第10話




 走りに走って、全力疾走で走りまくって……追いかけてくる連中を一人残らず撒いたことができたのを確認してから。

 ようやく俺は足を止めた。

 立ち止まった場所、――そこは高校の裏門前。

 いつの間にやら、もと居た場所へと舞い戻ってきてた、ってーワケか。

 下校時刻もとっくに過ぎて既にピッタリ閉ざされている門扉に手を掛けながら、荒い呼吸を静める。

 そして、それが治まり切るのも待たずして、おもむろに背後を振り返った。

「――こんの、大バカたれぃ!!」

 振り返ると同時に怒鳴り付ける。――当然、やはり俺と同様、門扉に凭れかかっては荒い息を静めていた月乃つきのに向かって。

「マジで馬鹿かテメエは! なんてことやらかしてやがんだよ! この、向こう見ずで単細胞で脇目も振れない一直線馬鹿女ッ!」

「なァんですってェェ……!!?」

 言った途端、荒い息の下から呻くように返ってきた声。

 ギロリと彼女の視線が上を向き、俺を見据えながら門扉に凭れた姿勢を起こした。

「アンタこそ、あのザマは何なのよ!?」

 身体を起こすや否や、その勢いで俺の襟首へと掴みかかってくる。

 そうやって至近距離から真っ直ぐに俺の目を見据え、続ける。

「ホント見損なったわよ、早乙女さおとめ すばる! 友達を見捨てるだけならイザ知らず、戦わずして敵前逃亡なんて情けない! 相手は所詮、喧嘩に負けた腹いせしたいだけのサカウラミ野郎でしょうが! そんな中途半端なヤツら、アンタならヨユーで勝てるでしょう!?  負かされた当の相手にリベンジもできない、そんなチキン根性で喧嘩フッかけてくるなんてお門違いもイイトコだって、ガッツリこぶしで教えてやればいいでしょうが! なのに、何やってんのよアンタは! 男なら、正々堂々と戦いなさいよ! 何もしないで逃げ出すような、その腐った性根にはトコトン呆れ果てたわよ!」

 ホント男の風上にも置けないヤツ…! と、そして低く呟くように言い捨てるなり、掴んだ襟首ごと俺を突き飛ばした。

 その勢いに思わずよろけて俺は、咄嗟にまた門扉へと手を掛け、倒れそうになる身体を支える。

 カシャッ…という門扉の鉄柵の触れ合う音が、既に暗く静まり返っていた周囲の空気に、思いのほか大きく響いた。



「――アナタって人が、わからない……!」



 意外なくらい静かな…でも小さく震えた声でもって、まるで独り言のように、月乃が呟く。

「ちゃんと強いクセして才能の出し惜しみはするし、ナニゲに正義漢だと思ったら丸っきり卑怯者だし……アンタ一体、何様なのよ……!」

 軽く瞳を伏せ、キツく唇を噛む。

「悔しい…こんなヤツに振り回されてるなんて、ホント悔しいっ……!」

「…………」



 カシャ…と、手元で再び鉄柵が鳴った。小さく。

 我知らず、鉄柵ごと握り込むようにキツく、俺はこぶしを結んでいた。

 だが、おもむろにそれを開く。

 その開いた手を、そのまま真っ直ぐ、月乃へと伸ばしていた。

 やおら彼女の肩を掴み、それを門扉へ向けて力任せに押し付ける。

 まるで叩き付けるかのようなその勢いに、門扉全体が揺れた。

 ガシャン、シャン、シャン…! と、連鎖反応のように、衝撃が門扉の端まで伝わっていく音が、ぼんやりとした闇の中に響く。

「なっ……!?」

 驚いた瞳で俺を振り返った、それをも押さえ込むように睨んだ視線で見据えて。

 咄嗟にぐっと彼女が開きかけた口を噤んだのを見止めてから、俺は告げた。



「――わからねえのは、テメエだろ……!」



 それは……我ながら、普段以上にドスの効いた低音だったな、と、思った―――。



 俺が自分で思うくらいだから、きっと彼女は、もっとそう思ったことだろう。

 ヒュッと小さく、月乃の喉が奥で鳴ったのが分かった。

 息を飲み込み、無意識でなのだろうが、掴まれた肩ごと身体を後ろへ仰け反らせようとする。――まるで俺から逃れようでもとするかのように。少しでも離れたいとでもしているかのように。

 でも、背中を門扉に押し付けられている状態で、それは為し得なかった。

 ただカシャリと、再び鉄柵が悲鳴のような音を上げただけだった。



 …別に、そうやって月乃を脅そうとしてたワケじゃない。

 でも結果的に、そうなってしまったかもしれない。

 それくらい苛立たしかったのだ。

 その、身勝手なくらい、あまりにも無根拠に自信タップリな態度が。あまりにも好戦的に過ぎる姿勢が。あまりにも無鉄砲で考え無しな行動パターンが。

 湧き起こってきた苛立ちを、自分の胸ひとつに押さえ切れなかった。

 コイツを見てると、苛立って苛立って、どうしようもなくなって……!

 黙らせたくて、咄嗟に手が出てしまっていた。

 ただ単に、それだけのことだった。



「勘違いしてんじゃねーよ。――『正々堂々と』、何だって? “試合”でもするつもりかオマエは?」



 その言葉に、咄嗟に月乃が口を開き、何事か言いかけようとしたのが分かった。

 けど、それは吐く息に取って代わられる。

 薄暗い闇の中で、ひんやりとした空気の中で、それは白く俺の目に映った。

 彼女の唇が、彷徨うように動く。声なき声で言葉を紡ぐ。

「どう転んだってスポーツマンシップなんて持ち合わせてないような人間相手に、『正々堂々と』戦えるなんて、本気でそう思ってるのかよ?」

 しかし何も気付かぬフリで、それを遮るかのように、俺は続けた。

 静かに…そして、冷ややかに。

「ここは道場でも試合会場でも無いんだぜ? 畳の上でも床の上でもない。何の衝撃も緩和してくれやしない固いアスファルトの、そこかしこに石ころがゴロゴロ転がってるような道っ端。おまけに狭いし、障害物だってそこら中にありまくりで、思うように動くことも儘ならない。もちろん審判だっていないし、ルールも無い。急所狙いの反則技も、多勢に無勢も、道具武器凶器、何でもアリだ。――オマエ、それでも自分だけは無傷で『正々堂々と』勝てるとでも、思ってんの?」

「…………!!」

「だとしたら自信過剰もイイトコだな。仮に、その自信の通りに事が運んだとしても、だ。こんな道っ端で殴り合って、相手をブチのめして、ちょっとでもソイツの打ち所が悪ければ……たとえ『正々堂々と』勝ったところで“殺人犯”だ。――それでもオマエ、“勝った”なんて、思えるか?」

 その途端、月乃の顔色が変わった。

 はっとしたような表情になって、瞳が丸く瞠られた。

 瞠ったその目が、間近から見下ろした俺を映す。

「…俺はゴメンだな、そんなのは」

 その瞳を見下ろしながら、尚も俺は言葉を繋いだ。

「俺は、まがりなりにも“スポーツマン”ってー自負くらいはあるからな。歴としたスポーツとして身に付けた競技空手を、単なる喧嘩のために使いたくねえし。つか、そんなことに使うために、これまで日々鍛錬してきたワケじゃないし。おまけに、誰かを痛め付けるための手段にするなんて、もっとゴメンだ。そんなもんで“勝った”ところで、全く嬉しくも何ともない」

 おもむろに唇を噛み締めて、月乃が俯く。

 そして軽く左右に首を振った。――まるでもう何も聞きたくないとでも言うかのように。

 その素振りだけで、俺を拒絶してるみたいだった。

「オマエは簡単に俺のこと『わからない』って言うけど……やられたら必ずやりかえすことが“男らしい”のか? 何もせずに逃げれば“卑怯者”? そんなん、ただオマエが作った“枠”の中に、“俺”って人間を丸ごと嵌め込もうとしてるだけのことじゃねえか。そりゃー『わからない』なんて当たり前だろ。誰が嵌まるかよ、そんな小せェ“枠”なんかに。つか、そんな不確かな価値観に“絶対”の基準なんて、あると思ってんのかよ本気で?」

 しかし、それでも俺は言葉を止めなかった。

 コイツには、今しか言えない。今じゃないと言えない。――そう感じたから。

「なまじっか腕っぷしの強い人間ほど、そこに自惚れて自分が“絶対”だと思い込むんだよな。相手のことなんて何も見ちゃいない、知ったこっちゃない。ただ自分の考える“正義”が“絶対”。それに沿わないものは“悪”として力でブチのめす。自分が勝ちゃーそれでいい。“正義”である自分が“悪”に負けるなんてことも有り得ない。――そういう自惚れに思い上がったヤツほど、軽はずみに人を傷付けては、後から取り返しのつかないことをやらかすんだよ」

 カシャ…。――微かに鉄柵が鳴いた。やや下の方で。

 フと視線を向けると、彼女の手が後ろ手に門扉を掴んでいるのが分かった。

 暗闇の中、その手の蒼白なほどの白さが、ぼんやりと浮かび上がる。

「ま、そうは言っても……オマエはオマエなりに考える“根拠”ってモンが、これまで培ってきた自身の中に在るとは、思ってるぜ。世の中、話の通じない馬鹿も、まだ多いしな。そういう相手に対しては、時には腕力にモノ言わすことだって必要だろうさ。そもそもオマエにはオマエの価値基準があって、俺には俺のそれがある。互いのそれがただ相容れないだけのことなら、本当なら俺は、こうやってオマエに偉そうにモノ言える立場じゃないんだろうさ。――それでも、敢えて言わせてもらうなら……」

 それを視線の端に眺めやったまま言葉を続けながら……そして俺は呟いた。



「オマエは“強さ”ってヤツの意味を、はき違えてる―――」



 呟いたと同時、門扉を掴んだその白い手に、ぎゅうっと力が籠もったのが見て取れる。

 その手は、微かに震えていた。



「本当に“強い”ヤツほど、力で誰かを押さえ付けることはしない。傷付けるなんて、もっとしない。それこそ“絶対”に、だ」



 ――俺は、それをテツから教わった。



 テツは……常日頃から“喧嘩上等、ヘイカモン!”ってヤツだけど。

 自分から喧嘩を売ることは決して無い。

 自分よりも弱い者に対して腕っぷしの強さに訴えようとすることも無いし、逆に、自分よりも強い者に対して無闇やたらと噛み付いていくことも無い。

 ただ自分へと一方的に売り付けられてきた喧嘩を買っている、っていうだけのことだ。

 なまじっか戦うのが好きなもんだから、断らず買いまくっているだけ。

 でも、テツは“喧嘩”が好きなんじゃない。“戦うこと”が楽しい、ってだけだ。

 同じようでいて、そこには大きな違いがある。

 テツは強い。――腕っぷしはもとより、その心も。

 心が強いからこそ、とても優しい。

 優しいからこそ、自分と同じくらい相手をも思いやり、気遣うことを忘れない。

 しかし、そういった相手への“手心”は、イコール“保身”でもある。

 テツ曰く、『たかが喧嘩だろ?』。――つまり、たかだか殴り合いのために自分が不利益を被ることなんざ割に合わない、と。

『俺に喧嘩なんざ売ってくる無礼者のために、なんでワザワザ俺が少年院ネンショー送りになってやんなきゃなんねえ必要があるんだ?』

 あくまでも喧嘩は、テツにしてみたら自分が楽しめる“趣味”の範囲内でしかないのだ。

 それゆえに、テツにとって“喧嘩”における醍醐味というものは、いかにして相手を傷付けずにブチのめせるか、に尽きる。

 なにも“一撃必殺”じゃなくていい。

 なぜなら、目的は“殺”じゃないから。

 一撃だろうが何撃だろうが、相手の気を削ぐことさえ出来ればいい。それが目的。

 相手の肉体的ダメージがより少ない攻撃で、より大きい精神的ダメージを与える戦い方を編み出すこと。――そこにテツは、テツなりの“戦うこと”への楽しさを見出している、ってワケだ。

 如何に自身をも護るためとはいえ、自分が殴り飛ばす相手のことまで考えた戦い方なんて、俺にしてみれば単に“面倒くさい”っていう、そのヒトコトに尽きるのみだが。

 テツにしてみたら、その俺の言う“面倒くさい”トコロが逆に“楽しい”、っていうもの、なんだそうだ。

 だからこそ、ルール無用のストリートファイトが、テツのお気に入りなのである。

 そこでは、正々堂々としたスポーツマンシップに則った競技空手を、いっさい使わないで済むから。

“何でもアリ”というルールによって、その場その場の状況に応じた“面倒くさい”戦い方を、実戦で身に付けていくことが出来るから。

 …とことん“喧嘩オタク”だよな、バカが付くほどに。



 ぶっちゃけ、そこだけはテツに賛同できない。

 あそこまでの“喧嘩バカ”“格闘バカ”には、なりたいとも思わないし、その気持ちだって分からない。自分が向いているとも思えない。

 あくまでも俺は平和主義者だ。

 本心を言えば、今日みたいにテツの喧嘩に巻き込まれるのだって不本意だ。

 ――けど、それは……裏を返せば、俺に対するテツからの“信頼”だと分かってるから、何も言えない。



『己のこぶしを振るうことは、水面みなもに投石するが如しだ』



 以前…もうかなり前のことになってしまうが、そうやって度重なる喧嘩沙汰に巻き込まれてしまう俺を見かねてか、通っていた道場の師範代が懇々とテツに注意を促がしていたことがある。

『投げ込む石が大きければ大きいほど、また投げ入れる勢いが強ければ強いほど、それに呼応して水面に広がる波紋が大きくなるだろう。また、投石による飛沫が水面に落ち、離れた場所に新たな波紋を重ねることもある。そうやって広がり過ぎた波紋は、収まるまでに時間を余計にかけることとなる。つまり、自分の為した行いに伴って、その場だけじゃない、後々まで尾を引いて周囲へ与えてしまう影響もあるということだ。特に、拳を振りかざした影響は大きいぞ。力は力を呼ぶ、争いは争いを呼ぶ。石を投じられた水面に再び他所から石が投げ入れられれば、波紋は収まることが無くなり、水面は元通りに静まる機会を永久に失ってしまうこととなる。――だから拳を振り上げる前に、よくよく考えなければいけないのだ。自分がそれをすることによって何が起こるのか。誰に影響を与えてしまうことになるのか。それを考えたら、どんなに好きでも、おまえも簡単に喧嘩をしようなどとは考えないはずだ』

 …直接言われたワケでもない、横で聞いてるだけの俺の方がここまで詳細に憶えてしまうほどだ。

 その一時期、本気で耳にタコが出来るんじゃないかと思ってしまうくらい、諭されていた。

 それが、どこまでテツの中に響いたのかは、俺には分からない。

 その後もテツは、どこまでも飄々と何食わぬ顔をしたままで、それまで通りのテツらしく在ることをめなかった。

 俺も、それでいいと思ってた。

 いつしか師範代も諭すのを止めていた。――あまりにも飄々としたヤツの態度に、コイツには何を言っても〈暖簾に腕押し〉だと、覚ったのかもしれない。

 後になってからフとした時に思い出して、ああいうこともあったよな、と、師範代の言葉を話題に出してみたこともあったが。

『つまり、投げ込まれる石が無けりゃ水面に波紋は広がらない。…そういうことだろ?』

 なにもそんな小難しく考えることなんて無いだろうがと、まるでさも簡単なことであるかのようにケロッとした顔で、テツは言ったものだった。



『オマエは波立ってる水面にワザワザ石なんて投げ込んだりしないもんな、すばる?』



 ――本当に……ハタ迷惑な“信頼”だ。



 つまるところテツは、自分が“水面に投石した”ことに対する影響が、まず真っ先に俺に来ることが解っていて……そのうえで喧嘩することを止めなかった、ってことだ。

 日々本能の赴くままに生きてるようなヤツだから……きっと師範代の言葉についても、理性じゃなく本能が、回答を弾き出しただろうに違いない。

 自分が掛けた“迷惑”を、俺ならば、師範代の言う『力は力を呼ぶ、争いは争いを呼ぶ』ような真似などせず上手くかわしてくれるだろう、と。

 俺ならば、波紋で波立った水面を、これ以上波立たせるようなことはしない、と。

 また、俺ならばそれが出来る、と。

 …本当に、どこまでも自分勝手な“信頼”を押し付けてくれやがるヤツだよ。

 しかも無言で。それこそ本能あたりが、何を言わずとも俺なら解ってくれるだろうとでも考えてるんだろうが。

 それはそれで、また勝手きわまりない。

 でも、だからこそ裏切れない。――裏切りたくなんてない。

 それはテツが、“本能”っていう根底の部分から、俺を対等な相手だと認めてくれている証、なんだと思えるから。



 そんなテツだから……だから俺は、テツのように在りたいと思ってるのかもしれない。

 テツのように、強く、そして優しく。

 テツが“信頼”をかけてくれるに値する人間で在りたい、――と。

 喧嘩などせずとも、なにも戦うことに明け暮れずとも、俺だってそれを実践することは出来る筈だ。

 そのためならば、“戦わずして逃げる”ことだって、平気で出来る。別に恥ずべきことだとも責められるべきことだとも思わない。

 それが最も平和的で、なおかつ相手を傷付けず自分も守れる、最良の方法だと思うから。

 俺は俺の方法で、自分の良かれと考える手段でもって、テツの抱く“心の強さ”を目標に日々精進していけばいいだけのこと。



「…オマエには、居ないのかよ?」

 俯いている月乃へ向けて、静かに問うた。

「俺の傍にテツが居たようにさ。一番最初に“こうなりたい”って憧れた選手。自分も“こうありたい”って思える友人。“絶対に超えてやる”って思えるライバル。――何でもいい、居ないのかよ、そういうヤツ?」

「…………」

「そういうヤツが身近に居れば……きっとオマエも判ってるんだろうがな」

 相変わらず俯いたまま動かない彼女に、俺は告げた。



「本当の“強さ”ってのは……相手を傷付けられる、ってことじゃない。守れる、ってことだ」



 俺はそう思ってるけどな。――と、そこでひととき言葉を途切れさせる。

 そうしてもなお、月乃は俯いたままで、ピクリとも動かなかった。言葉さえ差し挟んでくることもなかった。

「オマエも〈因果応報〉って言葉くらい知ってるだろ? ――こぶしを振り上げたら……たとえどんな理由があったにせよ、それは結局、どのみち必ず自分のトコへと返ってくることになるんだ」

「…………」

「だから、自分を守れなくちゃ誰も守れない、自分を守れる自分が在ってこそ、他人を守ることだって出来る。そういうもんだと思ってる。――あくまで、俺は、な」

 そこまで言ってから、軽くハッと、息を吐いて。

 ようやく月乃の細い肩から、それまで掴んだままだった手を離した。

 そして彼女から一歩退き、呟くように、改まって告げる。

「乱暴なことして悪かった。ついイラっとしちまって」

 月乃は、力なくフルフルと横に首を振るだけで、それに応えた。

 おもむろに片手が、俺に掴まれていた方の肩に触れる。

 掴まれていた間、言わなかっただけで、ずっと痛い想いをしてたのかもしれない。

 いくらイラついたからといっても、あれはあまりにも力任せに過ぎたな…と。

 素直に反省して俺は、再び「ごめん」と謝罪した。

「俺こそオマエのこと言えないよな。力に任せて自分の言い分を押し付けようとするなんざ」

 挙句、苛々に任せて女にまで手を上げてしまったなんざ、まだまだ俺も精進が足りてない。

「――私の、方、こそ……」

 更にフルフルと首を振り続けて、相変わらず俯いたままで、月乃が言った。まるで蚊の鳴くような小さな声で。

「ごめん…なさい―――」

「気にすんな、お互い様だし」

「でも、私……」

「もーいいって。――オマエだって、悔しいだろ?」

「え……?」

 そこで俯いていた顔を上げた月乃が、まるで不可解なものでも見るような表情をして、俺を見た。

 俺も、そんな彼女カオを目の当たりにし改めて、「ああそういえば…」と思い出す。

「そういやオマエさっき、俺に振り回されるのが悔しいとか何とか、言ってたっけな。――じゃなくて、今は別の意味で、悔しいんじゃねえの?」

「『別の』……?」

「だって、そうだろ? 自分が正しいと思ってきた“正論”を、こうやって力任せに封じ込められて……でも、それに反論することも出来ないと、なんか悔しくならねえか?」

 俺の言葉で、こちらを見つめていたその目が、ぱっちりと見開かれる。

 まるで“今そのことに初めて気付きました”とでもいいたいかのように驚いた表情。――あ、わざわざ言わなきゃよかったかな。

 けれども、言ってしまったことは、もはや引っ込められない。

 気付かせてしまったなら仕方ないと、俺はそのまま言葉を繋いだ。

「どうせ、オマエのことだから、このまま黙って泣き寝入るつもりも無いんだろ? それならそれで、好きにすればいいさ。いつか俺を見返しに来てくれるのを、楽しみに待っててやるよ」

「…………」

「だから、別に謝る必要なんて無いって。とりあえず、この場は“お互い様”ってことにして茶を濁しとこうぜ」

 それでいいだろ? と、言い終えた俺の顔を、めいっぱい瞠った瞳のままで、しばらくの間、身動ぎもせずに見つめたまま。

 やおらその瞳を伏せたかと思うと月乃は、ハーッと深々としたタメ息を吐き出した。

 しばし無言のままで数秒。――その後……、



「―――だからアンタなんて大キライよ……!」



 おもむろに拗ねたような口調で、不貞腐れたように唇を軽く尖らせながら、そんな言葉を呟いた。

「そんなこと言われちゃったら……私、どうしたってアンタに敵わなくなるじゃない」

 悔しいわ、ホント悔しいったら、――と。

 ようやく本来の月乃らしくボヤき始めたその様子に、思わず俺は吹き出していた。

 そんな俺に気付いて「笑うことないでしょ失礼ね!」と憤る様子が、なんだかミョーに微笑ましくて仕方なくて。

 なんだ、コイツも結構カワイイとこあるじゃねえか、…なんて。

「はいはい、そうムクれるなよ」

 今さらながらの発見に、そう子供をあやすように言っては、ポンポン月乃の頭を撫でてみる。

「子供扱いしないで!」

 そうムキになっては俺の手を振り払う仕草までも、やはりミョーに笑いを誘われる。

 …あーヤバイ、これはツボったなー。

 あまり月乃を怒らせるのもナンだと思って、あからさまに笑うことこそ、とりあえずはこらえてるけど。

 でも、どうしても堪え切れない笑いが、ククッと音を立ててノドの奥から湧いてくる。これは自分じゃ止められない。

「ホント、ムカつくわねっっ……!」

 相変わらず密かに笑いと格闘し続ける俺に対して、とうとう怒り心頭に達したか。

 そう唸るように言うなり、脹れっ面になってソッポを向いた。…それも全身で。

 クルリときびすを返して身体ごと俺に背を向けた彼女は、それでも尚、「最低」だの「ワケわかんない」だのと、ぶつくさ呟き続けている。

「なんで私、こんなヤツに……こんなヤツが……!」

「あーはいはい、わかったよ、笑った俺が悪かったって……」

「違うわよ! ワケわかんないのは私の方よ!」

「――は……?」

 発されたその言葉は、俺にとって不可解でしかなく。

 思わず俺が絶句したと共に、ゆっくりと彼女は、改めて俺の方を振り返った。

 キョトンとした表情のままで、振り向いてコチラを見上げてくる月乃をマジマジと見つめ返してしまった、そんな俺の視線を受け止めて。

 彼女もまた、それを逸らすことなく、更に俺を真っ直ぐに見つめ返す。

 そうやって俺を真っ直ぐなまでに見据えたまま……その唇が小さく言葉を紡ぎ出した。

「アンタなんて……! 初めて見た時の印象はカッコ良かったのに、実際に会ってみればアッサリそれ裏切ってくれちゃうし、挙句ヒトのこと振り回すばっかりだし、やってることだって今じゃ全然カッコよくもないし、私の理想のタイプに引っかかってる部分だってコレッポッチすら全然ないし、絶対アンタなんて男として“ハズレ”なハズなのに……!」

 ――てか、『男として“ハズレ”』って……オマエそれ随分な言い草だなオイ……!

 それって普通、仮にも当人の前で面と向かって、しかも、そこまで真正面から真っ直ぐに堂々と言っても、いいことなのだろうか……?

 明らかに、それは俺に対してあまりにも失礼すぎる物言いである。

「オマエ……俺に喧嘩、売ってんの……?」

「売ってないわよ。告白してるの」

「はァ……?」

 またもや意味不明なことを言い出した月乃は。

 そこで改まったように、俺をまた真っ直ぐに…でも瞳にどことなく困ったような色を湛えながら見つめ。

 でも口調だけはきっぱりと、それを言った。



「所詮そんなヤツなのに。――なんで私、まだアンタのこと好きなのよ?」



「…………」



 ――えーと……そんなん、俺に訊かれても……。



 ここまで月乃には、さんざんっぱら『バカ』だの『最低』だの『ムカつく』だの『女の敵』だの『男らしくない』だの『卑怯者』だの『カッコよくもない』だの『男として“ハズレ”』だの……ほか諸々、これ以上はもう無いだろう、ってくらいに多数の悪口雑言を浴びせられかけてきた手前。

 ここでいきなり飛び出した『好き』の言葉の意味を掴みかね、俺は何の言葉も出せず、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。

 ――ちょっと待て……?

 とりあえず働いてはくれた俺の思考回路が、その言葉を額面通りの意味に受け取ることを躊躇った。

 きっとコイツのことだから何かウラの意味が……あるよな多分? ――とは考えてみても、相手はこの“単純まっしぐら”の月乃のこと。一概に、そうとも言い難い。

 ――だから、ちょっと待てって、落ち着け俺ッ……!

 どうにかして理路整然とした“ああナルホド”と納得できる理由を探そうとしてみるも、そもそも今の俺の頭の中からして理路整然としてないものだから。そんなのは、到底無理。

 なんでだ? どうしてなんだ? という疑問詞ばかりが、脳内を駆け巡るばかりだ。

「きっと……アナタを初めて見た時から、だったのね……」

 何も言えずに立ち尽くすだけの俺の反応の無さに業を煮やしたものか。

 俺の返答を待たず、おもむろに月乃が、それを告げた。



「ヒトメボレだったのよ。――だから、変な理想像とか、私の中に出来ちゃってたんだわ」



 ――えーと……それを言われたから、だから俺に何を返せと……?



「だから、ゴメンなさい。私これまで、ちゃんと“現実”に存在してる『早乙女 統』って人間を、全く見ていなかったのかもしれないわ」

 更にワケも分からず硬直するだけの俺のことなど、気付いているのかいないのか、全く気にも留めずに。

 月乃は淡々とした口調で、なおも言葉を続ける。

「アナタに対して、どうして私、あんなにも腹立たしくて仕方なかったのか……そのワケが今、判ったの。ただ単に、私の中に出来上がってた『早乙女 統』のイメージを、よりにもよってアナタ自身によって壊されたくなかった、っていう、それだけのことだったのよね」

「…………」

「私が『好き』でいるのは、あくまでも初めて見た時の強くて男らしい、“理想”の中のアナタだけだと思ってたけど……でも今日やっと、全然理想とはかけ離れてる“現実”のアナタも、私の“理想”の中のアナタと同じ人なんだって、気付いたの。まだスンナリと納得は出来ないんだけど。――でも、それが今は、なんか嬉しくなってきたりもして」

 言いながら月乃は、その口許に微かな笑みを浮かべてみせた。



「――アナタが『早乙女 統』で良かったと思う」



 それを、穏やかに…でもはっきりとした口調で、言い切って。

 笑みを湛えた表情のまま、やわらかく俺を見つめる。

「アナタが私の“理想”の『早乙女 統』だった、ってことには、やっぱり心の底じゃまだ納得したくない部分もあるけど……それでも、『早乙女 統』であるのが、アナタで良かったと思う」

 ――聞けば聞くほど、ますますもって意味不明……。

「えっと、それは一体どういう……」

「やっぱ結局、私って強い男が好きなんだなーってことなのよね、つまりは」

「――は……?」

「アナタは、ずっとそのままでいてよね。私、弱い男に用は無いから」

「…………」

 ――えーと、それは……そんな、ものっすごく麗わしい聖母のような微笑みと共に発される言葉では、決して無いような気がするんですケド……?

 ますますワケが分からなくなって眉をしかめる俺とは対照的に。

「あー言うだけ言ってスッキリした!」と、やたら晴れ晴れした表情で笑う月乃。

 ――だから何なんだよコイツは一体……?

「じゃ、そういうことで。私、そろそろ行くわね」

「え……?」

「もうすっかり暗くなったし、まあ大丈夫だとは思うけど……さっきの連中に出くわさないように、アナタも気を付けて帰ってね」

 そう言いながら軽く手を振った月乃は、さっさと一人できびすを返した。

 なおかつ、そのまま裏門の鉄柵をよじ登り始める。

「おい……! オマエどこ行く気……」

「生徒会室に戻るわ。自分の制服も荷物も置きっ放しだし……それに、まだ雪也ゆきやが待っててくれてると思うしね。――そういうワケだから、送ってくれなくても大丈夫よ。そこのフェミニストさん」

 それを言い終えた時には、既に彼女は、門のてっぺんまで到達しており。

 おもむろに手を離すと、綺麗に門の向こう側へと着地した。

「じゃあ、さよなら。今日はありがとう」

 再び手を振りながら、闇の向こうへ駆け去ってゆく、その後ろ姿を。

 俺は相変わらず立ち尽くしたまま呆然と見送った。

「――なんだったんだ一体……?」

 呆然と洩れる呟きと、深々としたタメ息。

 呆然としたあまり、月乃の姿が闇に紛れて見えなくなっても、しばらくその場から動けなかった。

 動けなかった、その間―――。

 ようやく平常並みに動き始めてくれた思考回路が、それまでの一連の出来事について、俺の納得いく回答を弾き出す。



『先輩の強さに惚れました! 弟子にしてください!』

『私って強い男が好きなんだなーってことなのよね、つまりは』



「――確かに、二人とも言ってること同じだもんな……」

 そこに思い当たった途端、ああまた面倒な…と、思わず俺は頭を抱えた。



「よーするに……かなめがもう一人増えた、っていうだけのことじゃねえか―――」





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