第12話
よりにもよって、『お礼参り』ときたからには。
――やっぱ、メインの目当ては俺…じゃー、もうなくなってんだろーなー……。
そう考えた俺の頭の中を読み取ったかのようなタイミングで、言ったソイツが「昨日はよくもやってくれやがったよなァ?」と、隣に居る
「ナメた真似しやがって。幾ら何でも、“やり逃げ”はよくねーだろ、オイ?」
言いながら、おもむろに手にした木刀をコチラへと突き付けてきたかと思うと、まるでからかうような素振りを装いながら、その切っ先で雪也の肩を軽く叩いた。
――やっぱコイツ、雪也を、昨日の
相も変わらず無表情ながらも、やや不快そうな色を表した雪也が、煩わしそうに肩の上に載った木刀を払いのけようと片手を上げたのに先んじて。
「…ちょっと待てよ」
いち早く隣から手を伸ばしていた俺が、その切っ先を掴んでいた。
「あんたらの言い分は分かってる。…けど、コイツは無関係だ。このまま見逃してやっちゃくれねえか?」
「なんだとォ……!!?」
告げた途端、ソイツが目を剥いて気色ばむ。…まあ、そりゃ無理もねーだろーけどな。
「下手クソなトボけ、かましてんじゃねえよ!!」
手にした木刀を横に薙ぐようにして切っ先を掴んだままの俺の手を振り払い、がなり立てた。
「何が『無関係』だ!! んなハズねーだろうが!! 昨日、俺に蹴り食らわしてテメエと一緒にとっとと逃げ出しやがったのは、間違いなくコイツだろうがよ!!」
「だから、コイツと同じ顔した別人なんだよ昨日のは。なんてったって双子だからな」
「は!? 双子、だとぉ……!?」
「そ、昨日のはコイツの“弟”」
…なーんてことを言っても怒りの鉄拳を繰り出してくるヤツも今は居ないことだし。ここは当たり障り無く、そういうことにしておこう。
あれが実は“妹”だったのだと説明する方が面倒だし、ヘタに本当のことを言おうものなら、ただでさえコイツら“双子”という事実に懐疑的っぽいカンジなのに、それこそ下手な嘘だと思われそうだ。
ともあれ、それで一応は相手も納得しかけたのか、ぐっと言葉に詰まったように絶句したものの。
だが、すぐに「上等じゃねェか」と、ニヤリとした意地の悪い笑みを浮かべてくる。
「それならそれで、こちとら全く構やしねェよ。弟の不始末は兄が責任をとるモンだろ。兄貴から、誠心誠意、詫びでも入れてもらわねーと」
――ま、そらそーだよねー……ハナっから、そうくるだろうなーとは、思っていたけどさー……。
だってコイツら、そもそもからして、テツへのウラミを俺で晴らそうとしに来やがった連中だしな。――そういう、筋違いのヤツアタリを当然とする
「しょうがねえなあ……」
ボヤきながら、もう通算何度目になるかも分からないタメ息を深々と吐き出して。
おもむろに今度は横に立つ雪也へと、言葉を投げてみた。
「どうやら逃がしてもらえねーようだぜ?」
「…そのようだね」
やけにアッサリした口調で、そう雪也が返してくる。
昨日のことは既に月乃から聞き知っていたものか、この件には無関係ながら、でもそこはそれなりに、話の流れから事情はあらかた理解してくれたようだ。
しかし、これほどの人数に囲まれていてさえ顔色ひとつ変えてないとは……幾ら普段が普段だからとはいえ、それにしたって堂々としたモンだよな。
ひょっとしたら、俺同様コイツも、こういう“とばっちり”を引っかぶるハメとなることにも慣れているのかもしれない。――なんせあの、血の気の多すぎるあまりに行く先々で何くれと問題を起こしているに違いないだろう月乃の、よりにもよって血を分けた兄…のみならず、細胞までをも分け合っちゃってる双子の兄、なんだからなコイツは。
こういう風に、月乃と間違えられて因縁つけられることも、いわば“しょっちゅう”くらいの頻度で、あるのかもしれない。
…ま、それならそれで、話が早い。
無駄に騒いだりとかしない分、こっちとしてもやり易いってモンだ。
「とりあえず、こうなっちまった以上は逃げも隠れもする気はねぇよ」
俺は改めて目の前の金髪頭に向き直り、それを告げる。まるで降伏を示すように諸手を上げてみせながら。
言われた側のソイツは、ここまで全く怯えている素振りさえも見せていなかったにもかかわらず言葉だけ突然しおらしくなった、そんな俺の態度に疑問をもったものか、一瞬だけ訝しそうな表情を見せたものの。
しかし次の瞬間にはもう、先ほど見せた底意地悪そうな、ニヤリと口許だけを歪めた笑みが、戻っていた。
幾ら態度で強がってみせていても、こんだけの人数に取り囲まれてしまっては逃げる気も抵抗する気もなくすだろう、しおらしく降伏してくるのも当然だ、…とでも判断してくれたようだ。
「――いい心がけじゃねえか」
そう返した次には、まるで舌なめずりしそうな雰囲気を醸し出しながら、じり…と半歩、片足を前に踏み出してくる。
と同時、俺たちのぐるりを取り囲んでいた連中の、やはり同様にじりじりと徐々に輪を狭めてこようとしている気配も、迫ってこようとしているのが分かった。
俺たち二人と、それを囲む連中との間の間隔は……大体の目算で、構えた木刀一本分と少々、ってとこか。
さっき金髪頭が雪也にそうしたように、軽く腕を前に伸ばせば構えた木刀の切っ先が届いてしまう、っていうだけの距離だ。
それが僅かながらも詰められたのを感じ、間合いを計るように周囲の気配を窺いつつ、俺は雪也を背後の塀へ押し付けるようにしながら自分の背中へと庇った。
「…とりあえずオマエは、隙みて逃げろ」
そうしながら、周囲には聞こえないくらいのボリュームにまで声を落として、コッソリ背後へと囁きかける。
「逃げ道くらいは何とか作ってやるからさ。なんせこの人数だ、オマエ気に掛けてる余裕なんて……」
「僕のことは気にするに及ばない。自分の身くらい自分で守れる」
だが、俺の言葉を制するかの如く、耳元のごく近くから囁くように、でもキッパリとした口調で即座に返ってきた、予想だにしてなかったその返答。
ヤケにサクッと事も無げに言うじゃねーか。と、思いのほか驚いて、咄嗟に目を剥いて振り返ってしまっていた。
振り返れば間近に映る、やはり相変わらず表情の無い端正な顔だち。
その何事でもないような表情と口調から窺がえるに……やっぱ、こういうことにはもはや慣れっこ、ってーことなんだろうか。
それとも、それだけ腕に覚えアリ、ってー意味も含まれての言葉、なんだろうか。
「…そりゃ頼もしいじゃねーの」
咄嗟の驚きのせいで、思わず軽くからかってしまったものの。
――考えてみればコイツ、あの月乃の兄、なんだもんな一応は……。
そういや昨日、月乃も言ってたっけか。――『雪也こそ誰よりも強いのよ!』、と。
身内贔屓も多分に含まれてはいるだろうとはいえ、“金の卵”が分かると豪語するほど自身の目利きに絶対の自信をもっていたあの月乃が、あそこまで堂々と断言したくらいだ。
ということは、つまり雪也も、月乃が認めるに足る相当なレベルの格闘センスを持っていてもおかしくはない、っていう意味に、なるんだろうか―――。
見た目の華奢な体格からは全く想像もつかないものの……とはいえ、人は見かけによらないことも昨日の月乃で充分に解ったことだし。
その月乃の兄ならば、それはそれで信じるに足る要因の一つ、になるかもしれない。
「…どんだけ強いのオマエ? まさか月乃なんてメじゃない、なんて言う?」
半信半疑の冗談半分、そして期待半分で、思わずそんなことを訊いてしまったが。
しかし相変わらずニコリともしない表情のまま、即答で「まさか」と返される。
「僕は月乃ほど君の役には立てないよ。それでも足手まといにならない程度の覚えならある」
「なら、余計なことは考えるな。まず逃げろ」
だが俺は、答えた雪也の言葉を速攻で打ち消した。
モチロン、俺も逃げるために、だ。
コイツさえ逃がすことが出来れば、そのまま俺も逃げられる、ってなもんじゃないか。
そもそもハナっから、雪也が戦力になるだなんてこと、コレッポッチさえ期待してないのだ。いま偶然にもコイツに『足手まといにならない程度の覚え』があることが分かったものの、それだけで易々と戦力に数えるほど、俺は楽観的な性格じゃない。
それに、見たトコ月乃ほど闘争心も持ち合わせていないようだし、『月乃ほど役には立てない』という自己申告もあったことだし……普通に考えて、そんな人間を戦力に加えようとする方が酷、ってーモンだろう。
「ワザワザ馬鹿丁寧に、こんなヤツらと付き合ってやるこたねーんだ」
だいたい、こんな大人数相手に一人や二人でマトモにやり合おう、っていうところからして、そもそもどうかしてるんだから。
「とっとと切り上げて帰ろうぜ、こんなもん」
いかにも面倒くさいという口振りで俺がそれを告げたと同時。
そこで一瞬、息を飲んだようにして背後で雪也が絶句したのが分かった。
…だが、それもひととき。
まるで鼻で笑ったかのようにフッと短く息を吐いたかと思うと、相変わらずの冷淡な口調で、それを返す。
「――本当に面白い人だな、君は」
「………今この状況下で言うべきことがそれか」
つか、そもそも……そんなセリフを、そーんな面白みのカケラもない声と表情で、言われましてもねー? ――信憑性ゼロだから真面目に。
そもそも今のやりとりの何をもって『面白い』のかが、多少気になるところではあるものの……とりあえず今は、さておいて。
「――何をゴチャゴチャと言ってやがる!」
いい加減業を煮やしたものか、それとも、密やかに交わされる俺たちの会話を聞き取れないことに苛立ったものか。
「この期に及んで、まだ逃げる相談かよ!?」
そう怒鳴り、今しも木刀を振り上げんとした、――そんな目の前の金髪頭の機先を制すかの如く俺は。
ふいに「なあ!」と、今度はちゃんとその場にいる全員に聞こえるボリュームを張り上げて、声を投げた。
「そりゃ、逃げも隠れもしねえ、とは言ったけどさ! …でも考えてみろよ、ココは天下の公道だぜ? 誰が来るかも分からねえことだし、場所、変えねえか? 誰の邪魔も入らないところへ、さ」
「おお、そうだな。言われてみれば」
そんな俺の提案を聞くなり、ソイツはニヤッと笑んでみせる。
その笑みにどことなく不穏な色を感じて、俺は思わず身構えるかのように身を強張らせた。
「そりゃあ、いい考えだ…ぜッ―――!!」
「――――!!?」
語尾の『ぜ』がヤツの口から発された…と共に、――ふいに俺めがけて木刀が振り下ろされた。
咄嗟に身を翻してそれを
「……誰もテメエの言い分なんて聞いてねェよ」
不意討ちのように間合いを詰められ、先ほどに比べより一層近くなった距離から手を伸ばし、そう言ってヤツは空いている片手で俺の胸ぐらを掴み上げた。
「この際、場所なんて構っちゃいられねェな。万が一にでも、また逃げられるようなことがあっちゃあ、俺の気が済まねえっつの……!」
――やっぱバレバレか、こっちが逃げる気マンマンだってこと。
俺たちの側にしたって場所なんかどこでもいい。むしろ、このまま“天下の公道”に居た方が、誰が通りがかってくれるか分からない分、やられる側のこっちにしては都合がいい、ってもんだ。
とはいえ、どこかに場所を移すということになれば、その移動の隙をついて逃げ出し易くなるかもなあ…? と、考えてみただけなんだけれど。
やはり一度逃げ出した前科がある所為か、そう易々と騙されてはくれないらしい。
こちらの言い分が却下されるとなれば、いた仕方ない。
これで相手側が、もう何の聞く耳を持ってくれないことも判ったことだ。
「イヤだなあ……逃げも隠れもする気はないって、さっきから言ってるじゃんか」
そんなことを軽い口調で言いながら、自分の胸ぐらを掴み上げている手に、俺も自分の手を掛ける。
――そう……こうなった以上は、無駄に時間を引き延ばしても意味がない。
「こっちは親切心で、アンタらに有利になるような提案をしてあげたっていうのにさあ……」
そう心にも無いことを努めて穏やかな口調で語りかけつつ、同時、掛けた手にグッと力を籠めるや否や半ばムリヤリのように掴んだその手を引き剥がし、振り払った。
――俺はあくまでも平和主義者、なんだけどなー……。
とはいっても、非暴力・無抵抗主義者になった覚えなんて、サラサラ無い。
諦めて、俺は腹を括った。
「あんまり俺を怒らせないで欲しいんだよなー……」
あくまでも何気ない素振りと口振りを装いつつ、何の気なしにおもむろに、
――やおら俺は、渾身の力を籠めて目の前の金髪頭の脇腹を蹴り飛ばした。
ぼぐっとした鈍い音と共に、背後の何人かを巻き込みながら金髪頭が気持ちよくフッ飛んでゆく。…これぞ不意討ちの威力!
「構わねえ、やっちまえ!!」
そこで聞こえた誰かの怒号――よりも早く俺へと向かってくる複数の木刀や竹刀が、やけにスローモーションで視界に映った。
真っ先に振り下ろされてきた一本を片手で受け止めると同時に、それを振り下ろしたヤツの胴体をやはり思いっきり力いっぱい蹴り付けて、今度は金髪男が転がってった方向とは逆側へと向けてフッ飛ばす。
またしても思惑通りに向かってきていた何人かが一緒に薙ぎ倒されてくれたのを視界の端に確認しつつ、すかさず背後の雪也の腕を掴んで引っ張り寄せた。
「――行け!!」
言うや否や、崩れた人垣の隙間へ向かって身体を滑り込ませていく。
とはいっても、その隙間は、まだ人が易々と通りぬけられるようなカンペキな隙間ではない。
なおも多方向から繰り出されてくる木刀やら何やらをやりすごしつつ、隣に居る雪也を庇いつつ、とりあえず進行方向に居る相手メインに蹴りと
所詮、相手は統制も何も取れてない、ただ喧嘩っ早い人間が集まっただけという烏合の衆。
始まったばかりの乱闘なんぞ、ただ場が混乱しているだけで、そこに乗じれば隙なんて幾らでも作り出せる。…とはいっても、そりゃ全く無傷のままじゃー無理だけど。
身体のあちこちで受身をとっていれば、そこそこ痛みはあるものの、だが致命傷にはほど遠い。走れないほどの痛みじゃない。
まだ大きな怪我を負ってないうちに……逃げるなら今だ。
「走れ、雪也!!」
ようやく人垣を抜け出したと同時、俺はクルリと
こう気持ちよく敵に背後を見せたところで、相手の得物に飛び道具が無い以上、全く怖くもなんともない、ってなもん。
当然、背後から「待て!!」だの「逃げるな!!」だのといった怒号と追いかけてくる足音が幾つも聞こえるが……それで待ってやる人間がどこの世界に居るんだよ、ってーのっ!
ここで俺は、半ば自分の勝利――あくまでも“逃げるが勝ち”という勝利ではあるものの、それを得たことを確信した。
しかし……、
「――うわッッ……!!?」
ふいに何かに足をとられたかと思うと、同時に俺は、ズザザザザーッと路面を擦る凄まじい音を立てながら勢いよく全身を地面に打ち付けていた。
走る俺の足を絡め取ったのは、ヤツらの誰かが投げてきたらしい木刀の一本。
前言撤回。――敵に背後を見せたら、何が飛び道具になって襲ってくるものか分かったもんじゃねえな……。
転ぶと思った瞬間、咄嗟に身体を捻って受身はとったはずだが、それでもマトモに肩から落っこちてしまったようだ。なまじ脇目も振らずに全力疾走していたものだから、その勢い余り余ってか、地面に打ち付けられた痛みもマジ半端じゃない。
「い、いッてーッッ……!!」
よりにもよって強打したのは、利き手側の右肩。
なもんだから当然、身体を起こすのに手こずった。
「大丈夫か?」
ほんの僅かながら起き上がるのにモタついていたのを見かねたか、隣で雪也も足を止め、俺に手を差し伸べてくれながら屈みこむ。
だが、その手を俺は振り払い、「オマエは行け!!」と、半ば叫ぶように告げた。
こうしている間にも……まるで地響きのように、足音が近付いてくるのが地面から伝わって聞こえるのだ。
「オマエは関係ないんだ、このまま逃げとけ!!」
「いや、君をこのままにしておくわけには……」
「いいから放っとけって!!」
「出来ないよ」
「だから、雪也オマエッッ……!!」
言いかけてハッとする。
咄嗟に背後を振り返った俺の視界には、当然の如く、立ち止まる俺たちへと向かって怒涛のように押し寄せてくる連中の姿が映った。
「――ざまあみろ、これでもくらいやがれッッ……!!」
その中で先頭きって俺のもとに到達した一人が、すごい勢いで駆け寄ってきながら手にした竹刀を上段に振りかぶり……、
――やられる……!!?
ごく近い距離から、屈んだままの俺と、それを見下ろしたソイツの視線が、絡み合う。
こんな不安定な体勢のままでは、避けるヒマなど無いことは分かりきっていた。
大きく振り上げられた竹刀は、そのまま勢いをもって振り下ろされ、俺を打ち据えることだろう。
それを覚ると同時、不充分な体勢ながらも無意識のうちに受身をとるべく俺の全身が反応していた。
――だが、そんなもの意味は無かった。
「え……?」
一瞬、目の前で何が起きたのか分からなかった。
本当にそれは一瞬の間の出来事だった。
「ぅおわっ……!!?」
一番ワケが分からなかったのは、きっとソイツだろう。
そう驚愕の呻きを上げたソイツ――俺へと向けて今しも竹刀を振り下ろそうとしていたソイツ。
ソイツの身体、が……、
――その“一瞬”の間に宙を舞っていたのだ。
俺は、その“一瞬”の一部始終を、あまさず全部この目で見ていた。――なにせ、まさに文字通り、すぐ目の前で繰り広げられた出来事、だったのだから。
それでも信じられない。
今この目で見た光景が信じられない。
呆然としながらも俺の目が咄嗟に、軽く四~五mは先まで気持ちよくフッ飛んでいったソイツの身体を追う。
その時間も、とてつもない刹那の間だったハズなのに……なぜか見ている俺には、とてつもなく長いように感じられていた。
ほどなくドサッと落ちる音と、ズズズッとアスファルトを滑る音を立てて、ソイツは「うっ!」という呻きと共に乱暴に地面へと着地する。
そこまで見届けてから、おそるおそる、まるで軋むように緩慢な動きで首を廻らせて、視線を元の位置に戻した。
――そこには雪也が居た。
相変わらず何を考えているか読めない無表情で俺を見下ろし、そこに、居た―――。
そう……今の“一瞬”の一部始終は、すべてこの雪也のやったことだ。
こちらへ向かってきたソイツが、手にした竹刀を振り下ろそうとした瞬間。
隣に居た雪也が、俺の身体が反応するよりも先に腰を上げていた。あたかもソイツへと立ち向かうかのように。
――やめろ……!!
咄嗟に制止の声を上げようと俺が口を開こうとした、まさに同時だった。
振り下ろされてくる竹刀を避けながら雪也が、その手首を掴んだ――途端、ソイツの身体が宙を舞っていたのである。
俺は開いた口からヒトコトの言葉も出せないままで、そのたった“一瞬”という刹那の光景を呆然と見送ることしか出来なくなった。
その“一瞬”に目を奪われるあまり、開いた口が塞がらず、なのに呼吸まで止まった。
視線を元の位置に戻して相変わらずの雪也の無表情を目にしてから、ようやく……まるで塊のように喉元につかえていた息が、かはっと吐き出されてくれた。
たどたどしくも徐々に呼吸を取り戻しながら、ボンヤリと頭のスミで考える。
――今の……ひょっとして、合気道、ってヤツ、か……?
今までこのかた、合気道というものを実際に目にする機会なんて無かったけど……でも、そうとしか考えられなかった。
合気道――相手の攻撃の力を利用する投げ技、ってくらいの知識しか俺には無い。
…でも、まさに“そのまんま”じゃなかったか、今のは?
俺の中に漠然とあっただけのイメージを、文字通り顔色のひとつも変えず、事も無げに軽々と体現してのけてくれやがったのだ。コイツは。
相手の攻撃を見極められる目の良さといい、技をかけるタイミングといいキレといい、またミョーに小慣れている感といい……俺みたいな素人目からしても一目瞭然。
絶対、これは少し齧った程度の初心者や素人が出来る技じゃない。
――ひょっとしなくてもコイツ、合気道についちゃ相当のキャリア積んでるかも……?
あれだけのことが出来るなら、こと合気道に関しては間違いなく段持ちだろう。
そりゃ『自分の身くらい自分で守れる』と断言するだけのことはあるよな。
たかが高校生とはいえ大の男を、ああ易々と四~五mも投げ飛ばせるくらいなんだ。上手いこと応用すれば、ヘタすりゃ人一人くらい簡単に殺せるに違いない。
…つか、なにが『月乃ほど役には立てない』だよ! なにが『足手まといにならない程度』だよ!
こんな技もってたら、あんな攻撃してくるしか能のない猪突猛進な月乃なんて軽く
こんだけの実力があるんだったら、謙遜なんかしてねーで、最初から申告しとけっつんだよバカヤロウーーーッッ!!
――てなしょーもないことを、あの“一瞬”を目の当たりにした驚きのあまりグルグル考えていたのだと、しばらく後になってから思い出して告げてみたら。
当人の雪也は淡々と、『それは誤解だ』などと、いけしゃーしゃーと、返してくれた。
『確かに合気道のことだけを言うなら、月乃に比べて僕の方が経験も長いし、実力も上だと思うよ。でも、あくまでそれは、相手の攻撃を返し身を護る、っていう技に特化したものであって。だから自分から仕掛ける技は全く知らないんだ。ああいう場面で君の役に立てるのは攻撃技に長けている人間だろう?』
…つまり、自分の身を護れることについては月乃以上だが、相手への攻撃については月乃以下、と言いたいワケかコイツは。
『基本的に僕は、専守防衛一辺倒なんだ』
『………ああそうかい』
基本的に……あれほど威力のある“専守防衛”なら、イコールそれが攻撃じゃねぇか! ――と思ったのは、はたして俺だけだろうか。
アグレッシヴディフェンスにしたってホドがありすぎるだろう! テメエのはアグレッシヴ過ぎるっつの! 程度ってモンを知りやがれコノヤロウ!
…という俺の意見に対しては、やはり何事でもないようにサラッと、『まだまだ未熟者だから力の加減が出来なくて』なんてことを、なおもいけしゃーしゃーと、返してくれやがった。
コイツは確実に“過剰防衛”という言葉も知らないに違いない。――と思ったのも……きっと俺だけではないハズだ。確実に。
ともあれ、今まさに目の当たりにした雪也の技に驚いて呆然としていたのも、ほんの束の間。
俺が視線を元の位置に戻すや否や、そこに在った相変わらずの無表情を呆然と見上げる間さえ与えないほどのタイミングで、「さ、行こう」と言いながら雪也は俺の腕を掴み、立ち上がるのに手を貸してくれた。
「走れるかい? 逃げるんだろう?」
「あ…ああ……大丈夫だ」
先刻とは立場が逆になったことにも気付かないまま、まだ呆然としたままで、ようやく俺は立ち上がる。
――そう、逃げなくては。
ああやって第一波は雪也が退けてくれたとはいえ、すぐ背後まで第二波が迫っているのだ。
「ナメた真似しやがって、この野郎ッッ!!」
立ち上がりざま、そこを狙ったかの如く怒声と共に振り下ろされた今度は鉄パイプを、俺たちは同時にそれを躱し、そのまま二人走り出す。一目散に再び全力疾走。
「待ちやがれ!!」
「逃げるな、卑怯者!!」
まるで今しも後ろ髪をむんずと掴まれそうなくらいに近い距離のように、そして耳の奥の奥にまで無理やり侵入されるかのように、聞こえてくるヤツらの怒号。
――こんなに危機感を感じながら逃げるのなんて、久し振りだ。
これまでの俺は、逃げる行く手を阻まれたことなんて滅多に無かったから……その所為だろうか。
一度でも逃げるのに失敗するってことは、こんなにも危機感を
一度やって失敗した以上、二度目が無いとは限らない。
再び連中に捕まれば、その包囲をかいくぐって再び逃げることも可能だろうが、しかしそれは更に容易ではなくなっただろう。
そうなると、雪也だけを逃がしてやることさえ難しくなってくる。
ならば、決してここで捕まるワケにはいかない。二度失敗するワケにはいかないのだ。
――ここは死ぬ気で逃げ切らなくては……!!
脇目も振らず走る俺たち二人の眼前に、ふいに人影が立ち塞がった。
ヤバイ、新手か!? ――と身構えると同時、思わず足が止まる。
止まる気なんてサラサラ無かったのに、自然と足が止まってしまったのだ。
「えっ……?」
やおら頭の中にクエスチョンマークが乱舞し、身構えた全身から力が抜ける。
だって、いま俺の目の前に立ち塞がっているのは……俺や雪也と同じ高校の制服を着ているガタイのいい長身の、その人物は……、
「――よ、
正真正銘、間違いなく……それは、俺の所属する〈天文部〉の現部長で、なおかつ、現生徒会長である
――それで何故その吉原先輩が今、ココに、居る……?
「よう、
大量のクエスチョンマークに襲われたまま動けずに立ち尽くしてしまった、そんな俺に…続いて雪也にも視線を向けて先輩は。
まるで挨拶するような気軽さで、そう声を掛けた。
そして、表情は穏やかながらも貫くような眼差しで真っ直ぐに前を見据え、立ち止まる俺と雪也の肩越し、コチラへと向かってくる連中に対峙する。
俺たちを追ってきた連中も、新手の――しかも見るからにデカくてゴツくて強そうな人間の出現に、何事かと警戒するように次々と足を止めた。そのまま遠巻きに俺たち三人を再び取り囲んでゆく。
「…なんだテメエ? 失せやがれコラァ!!」
やっと追いついてきたらしい先の金髪頭が先頭にしゃしゃり出てき、そう噛み付くような勢いでがなり立てた。
だが対する先輩の方は全く動じていないのが、とりたてて表情など見ずとも、その飄々とした立ち姿だけで分かる。
とりたてて俺たちを庇おうとするでも何をするでもなく、ただ普通に前を見据えて立つ先輩は、やはり先ほどの延長のように、まるで軽口でも叩くかのような口調で、「それは出来ないな」と先頭の金髪頭へ向かって楽しげに言い返してのけた。
「この二人、ここで引き取らせてもらおうか」
「なに……!!?」
「困るんだよ。可愛い後輩たちに無断でこんなことされちゃあさ」
挑発的とも受け取れるその言葉で更に殺気立った面々を、なのに全く臆する様子ひとつさえ見せず泰然と見回し、かといって殊更に凄んでみせることも無く、相も変わらずにこやかな口調で…だが今度は、その中にも少々の恫喝の色をも覗かせながら。
あたかもその場の全ての面々へ言い聞かせるかのように一段と張りのある声を響かせて、吉原先輩は、それを告げた。
「ウチの生徒に手ェ出す、ってことが、どういうことか……モチロン、分かってる上でやってんだろうな、テメエら?」
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