第一章
1
『え~次は~、
待ち侘びた声が、ようやく聞こえた。
迫るホーム。ブレーキの反動で、車内の人間が一斉に前のめりとなった。目の前のおじさんと後ろの女子高生に挟まれる。暑い。米神に汗が伝った。
ピンポーン、と軽快な音と共にドアが開く。流れ出る人の波。僕もそれに身を任せて、拷問とも思える朝のラッシュから無事離脱を果たした。
空気が美味い。でも、体に纏わりつく汗の量は依然増え続けている。午前中からこの暑さじゃあ、今日も真夏日決定だな。額に滲む汗を、シャツの襟で拭った。
ふと、視界の端に自販機が映った。茹だる僕に見せつけるかの如く、『つめた~い』という煽り文句をその体に背負っている。
思わず、ごくりと喉を鳴らした。
いや、待て。落ち着くんだ翔太。駅の自販機だぞ? どう考えても高いだろ。どうしても飲みたいのならば、通学路の途中にあるコインパーキングに行くんだ。あそこの自販機なら、ペットボトルも百円で買える。
我慢だ、我慢するんだ。自分に強く言い聞かせる。
そんな僕の前を、小太りのおじさんが颯爽と通り過ぎる。
そして何の迷いもなくポケットから取り出した小銭を、『つめた~い』と謳う自販機に投入していった。
おじさんの指の動きに合わせて吐き出される、見るからに『つめた~い』缶。丸い指がプルタブを持ち上げたかと思うと、これ見よがしに一気飲みされる『つめた~い』液体。
太い首が音を立てて動き続ける様に、僕の目は釘付けとなった。
おじさんは唸り声を一つ上げて、傍らにあったゴミ箱へ缶を捨てた。先程よりも気持ち生き生きした顔で、階段へと歩いていく。
そのふくよかな背中を見送り、僕は迷わず財布を取り出した。
小銭を入れ、一番大きなサイズのスポーツドリンクを選ぶ。財布をしまってから取り出し口に手を入れれば、念願の『つめた~い』感触がそこにあった。
火照る頬に押し付ける。気持ちいい。すぐに飲んでやろうかとも思うも、もう少しこの極楽気分を味わいたくて、首や額にくっ付けながら階段へ歩き出した。
腕時計を確認する。時刻は八時七分。これなら急がなくてもギリギリ間に合いそうだ。改札の外で待ち構えているであろう日差しの中を、のんびり進む算段を立てる。
と、不意に階段の脇から、なにかが見え隠れしているのに気が付いた。なんの気なしに顔を向ける。
そこには、セーラー服の女の子が、膝を抱えて蹲っていた。
反射的に歩みを緩める。しかし止める事はしなかった。どんどん近付く階段と彼女。僕は視線をセーラー服に固定したまま、この状況をどうするべきか考えを巡らせた。
いや、声を掛けるなりすればいいだけの話だとは分かっているのだが、なんとなく憚られるというか、今一歩足を踏み出せないというか、兎に角、妙な戸惑いが僕を襲い、結果ただ見ているだけの状態を貫くこととなった。
階段まで残り五メートル強。未だなにも行動を起こせずにいる僕。彼女には申し訳ないが、もうこのまま行ってしまおうかとも思い始めた。
その時。僕の前方から、壊れたボリュームで喋り続ける女子高生が二人やってきた。なにが可笑しいのか分からないが、頻りに笑っては手を叩いている。
二人組は騒がしく歩き続け、蹲る彼女の元まで辿り着き、
そして、素通りした。
……いや、流石にそれはないだろう。
いっそ気持ちいい程の無視っぷりに、そのままの勢いで階段を上る後ろ姿を、信じられない気持ちで見つめた。
階段まで残り三メートル弱。コンクリートに座り込む彼女は身じろぎ一つしない。頭を上げる様子もない。ただただ膝に顔を埋め、その姿勢を保ち抜く。
階段まで残り二メートル。辺りを見回すも、人影は皆無に等しい。精々鳩くらいしかいなかった。
階段まで残り一メートル。ここからでは階段の陰になって、セーラー服はもう見えない。
階段まで、残り一歩。
「………………はぁ」
僕はステップの手前で立ち止まり、右へ方向転換する。
二歩と半分進み、顔を左に向ければ、相変わらず地べたに腰を落ち着かせている彼女がいた。黒い髪が肩口ではためいている。
その左巻きの旋毛をしばらく眺めて、それから、口を開いた。
「あの」
彼女からの反応はない。
「あの、大丈夫ですか」
彼女からの反応は、ない。意識が飛んでいるのだろうか。
僕はその場にしゃがみ、彼女の目線に顔を合わせた。
「……聞こえてますか」
覗き込むように首を傾けると、今まで微動だにしなかった頭が、のろりと動いた。
赤縁の眼鏡が、こちらを向く。
「体調、悪いんですか」
顔色は相当悪い。彼女の頬は、白を通り越して青かった。
暑さにやられたか、人に酔ったか、まぁそんなところだろう。
「……私に、聞いてるんです、か?」
「そのつもりですけど」
どこか茫然とした様子の彼女は、一言呟いたと思ったら、また動かなくなってしまった。目と口を軽く開いて、僕をじっと見上げている。
沈黙が落ちる。
「……もしなんでしたら、駅員さん呼んできましょうか」
これ以上待っても返事は来ないだろう。そう判断した僕は、駅員さんに丸投げすべく、立ち上がった。
「あ、あ、いえ、大丈夫です」
思わず、と言った風に静止が入る。未だ座り込んだままの彼女が、両手をまごつかせて首を振った。
「……そうですか」
本人がいいと言っているのに、それを押し切ってまで助ける義理はない。僕は踵を返し、階段を上るべく一歩足を踏み出した。
途端、手元から聞こえた、ちゃぷん、という『つめた~い』音。
僕はまたしても足を止め、一瞬考えると、もう一度右に方向転換した。
「これ、良かったらどうぞ。まだ飲んでないんで」
そう言って、『つめた~い』であろうスポーツドリンクを差し出す。
しかし、彼女は受け取ろうとしない。眼鏡の奥に、困惑を映すだけ。
再度流れる沈黙。
「……ここ、置いときますから。いらないなら捨てて下さい」
彼女の手が届く範囲に缶を置き、僕は階段を上り始めた。
腕時計を確認する。時刻は八時十三分。もう急がないとヤバイ。僕は一段飛ばしでステップを駆け上り、待ち構える日差しに飛び込むべく、改札を潜り抜けた。
◆ ◆
「ではこれで終わりにする。高校生活最後の夏休み、存分に楽しめよー。でも楽しみ過ぎて先生に迷惑掛けないようにな。じゃあ日直、号令」
「きりーつ。きょうつけー。れーい」
さよならの挨拶とともに頭を下げる。数拍後には、賑やかな空間が広がった。そこかしこで、今後一カ月半の予定を話し合っている。
僕はその輪に加わることなく、さっさと帰り支度を済ませた。置いておいた資料集と英和辞典を詰め込み、無理矢理リュックの蓋を閉じる。
いつもより丸々としたそいつを、気合いを入れて背負い上げた。肩紐が肉に食い込む。反動をつけ、収まりのいいところに荷物を調節した。
「おーい、田中ー」
男子数人の塊の中から、
「俺達これから昼飯食いに行くんだけどさー、お前もどうよ?」
「行かない」
「あー、やっぱり?」
躊躇なく断られたというのに、そいつらは嫌な顔をするわけでもなく、いつものことだとばかりに笑っている。
「ま、田中は来ねぇんじゃねーかなーとは思ったんだけどさー」
「じゃあ聞かないでよ」
「ほら、もしかしたら来てくれるかもしれねーから、一応確認をね」
「ふーん」
「ま、いいや。分かった。ごめんな、呼び止めて」
「いや」
「じゃーなー」
口々に挨拶してくるクラスメイトに返事をし、僕は教室を後にした。
普段よりも浮足立った廊下を進み、下駄箱で紐靴に履き替える。中履きは持って帰ろうか悩んだけど、止めた。どうせ文化祭の準備で学校に来るし、これ以上リュックに物は入らない。
臭くならないことを祈りつつ、中履きを置いて、玄関を出た。
校門へ向かう同じ制服の集団。楽しそうにお喋りを繰り広げる女子のグループ。橋本達みたいにこれから遊びにいくらしい男子四人組。中には付き合っているらしい男女や、僕と同じく一人で歩く男女もちらほら見受けられる。誰もが皆、些か浮かれたオーラを放っていた。
そんな中に見つけた、異色。
見ると、校門の前で他校の女子が佇んでいた。彼氏でも待っているのだろうか。
この暑い中よくやるな、と白けた気持ちで一瞥し、その女子の前を横切った。
「……あ、あの……」
腕時計を確認する。時刻は十二時三十三分。
「……あの、すいません」
五十四分の電車に乗って、それから普通に歩いて帰れば、余裕で間に合うな。
「え、あれ? あ、あの、聞こえてますか? ……あれ?」
いや、寧ろ寄り道しても大丈夫だろう。今日は確かマフィンの回だから、バナナでも買って帰ろうか。
「すいません……あの、すいませんっ……え、ど、どうしよう……」
……なにやら戸惑った声が聞こえる。その方向を、ちらと見やった。
そこにいたのは、校門の前に立っていた女子。
不安そうな顔で、何故か、僕を凝視している。
「……あ、あの……聞こえて、ませんか?」
おずおずと紡がれた言葉に、僕は小首を傾げた。
「……聞こえてますけど」
そう答えれば、彼女はほっと胸を撫で下ろした。なにかを言いたげに口篭り、一度赤縁の眼鏡を押し上げてから、両手を固く握りしめた。
「あの、私、今朝、あなたに助けて頂いた者です」
「…………あぁ」
「お、思い出してくれましたか……っ!」
「まぁ、はい」
「その節は、ありがとうございましたっ! 飲み物も頂いてしまって」
「いえ、別に」
「あの、私嬉しくて、どうしてもあなたとお話してみたくて」
「はぁ」
突然熱弁し始めた彼女に、適当な相槌を打つ。こんなにも分かりやすく気のない態度を醸し出しているのに、彼女の勢いは止まることを知らない。その割に言ってる内容はほぼ同じで、さっきから感謝と歓喜を延々繰り返している。
正直、ちょっと面倒くさくなってきた。
腕時計を確認する。時刻は十二時三十七分。いい加減駅に向かわないと、五十四分の電車に乗り遅れそうだ。今日は『パティシエルークのスイーツ教室』をリアルタイムで見るつもりだったから、録画予約をしてきていない。
だから、絶対に見逃すわけにはいかなかった。
「私、本当に感謝していて」
「そうですか、それはご丁寧にどうも。こんなに感謝して貰えるなんて逆に申し訳なく思います。礼は十分して頂いたので、もう結構です。どうぞお気になさらないで下さい。それではこれで失礼します」
畳み掛けるように頭を下げ、足早に駅へと向かった。
時刻は十二時三十八分。発車まで残り十六分。頑張れば、いける。
「ま、待って下さいっ」
後ろから先程の女子の声がする。どうやら追い掛けてきているらしい。
「も、もう少し、話を」
「ですから、礼はもう結構です」
「そ、それでも」
「本人がいいと言ってるんです。これ以上は迷惑になると思わないんですか?」
威圧するつもりで語尾を強めれば、彼女の声が途絶えた。
と、思ったら、僕の真横に現れた。
「わ、私っ! あなたと、もっとお話ししたいんです……っ」
少し頬を赤らめて、上目使いで僕を見上げる彼女。
僕は、気持ち駆け足で進む隣の存在を数拍眺めてから、
更に、スピードアップした。
「え、ちょちょちょっ! ま、待って下さいよっ! え、女の子があなたとお話したいって言ってるんですよ? それなのにこの仕打ちって、可笑しくないですかっ!?」
後ろからなんやかんや騒いでるのが聞こえる。それでも、彼女は諦めることなく僕を追い掛けているようだ。
なんだ、こいつ。
「うおぉぉぉぉっ! 待ってっ! お願いだから待ってぇっ!」
雄叫びとともに、女子らしからぬ形相で彼女は横にやってきた。
「ほんの五分っ! いやっ、三分でいいから待ってっ!」
「嫌です」
「なんでよぉぉっ!」
「時間が勿体ないので」
「そこをなんとかっ!」
「嫌です」
「なんでよぉぉぉぉぉぉっ!」
歩道橋を二人で駆け抜ける。ふと下を見れば、先程まで周りにいた制服の集団が、遥か後ろを悠々と歩いていた。
なんでこのくそ暑い中、走らねばならんのだ。
怒りと苛立ちと不快感が混ざり合って、意地でもゴリラみたいな顔で後を追うこいつの思う通りにはしたくなかった。
引き離す為、更にスピードを上げる。
「ぬおぉぉぉぉっ! 負けるかぁぁぁぁぁっ!」
「……いい加減にして貰えますか?」
「そう言われてもっ! 私はっ! 諦めないっ! 絶対にぃっ!」
「……気持ち悪」
「聞こえてるからぁぁぁぁっ! 朝の優しさどこ行ったのよぉぉぉっ!」
お前こそ、朝の慎ましさどこ行ったんだよ。
一向に終わる気配を見せないこの追い掛けっこ。
だが、勝敗はもうついたも同然だ。
目の前に横たわる踏切。その向こうに見える改札。そこへ飛び込めば、僕の勝ち。図らずとも口がにやける。
しかし、タイミング悪く、警報が鳴り出してしまった。
けたたましい音とともに下がる遮断機。黒と黄色の棒が、僕の行く手を塞ごうとしている。後ろには相変わらずのゴリラが迫っていた。もしここで止まりでもしたら、確実に捕まるだろう。
僕は咄嗟に右を見て、左を見て、そして下り切る直前の遮断棒を潜り、線路内へ侵入した。
ここからは全力で走り抜ける。運動以外の心臓の高鳴りも感じつつ、兎に角急いだ。
近付いてきた反対のバー。手を伸ばして一気に持ち上げ、その下に身を滑り込ませる。
目と鼻の先には、新和台駅、という看板。
勝った。上がる口角もそのままに、改札目指し足を動かす。
「待ってぇぇぇっ! 待ってってばぁぁぁぁっ!」
ゴリラの鳴き声がする。きっと遮断機に縋り付いて、ウホウホ暴れているに違いない。敗者の無様な姿でも見てやろうと、僕は尊大な態度で振り返った。
ゴリラは、線路内を走っていた。
警報の響き渡る中、赤縁の眼鏡がずれるのもお構いなしに、只管僕を見つめては、叫んでいる。
「お願いっ! ほんのちょっとだけっ、ほんのちょっとだけでいいからぁぁぁぁっ!」
僕の視界の端から迫る、十二時五十四分の電車。
「あっ、止まってるっ! も、もしかしてっ、私とお話してくれる感じですかっ!」
目を輝かせる彼女の声と、鉄の咆哮が混ざり合った。
僕の心臓が、運動以外の高鳴りをみせる。
「ば……っ!」
目の前で、電車が彼女を飲み込んだ。
一両、二両と目の前を通過する。体に響く揺れに踏ん張る余裕もなく、反射的に数歩後ろへよろめいた。
込み上げるなにかを抑えるように、口を掌で覆う。自分の手な筈なのに、自分の意志とは関係なく、少し震えていた。
運動以外の心臓の高鳴りを感じつつ、意味もなく唾を飲み込んだ。そして自分が瞬きをしていないと気付くくらいには、冷静さを取り戻した。
とんでもないことをしてしまった。間際の彼女の笑顔が甦る。
何故、そこまでして僕と話をしたかったのだろうか。
何故、あの時僕は踏切を渡ってしまったのだろうか。
何故、僕は、彼女の要件を聞いてあげなかったのだろうか。
何故。何故。後悔が頭の中を駆け回る。
警報が鳴り止み、遮断機の上がる気配がする。
でも、怖くて線路内を見ることが出来なかった。
そんな僕の耳に届いた、声。
「良かったぁぁぁっ! やっと話を聞いてくれる気になってくれたんですねっ!」
体感時間が、止まった。
そんな、まさか。思考は真っ白になる。
それでも、顔を上げなければと思った。
僕の数歩前には、おかっぱ頭で、赤縁の眼鏡を掛けた、セーラー服を身に纏う、今、正に、轢かれた筈の彼女が立っていた。
無傷で、笑っている。
「……なんで……」
口から零れた疑問は、くだんの彼女にも届いたようで、一瞬気まずそうな顔をした。
ずれた眼鏡を直し、なにかを考えあぐねいている。
「えー、あー、そのーですねー……あのぉ、驚かせるかもしれないんですけどぉ」
そう前置きすると、彼女は僕に手を伸ばしてきた。ゆっくり近づいてくるそれは、僕の胸元を触る。
ことはなく、そのまま体の中に入っていった。
僕の心臓が、運動以外の高鳴りをみせた。
「実は私、ゆ、幽霊なんでーす」
悪戯を誤魔化すような、茶目っ気溢れる笑顔を浮かべる彼女。
僕は、反射的にもう数歩、後ろへよろめいた。
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