Chapter 15

空に道 海に光


 耳に響く風の音と体表を震わせる風圧が、モローの意識を覚醒させる。

 実時間にして一瞬。モローが我に返ったとき、真っ先に飛び込んできたのは少年の蒼い瞳。まっすぐに自分を見つめる澄んだ瞳が、ただ変わらずにそこにあった。


「わ、私に何かしたんですか!?」


 モローは少年の直視に耐えられない。声を荒げ、ことさら醜く自らを演出し、その少年――カタナへとつばを飛ばす。それは、自身から目を背けさせるため。


「なあ、おっさん――」


 カタナは笑った。それは、モローが数十年見ることのなかった笑み。屈託のない、どこまでも無邪気な笑顔。

 モローがたった今想起した過去の出来事。彼にとって、すでにそれはただのきっかけとして処理されているはずだった。つまらないプライドや憧れ、幻想に縛られていた自分を解き放ち、勝利と儲けのためならば、どんなことでも可能となったいまの自分へと変化するきっかけ――。


 いまの私は、利のためならば生まれ育った土地を滅ぼすことだってできる。そうだ、全ては利益のため。決してこの土地に、人々に、裏切られたなどとは思ってはいない。ただひたすらに見ていた夢を、輝きを、失望で塗り込めたオールセルを憎んでいたわけではない――そのはずだ!


 モローは息をするのも忘れ、カタナに向かって意味不明な言葉を吐き続けた。

 だが、カタナはそれを制するでもなく。ただ一言、モローに言った。


「おっさんの好きな食い物、教えてくれよ!」

「――はぁ?」


 まるで、鼓膜を震わせる風がその一瞬だけ完全に止んだかのよう。カタナの声は、はっきりとモローに届いた。


「あなたは――何を言って」


 オールセルは海と山。そのどちらの幸にも恵まれた土地だ。うまいものなど数え切れないほどある。だがモローは知っている。土地勘のない観光客相手ではない、オールセルで生まれ育ったモローだからこそ知る最高の美食。

 例えば魚。慣れない人間は魚には常に火を通そうとするが、モローからすればとんだ下策だ。獲れたての新鮮な魚を港で直接さばき、そのぷりぷりの切り身を――。


「――それ、すげえうまそうだな!」

「あ? え?」


 吹きすさぶ風と暗雲。閃光によってオールセルを切り裂いたフォートレスが、その巨体をゆっくりと引き起こす。狙いは着水したラピスⅦか。それともコロニーか。


「ちょっと、どうしたの!? さっきからなにやって――え!?」


 フォートレスの再起動を確認したリーゼ。彼女は急かすように後部座席へと視線を向けようとする。だが、その時――。


「ママー! あれみて! おいしそうなおさかな!」

「これと酒さえあれば、他にはもうなにもいらねえんだよなあ!」

「えぇ……私これ苦手なのよねぇ」

「おいしそう……」


 リーゼだけではない。いまこの時、オールセルに存在する全ての人々が、みな一様に同じ光景を幻視した。それは、オールセルの住人なら誰でも一度は口にしたことのある料理。当然、それを好きな者も嫌いだという者もいるだろう。だがそれは紛れもなく、オールセルの人々にとって思い出深い、この土地の食――。

 フォートレスの攻撃で渦巻いていた風が止む。カタナの緑光が、力を増す。


「へえ――ここって、そんなとこもあるのか!?」


 次にカタナが尋ねたのは、寝るのに丁度良い場所だ。

 人々のイメージに浮かんだ光景はオールセルを一望する山の中腹。高地でありながら海からも近いその場所は、ほどよく湿気を失った潮風が色づいた木々を揺らす。気温も平地より遙かに過ごしやすく、日々の疲れを癒すには正にうってつけ。なにも特別なことではない。オールセルで育った者ならば、誰でも知っている暑い夏の過ごし方――。


 垂れ込める黒雲。火の手が上がる街。その下で人々は、幾たびも過ごしたオールセルの日々へと思いを馳せる。

 それと同時に、荒れ狂う波の奥。暗く深い海の底から、弱々しい光が一つ、また一つと海面めがけて昇っていく。カタナの緑光が、力を増す。


「なぜだ、なぜこんなことが!? やめろ! 私は――」


 モローは大粒の汗をだらだらと流し、狭い後部座席の中で少しでもカタナから離れようと身をよじる。だがカタナは構わない。ある種、恐慌状態にも似たモローをただひたすらに見つめ、尋ねた。


「じゃあさ――。おっさんがここで一番好きな場所、教えてくれよ」


 モローは、カタナから目を背けることが出来なかった。


「すごく、綺麗――」


 三度浮かび上がったその光景に、リーゼは思わず感嘆の声を上げた。

 波間に沈む美しい夕焼け。まるで、黄金を敷き詰めたかのような砂浜。そして、どこまでも広がる果てのない海と、空の青――。

 それは、オールセルを訪れた者ならば誰しもが目にし、心に刻むこととなる原風景。根を張る者はその美しさを明日の糧に。過ぎゆく者はまたここに来ようと誓うだろう。


 そう――、すでに色あせ、記憶から消し去ったはずの、若き日のモローが通い続けた、あの浜辺だった。


 いま、オールセルに存在する全ての人々が、モローの記憶を通じて同じ光景を目にし、思い思いの感情を想起した。そしてこの現象こそ、カタナと、彼のミドリムシに残された最後の賭け――。


「――ありがとなおっさん。この場所のこと、よくわかった」

「違う! 私は憎んでいる! 私を裏切ったこの場所も、人も、全てが憎い! だからクランを引き込んだ! 全部壊そうとしたんですッ!」


 涙を流し、鼻水すら垂らして叫ぶモロー。それを見たカタナは笑い、そっとモローの肩に手を添えて、彼らの想いを伝えた。


「おっさんは、ここのことが大嫌いかもしれないけど――」


 モローはカタナのその瞳の中に、目の前の少年以外の、の意思を見ていた。


「――ここのみんなは、おっさんのことが大好きなんだよ」




 瞬間――閃光が奔った。




 オールセルを囲む海、その全てが一斉に輝きを放つ。金色の水面から立ち昇る光の粒子は、空中のある一点――カタナめがけて集結。その場に居合わせた全ての人々が、天に昇る緑光の輝きに目を奪われ、コロニーへと向かおうとしていたフォートレスもまた、ニンジャの存在を捉える。


「これ――もしかして全部、ミドリムシの光なの!?」

「こ、この光は――」

「あんたは、ここのことならなんでも知ってる。すげえやつだ」


 クリムゾンアップル機上。ゆっくりと見開かれたカタナの瞳に、緑光が灯る。


「そんなおっさんだからさ、みんなもずっとあんたのこと見てたんだ」

……。まさか、そんな!?」


 モローは理解した。カタナの言うが、なにを指しているのかを。

 いま、クリムゾンアップルと共に彼を包む緑光は、モローが負った全ての傷を癒すかのように彼に寄り添い、穏やかに明滅。モローは暖かなその光の向こうに、この場所で過ごした日々の全てを見ていた――。


「カタナ! フォートレスがこっちに気付いたみたい!」

「わかった! おっさん、しっかり掴まってろよ!」


 叫ぶリーゼ。機上に仁王立つカタナ。彼の持つ漆黒のブレードに緑光が収束、長大な光刃を形成。緑光迸るカタナの瞳が、天を貫くフォートレスの巨体を見据えた。


「なあリーゼ。俺、ここのこと好きになった!」

「いきなりどうしたの?」


 緑光と共に加速するクリムゾンアップル。不思議そうに振り向くリーゼに、カタナは満面の笑みで応える。


「いいとこだよな! 飯も美味いし、みんな生きてる!」

「うん――。私も好きよ。みんなと会えた、大切な場所だもの」


 言って、リーゼはクリムゾンアップルのシートに優しく触れた。


「――だから、絶対に壊させない! でしょ、カタナ!」

「ああ! 行こう、リーゼ!」


 眼前に迫るフォートレスの巨体。機上の二人は視線を交わし、力強く頷いた――。

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