第2話 再会

「ただいま」

 私はそう言って、履き潰したサンダルを実家の玄関に脱ぎ捨てた。誰からも返答はなかったが、それでも不思議と帰ってきたんだな、と実感する。私は自分の帰省を実家にアピールするためか、わざとらしく大きな音を立てながらリビングへ向かった。すると「あら、おかえり」と祖母が台所から顔を出して言った。私は床に荷物を置いて、ソファになだれ込んだ。

「暑かったでしょう。麦茶、いるかい?」

 私は額に浮かんだ汗を手の甲で拭って頷いた。祖母は棚からコップを取り出し、冷えた麦茶を注いだ。私は上体を起こし、祖母からなみなみと注がれた麦茶を受け取ると、それをいっきに飲み干した。

「いい飲みっぷりだこと」

 祖母がそう笑うと、自然と私にも笑みが浮かんだ。大学では他人や、場の空気に合わせて笑うことの方が多かったせいか、こうして自然と笑えることがやけに嬉しく感じた。

「そういえば、お父さんは?」

 空いたコップを片付けようと、台所に向かう祖母の背に向けて訊ねた。祖母はコップを洗いながら「仕事よー」と答えた。そっか、とぼやいてから、ソファから動きたくなかった私は「麦茶のおかわり!」とねだってみたものの、「自分でやりなさい」と叱られたため、しぶしぶソファから立ち上がって、冷蔵庫に向かった。それから食器を洗う祖母のとなりで麦茶を飲みながら、お互いに近況を報告し合った。大学のこと、実家の畑のこと、親戚の子の進学事情など、話が尽きることはなかった。

 しばらくの間そうして話をしていると、壁にかかった時計で時刻を確認した祖母が「もうこんな時間!」と、私のお尻をかるく叩いた。

「ほら、一息ついたら荷物を上に運んでおいで。今日は忙しいから、あんたにも手伝ってもらうよ」

「えー、いま帰ってきたばっかりなのに?」

 私が頬を膨らませて、あからさまにイヤそうな顔をすると、また祖母が笑って言った。

「なに言ってんの。あんたが帰ってきたんだから、ごちそうの準備をしないといけないでしょう。おばあちゃんはもう歳なんだから、手伝ってもらわないと」

「やった!」

 なんとも現金なもので、そう聞くとやる気がみなぎってきた。私は荷物を二階にある自室に運ぶべく、リビングを飛び出し、階段を駆け上がっていく。実家を出てからも、ちっとも変わり映えのない自室に荷物を投げ入れて、階段を降りようとした私は、視界の端に懐かしい部屋をみた。

「あ、」

 それは二階の角にある、小さな部屋。私がまだ小さかったころ、気になってしょうがなかった「開かずの間」だった。その部屋はおぼろげな私の記憶と寸分違わずに、ぴったりと戸を閉ざし、そこに存在していた。

 私はリビングに向かうのを一旦止めて、おもむろにその部屋の前に立った。長いこと忘れていた「開かずの間」だったが、いざ目の前にすると、私の脳裏にはその部屋をめぐる思い出が溢れんばかりに浮かんだ。

 私は思い切ってドアノブに手をかけてみた。緊張はなかった。大人になった、ということなのだろうか。祖母には内緒で入ってしまおうとも考えたが、それは大人な私としても憚れたので、私は「開かずの間」をあとにして、台所で夕食の支度を始めた祖母に話しかけた。

「ねえ、おばあちゃん。私ももう大人なんだしさ、あの部屋に入ってもいい?」

「別にいいわよ。」

 野菜の皮をむきながら、目もくれずに、あっさりと祖母が言った。かつては大いに待ち望んでいたはずのその言葉が、ずいぶんと淡白なものだったので、私はもう一度聞き直した。

「ホントにいいの?」

 しかし祖母の答えは変わらず、「開かずの間」の入室を許可するものだった。

「隠すものもないわよ。どのみち、あんたが大きくなったら見せようと思っていたしね。それより、ちゃっちゃとみてきて、はやく手伝ってちょうだいな」

 これ以上、余計な口をきいたら祖母から小言の一つや二つがとんできそうだったので、私は「はいはい」と返事をして、逃げるようにして二階へ向かった。駆け上がっていった先ほどとはうってかわって、一段一段、噛みしめるように階段をあがる。

 きっかり十八段。そして、私はあの「開かずの間」の前に再度やってきた。しばらく忘れていたとはいえ、この部屋に入るのが私の悲願だったことに変わりはない。私はもう一度、ドアノブに手をかけた。むかしはこのドアがひどく特別なものに見えたのだが、いま見ると何てことのない、ありきたりなドアのように見える。

 私は一つ、深呼吸をした。

「よし!」

 齢十九にして、ついに、私は人生で初めて「開かずの間」のドアノブを捻った。とはいえ、思いっきりドアを開け放つほどの勇気はなかったので、私は恐る恐るドアを開けていき、神妙に中の様子を伺う。

「思っていたよりキレイじゃん」

 私の勝手な想像では、「開かずの間」とは埃っぽく、古く、汚い部屋のはずだったのだが、実際はそれらとは真反対の、掃除が行き届いた、きれいな部屋だった。それこそ、拍子ぬけするくらいキレイだった。

 私はゆっくりと部屋の中へと入っていく。部屋にはモノというモノはほとんどなく、部屋の隅の机に写真たてがいくつか置いてあるくらいだ。祖母の言った通り、隠すものもないのだろう。部屋をよく見渡してみても、特筆すべきものはあまりない。

 長いこと祖母から入室禁止、と言いつけられてきたこの部屋はこんなものだったもか。正直なところ、少し期待外れだったのは否めない。

 私は部屋の隅にあった写真たてを手に取った。美しい女性の写真だった。どことなく祖母と似ている気がする。きっと親戚か何かなのだろう。私は写真たてを元の位置に戻して、これ以上見るものもなかったので部屋を出ようとドアに向かった。

 ふと、そこに誰かいる気がした。

 私は振り返って室内を確認するも、もちろん誰もいない。気のせいか、とひとりごちて、私が部屋をあとにしようとすると、

「まあ、ずいぶん大きくなったのね」

 突然、聴き覚えのない、しかし心地のいい声が部屋に響いた。

「え、」

 思わず声が漏れた。室内には私以外は誰もいないはずだが、確かに聴こえた。しかし、その不可思議な現象にもかかわらず、私に恐怖といった類の感情はなかった。普段の私ならば発狂してこの部屋に除霊師でも呼びつけるのだが、なぜかこの時は、やけに冷静に、落ち着いて、その声を受け入れることができた。

「ただいま」

 なんとなく、誰もいないはずの部屋に向けて、私は伝えた。

「おかえりなさい」と、その声が応えた気がした。

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私は大きくなりました。 @aida

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