公園に設置された大きな時計を見やる。時刻は十三時十一分。今からではもう『パティシエルークのスイーツ教室』に間に合わない。楽しみだっただけに、溜め息が止まらないのも仕方ないだろう。


 まぁ、さっき母さんにメールで録画をお願いしたから、別に問題ないんだけどさ。


「……で、話ってなんですか」


 腕を組み、不機嫌を隠すことなく声を発した。


「僕も暇じゃないんです。手短にお願いします」

「あのー、その前に一ついいですか?」

「……なんですか」

「あのーですねー、私が思うになんですけどー……ちょっと、席が遠くありません?」

「遠くありません」

「いやいや。ベンチ一つ挟んでなお端と端って。これどう考えても遠いですよね?」

「不満なら帰ります」

「ふ、不満なんかないですよー。ただ、ちょーっと質問してみただけですからーあはははーっ!」


 必死でご機嫌を取る彼女。僕は遠慮なく溜め息を吐き、一度上げた腰を下ろした。


 沈黙が、過ぎる。横からは窺うような視線を感じるも、それに応えてやるつもりは毛頭ない。目の前の広場で遊ぶ三・四歳くらいの子達を、意味もなく観察した。


「……で?」

「え?」

「用件」

「あ、あぁっ、はいっ! あのですねっ!」

「五月蝿い」

「あ、す、すいません……あ、あの、ですね。さっきも見て貰ったから分かるかと思うんですけど、私、幽霊なんですよちょ、ちょーっ! 待ってっ、お願いだから待ってっ!」


 溜め息とともに、起立から着席。掴んでいたリュックを乱暴に置いて、鬼ごっこする子供を眺めた。


 また流れる沈黙。


「……で、ですね。私は幽霊で、あ、取り敢えずはそのていで聞いて下さい。幽霊で、もう死んでるんですよ。でもいつまで経っても成仏出来なくて、それなのに周りの皆さんはどんどん成仏していって、あれ、これ可笑しくね? って思い始めたんですよね。で、色々試行錯誤した結果、この世にまだ未練があるから成仏出来ないのであろう、という結論に至ったんですよ。それで早速やりたいことをやりまくったんですけど、一向に召される気配もなくて、あーこりゃ困ったなーとか思ってたら、そうしたら今日、あなたが声を掛けてくれて……」


 声のトーンが変わった。


「最初は、勘違いかなって思ったんです。生きてる人間に、死んだ人間が見えるはずないですから。けどあなたは、スポーツドリンクなんかくれるし、念の為会いに行ったら、周りの人は私を素通りするのに、あなたは振り返ってくれて……すごく、嬉しかったです」


 彼女の雰囲気が、柔らかくなる。


「その時思ったんです。この人と一緒にいれば、もしかしたら成仏出来るんじゃないかって、いや、きっと出来るって、そう思ったんです。なにをしても駄目だったけど、今度は大丈夫だっていう確信があるんです。だから、だからですね、その……」


 なにかを戸惑うように、口籠る。視界の端で、彼女の体が上下に揺れた。


「図々しいのは、分かってるんですけど……わ、私が、無事に成仏出来るよう、手伝っては頂けませんかっ!」


 勢い良く黒髪を下げられる気配がした。


「お願いします、どうか、お願いします……っ」


 それっきり彼女は口を閉じた。公園には、子供のはしゃぐ声だけが響く。

 互いになにも言わなかったが、僕は一つ溜め息を吐くと、徐に腰を上げ、彼女のベンチへ近づいた。


 そしてそのまま通り過ぎた。


「ちょ、ちょぉぉぉぉっ! え、嘘、嘘ですよねこんな展開。あれ、私てっきり了承してくれるものだとばかり」

「それではさようなら」

「いやいやいやっ! 待って待ってっ!」

「もう二度と会うつもりはありません」

「えぇっ!? あ、あの、本当、待って下さい。お願いします」

「これ以上話すこともないでしょう。僕はちゃんと“お話”を聞きましたよ。それなのになにが不満なんですか。あなたとの約束は、きちんと果たしたはずですが」


 遠心力を使って重いリュックを担ぎ上げる。肩に伸し掛かるそいつを調節し、後ろで騒ぐ彼女に一瞥をくれた。


「そ、そりゃ、そうかもしれないですけど……でも、その、わ、私、もうこれ以上、なにも思いつかなくて……」


 赤縁の奥が潤み始める。言葉を詰まらせながら、それでも、お願いします、と頭を下げる彼女。

 その左巻きの旋毛をしばらく眺め、僕は機嫌の悪さを隠すことなく、大きな溜め息を吐いた。彼女の肩が、微かに震える。


 そのまま真ん中のベンチにリュックを投げ、その隣に腰を下ろした。


「……いくつか質問がある」


 彼女からの返事はないが、構わず続ける。


「君が仮に幽霊だとして」

「ゆ、幽霊ですっ!」

「五月蝿い」

「う、す、すいませ」

「幽霊だとして、じゃあ他の幽霊はどこにいるんだ。君の口振りだと、成仏出来ないで彷徨っている奴らが他にもいるようだったが、そんなものどこにも見えないんだけど」


 いつの間にか缶蹴りを始めた子供達を流し見ながら、彼女の答えを待った。


「……それは、私にもよく分かりません。なんであなたの目に私が映るのかも、それなのに他の方々は見えないのかも、私には分かりません」

「分かりません、ねぇ。ふーん」


 インチキ霊媒師みたいな言い訳に、思わず鼻で笑った。


「あ、あの、でも見えないだけで、ちゃんといますからっ!」

「あっそ。じゃあ次」

「ほ、本当ですよ?」

「五月蝿い」

「あ、す、すいま」

「君は周りの人に見えないって言ってるけど、それってどこまでが本当なの」

「ど、どこまでもなにも、私は本当に見えないんですっ!」

「でも僕には見える。だから信じられない」

「じゃあ、じゃあっ、証明しますっ!」


 彼女は素早く立ち上がり、缶蹴りをしている子供の元へ向かった。


 なにをするつもりなのやら、と傍観していれば、セーラー服を着た女は、僕に背を向けたまま足を広げて、大きく深呼吸した。


 そして膝を九十度に曲げると、景気良く自分のスカートを捲り上げた。

 

 公園のど真ん中に佇む痴女。多分、向こうから見れば、中身はチラリどころかガバリと見えているのだろう。

 そんな変態を前にしても、子供達は動揺する素振りも見せず、缶目掛けて無邪気に突撃していった。


「……はいっ、どうですかっ! これで私の姿はちょちょちょっ! どこ行く気ですかっ! 戻って戻ってっ!」


 目敏い痴女に見つかってしまい、残念ながら逃走は失敗した。


「チッ、次」

「あ、今舌打ちしたっ! ヒドイっ!」

「五月蝿い」

「え、ご、ごめん」

「敬語を使え」

「あ、す、すい」

「さっき成仏出来ないとか言ってたけど、それのなにが問題なんだ。見たところ、困っているようには見えないんだけど」


 僕の質問に、彼女は一瞬戸惑ったような空気を纏った。


「そ、それは、その……このまま成仏しないでこの世を彷徨い続けると、いつまで経っても転生出来ないんです。それどころかどんどん理性がなくなって、最終的には自縛霊とか、怨霊の類になってしまうと言われまして」

「誰に」

「天使さんです」


 幽霊の次は天使か。今度は呆れて鼻で笑う気力もない。


「あ、あの、でも、正確には、天使ではないらしいです。私達が呼びやすいから、勝手にそう呼んでるだけでして」


 僕の心境を察したのか、無駄なフォローを入れてくる。


「それで天使さん曰くなんですけど、もし怨霊とかになったら、問答無用で魂壊されるらしいんですよ。存在自体を消すんですって。もうそれくらいしか救う方法がないみたいで。でもそれは天使さんも後味悪いし、事後処理が大変だから、成仏出来るよう最大限の努力をしてねっていつも言ってます」

「なら、その天使さんとやらに成仏の仕方聞けばいいんじゃないか」

「いやー、聞いたんですけどねー、それは流石に分からないって言われました。成仏しない理由がなんであれ、それは私の中に残っている思いだから、天使さんが覗き見ることは出来ないんですってー」

「ふーん、じゃあ次」

「あ、特にコメントはないんですか。はい五月蝿いですねー、黙りまーす」


 学習したのか、僕がなにか言う前に聞き分け良く口を閉じた。


「お前、なんで死んだの」


 彼女からの答えは、返ってこなかった。


 沈黙が、辺りを包み込む。


 遊んでいた子供達は、いつの間にかいなくなっていた。暇潰しがてら空を眺める。


 不意に、ポケットに入れていたスマホが震えた。開けば、母さんから『帰りに卵と牛乳買ってきて』というメールが届いていた。


 時計を見やる。時刻は間もなく十四時になろうとしていた。道理で腹が減るわけだ。


 スマホをしまい、リュック片手に立ち上がる。隣のベンチに座る存在へ一声掛けようとするも、なんでこいつに気を使わなけりゃならんのだと思い直し、無言で彼女の前を通り過ぎた。


「……っ、あ、あの……っ!」


 掛けられた声に、振り返る。


 眉を八の字に下げた彼女が、ベンチの傍に立っていた。


 僕を見ている。真っ直ぐに。


「私……私っ、アサミと言いますっ。美しい麻と書いて麻美っ、永遠の十七歳ですっ。その……ま、またっ! また、お話させて下さいっ。いつでも、一分でも、気分がノッた時だけでもいいのでっ! 私、待ってますからっ!」


 どこか必死な、切羽詰まったような様子で、彼女は言い募った。

 なにも言わず、互いに互いを見つめ続ける。


 ……この静かな空間は、案外心地のいいものだった。


 だから僕は、多分、気がノッたんだと思う。

 たまたま募金をするような、たまたまチョコレートを買うような。

 そんな感じでたまたま。

 たまたま、言葉が口をついたんだと思う。


「……勝手にすれば」 


 いいとも悪いともない返事。

 でも、彼女は嬉しそうに口を開けた。


「はいっ! 勝手にしますっ!」


 太陽の日差しが、彼女の青白い笑顔を照らした。なんだか、野良犬に残飯あげたら懐かれた、みたいな、そんな気分。

 前に向き直り、駅を目指して歩き出す。


「あっ! あの、あの、もう一ついいですかっ?」


 今度はなんだよ。

 もう振り返るのも面倒くさくて、肩越しに視線だけをくれてやった。


「あの、あなたの名前を教えてくれませんかっ?」


 両手を握り、なにか期待するように目を輝かせている。


 ……本当、犬に懐かれた気分だ。


 軽く溜め息を吐いて、体ごと彼女に向き直った。


「すいません、知らない人に名前を教えるなと母に言われているので」


 そう言い捨て、さっさと公園を後にした。


 背後からなにやら叫び声が聞こえてくるけど、そんなもの一切無視して、僕は家路へと急いだ。

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