の奴だし、僕が勝手にカートから抜いてきただけだから」
「いえ、これもお願いします」
「あ、本当? 良かった、気に入って貰えて」
優しげなタレ目を更にタレさせて、荻原さんはバーコードを読み取った。
「でも、大丈夫なんですか。司書がこんな真似して」
ピタリと止まる手。
「これ、職権乱用って奴ですよね」
僕の言葉に、荻原さんは目を泳がせ始める。小さく唸り声を上げると、形のいい眉を下げて、口元に指を添えた。
「……このことは、どうかご内密に……」
年上とは思えない、しかも男の人がしているわりに違和感のないその仕草に、思わず頬を緩ませた。
「大丈夫です。僕も共犯なんで」
『世界のお菓子 ~未知との甘い遭遇~』を指差せば、荻原さんは意味が分かったのか、そうだったね、と微笑んだ。
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