大地を覆っていた雪も山の頂にわずかに残るばかりで、眼下に広がる大地は土の茶色と芽吹いたばかりの萌黄、そして絢爛に咲いた早春の花に彩られて、まるでパッチワークで作られた絵画のようだ。そこに茜色の絵の具を流し込んだように、世界は夕陽に染められて美しい情景を魅せつけている。


 ヴァレーゼの空を飛ぶのはまさに五年ぶりだ。

 駐留していたヴォルガ軍もかなりの数が撤退し、代わりにランバルドの地上軍が進軍して、前線は徐々に本来の国境に近づいてきている。

 空でも比較的大規模な空戦が行われることは少なくなった。哨戒任務とはいえ、穏やかな空を飛んでいると、いまだ戦争が終わっていないことを忘れてしまいそうだ。

 もう少しだ──もう少しで終わる。


「夏が来るまでには……この戦争も終わるかな」

 一人ごちたヴィートの呟きに、編隊を組んで飛ぶ部下たちの力強い声が答えてくれた。


『何言ってるんですか隊長。オレたちの手で終わらせるんでしょう?』

『こっちにはなんてったって「悪魔」がいるんだから』

『えらく女にモテる悪魔だけどな』

 無線機越しに笑い声が上がる。

「勲章の一つでももらえば、お前らだって引く手数多だろうよ。女がベッドから離してくれないぜきっと」

『くあーっ、早くランバルディアに帰りてぇ』

『オレも勲章もらえるかな』

「陛下直々に賜れるかもな」


 ヴィートの何気ない言葉に、隊の中に沈黙が降りる。

 誰もが意図的に避けていた、それでもずっと気になっていたこと。それをあえて口にしたのはヴィートの機に並ぶ副官だった。

『そんなこと言って……陛下に一番お会いになりたいのは、隊長なんじゃないですか』


 皆知っている。

 決して口にしないけれど、隊長が女王陛下のことをどれだけ大切に想っているかを。

 軍人としての忠誠心だけではない。それは多分一人の男としての想い。

 陛下と隊長の間に何があったのかはわからないけれど、あの二人の心は遠く離れていても固い絆でつながっている──先日のランバルディア空襲阻止の際に、隊はそれを確信した。

 あまりにも健気で、いじらしくさえある想い。


「……そうかもな」


 ヴィートの呟きは、隊に不思議な安堵と結束をもたらした。

 いつも飄々としながらも部下に細心の注意を払い、自分たちを教え導いてくれる隊長──いや、隊のためだけではない。国のために命を賭して戦うこの人を是が非でも幸せにしてあげたい。今一度、晴れがましく陛下の御前に立たせてあげたい。

 そんな想いが伝わってきて、ヴィートは少し気恥ずかしくなった。


『隊長! 二時方向、敵の編隊です!』

 索敵していた隊員が叫んだ。

 首を向け目を凝らすと、確かに茜色に染まる空の向こうに無数の機影が確認できた。だが、何かおかしい。肌が粟立つのがわかる。


「なんだ、あの大編隊は……」

 その数はざっと見積もっても二百は下らない。これまでに見たこともないような戦闘機の数だ。しかも、あの大きな機体は……

『重爆撃機です! 奴ら、ヴァレーゼを焼け野原にするつもりですよ!』


 よく見れば大編隊のほとんどが爆撃機だ。血の気が引く思いがした。

 追い詰められて、ヴォルガは愚行に走ろうとしている。

 ヴァレーゼをみすみす取り返されるくらいなら、全てを無に返してしまえ──ヴォルガ軍が敗走を始めた頃から、焦土作戦の噂は出ていた。だが、まさかそれを本当に実行に移してしまうとは……そこまでヴォルガは切羽詰っていたのだ。


「……ふざけるな」

 ぎり、と歯軋りをして、ヴィートは操縦桿を強く握り締めた。

「全機! 迎撃に向かうぞ!」

 ヴィートは叫んで、機首を二時方向に向けた。

「応援など待ってられるか。奴らが市街地に入る前に、この山岳地帯でなんとしてでも食い止めるぞ!」


 こちらは高々一個中隊、十六機だ。だが、ここで引き下がって奴らがヴァレーゼに爆弾を落とすのを見逃すような真似は絶対にできない。

 部下たちも覚悟を決めてくれたようだ。全機が隊形を崩さず、ついてきてくれる。


「護衛機はオレがやる。お前たちは爆撃機を!」

『了解!』

 ヴィートは一機飛び出し、全速力で大編隊に近づいた。向こうの護衛機が気づいてこちらに機首を向けてきたが、危険を顧みず大編隊の中に突っ込み、機銃をばらまいてかき回した。隊形が崩れ飛行機が散り散りになり、大編隊はその歩みを止める。


「怯むな! 数は多いが、一機ずつ確実に仕留めていくんだ!」


 そう言っている間にヴィートはすでに二機墜としている。

 混乱し、右往左往する飛行機の間を縫うようにして飛び、乱射される機銃をかいくぐって、一機、また一機と撃墜する。空のいたるところで黒煙が上がり、爆撃機が爆弾を抱えたまま山肌に落ちていって大きな火柱を上げていた。

 だが多勢に無勢。あまりにも数が多すぎる。

 雨のように浴びせられる敵の七.七ミリ弾は容赦なく機体を撃ち抜き、翼を切り裂いていく。計器パネルのあちこちで異常を知らせる赤ランプが灯り、機体は確実に限界に近づいていた。

 部下の機も敵の猛反撃に耐えられず、次々と堕ちていく。これが戦争なんだと思いながらも、手塩にかけた部下が死んでいく様を見るのはやはり辛い。

 せめて、自軍の掩護が来るまで敵の足を止めたい……


「もう少し……もう少しなんだ……」


 必ず戻ると、そう約束した。

 この戦いに勝って、彼女に幸せな未来を届けると、そう誓ったのだ。

 スロットルと操縦桿を握る手に、より一層の力を込める。急旋回に身体と機体が悲鳴を上げようとも、ヴィートは一心不乱に機銃を撃ち続けた。

 大編隊の進路の前に躍り出て、立ち塞がるように突進する。


「ここから先へは行かせない」


 真正面から機銃掃射を浴び、コクピットのフロントガラスが粉々になって頬を切り裂いた。それでもヴィートは決して進路を変えず、根負けした爆撃機が旋回するまで粘る。

 機体は満身創痍、飛んでいるのが不思議なくらいだ。

 気がつけば、右太ももに痛みが走っていた。コクピットに飛び込んできた銃弾が跳ねて当たったのだろう。傷口から流れ出る血が飛行服を赤く染め上げている。

 それでもヴィートはまだ引けなかった。再度旋回し、爆撃機の前に出る。たとえ弾が尽きようとも、身体を張ってでも止めて見せる。

 目の前に迫る爆撃機。動きが鈍くなった愛機。覚悟を決める時がきたのかもしれない。


『隊長! 掩護が来ました!』

 無線機が甲高い声を上げた。

 その言葉に遠方を眺めると、今にも沈みそうな夕陽の光をキラリと反射して、ランバルド空軍の大掩護団がこちらに向かっているのが見えた。

 間に合った……息をついた、その瞬間。


 背筋に寒気が走った。振り返る間もなく操縦桿を倒す。

 直後、数発の鈍い音と機体に走る衝撃。

 後ろから翼を撃たれたのだ。当たり所が悪かったのだろう、プロペラがその動きを止め、機体がつんのめったように急降下を始める。

 もはやここまでか。いや、よくここまで持ったというべきか。即爆発炎上しなかっただけでも幸運なのだろう。

『隊長!』

 部下の悲痛な声が無線機から響いたが、無用な心配をさせないように、ヴィートは努めて明るい声を出した。


「いつものことだろ……春とはいえ山は寒いからな、早めに迎えに来てくれよ」

 ベルトを外し、キャノピーを開ける。

 流れるような動作で空中に身を投げ出すと、パラシュートがすぐさま開いて、大きな白い傘と共にヴィートの身体は雪の残る山へと落下していった。

 薄闇の中、遥か彼方にヴァレーゼ市街地の灯りが見える。平穏無事なその煌きに安堵し、ヴィートは眠るように目を閉じた。








 暗闇に浮かぶ彼女の顔。しとやかで朗らかな微笑を浮かべる彼女がその腕を伸ばして、自分を優しく抱きしめてくれる。


 必ず──必ず、帰るから。








 物音がして、ヴィートは重いまぶたを開いた。

 うっそうと茂る森の中、月の光も届かない地面はいまだ雪に覆われて、ほのかに夜の森を照らしている。物音は鹿か狐の足音だったのだろうか。

 ここからでは空の様子もうかがえない。針葉樹の森は静まり返っていて、戦闘機の音さえ聞こえなかった。


 背を大樹の幹に預けたまま、しばし気を失っていたようだ。

 冷たい地面に投げ出された自らの足。その太ももからは今も血が流れ出している。自力で山を降りようと頑張ってはみたが、この足では土台無理な話だった。陽が落ちてからの冷え込みは思っていた以上にきつく、動けなくなった身体から体温をどんどん奪っていく。

 救助が来るのが先か、死ぬのが先か。這いつくばってでも降りたかったが、すでに身体は言うことを聞かなくなっていた。


 ヴィートはぼんやりとした目で辺りを見回した。

 血まみれの雪。四肢を力なく投げ出し、ただ白く荒い息をつくだけの身体。どこかで見たことがあるような光景だ──


 ああ、そうか。天使だ。

 血の気の引いたヴィートの顔に、笑みが浮かぶ。

 天使をこの手で殺した報いを、いや、数多の人間を撃ち落してきたその報いを受けるその時がやってきたのだ。

 死ぬことは怖くない。怖くなかったはずなのに──どうしてこんなにも心が残るのだろう。

 きっと彼女に出会ってしまったから。彼女を愛してしまったから。

 だが後悔はしない。彼女のために、この国のために戦う。その想いが自分を蘇らせてくれたのだ。

 ひどく眠い。このまま目を閉じれば、彼女の腕に抱かれて逝けるのだろうか……


 また、物音が聞こえた。雪を踏みしめる足音。ゆっくりとこちらに近づいてくるようだ。血の匂いに誘われた狼だろうか。それにしては重量感のあるゆったりとした足音だ。

 もう、首を動かす力も、まぶたを持ち上げる力すらない。近づいてくるものが何者なのかも確かめられなかった。

 足音は確実にこちらに向かってきている。そう──この足音は人間だ。その音は徐々に大きくなって、そしてぴたりと止まった。

 半開きのぼやける視界の中で、軍靴を履いた足が雪の上に立っていた。

 誰だ……救助に来てくれた味方か? いや、敵か……かつて自分がそうしたように、死にぞこないの身体にとどめを刺してくれるのかもしれない。


『不死身の悪魔も形無しだな。そんな顔じゃ女も逃げてくぜ』

 聞き慣れたダミ声が降ってくる。うれしくなって、残された力を振り絞って顔を上げた。


「お前に言われたくないな、ニーノ」


 親友が、昔の姿そのままで立っていた。傷だらけの厳つい顔をほころばせて、こちらを見下ろしている。


「ご丁寧に迎えに来てくれたのか」


 死んだはずの人間が目の前に現れたことの意味くらいわかっている。だがニーノは何も言わず、全てを見通したような目でこちらを見下ろすばかりだった。

 また足音がした。森の暗闇に浮かぶ人影、ヴォルガの飛行服に身を包んだ男だ。


「天使……」


 この手で殺したはずの、あの男。

 ただ一度、顔を合わせたあの時のまま。無精ひげを生やした精悍な顔つきの天使は、ニーノと並んで自分を見下ろしていた。

「二人もお出迎えとは……オレも偉くなったもんだ」


 かつての親友と、かつてのライバルと。あの世への道案内に最適の二人だ。

 声を出して笑ったつもりだったが、もはや切れ切れの白い息が吐き出されるだけだった。


『お前は……戦う理由を見つけたんだろう?』


 おもむろに天使が言った。

 あの日、お互いに見失っていたもの。ニーノにたずねられ、答えられなかったもの。

 そう──五年かかって、やっと見つけたんだ。

 天使はうなずいた。 


『お前には、帰るべき場所がある』


 帰りたい──彼女と約束したんだ。必ず帰ると。


『さあ、行こう』


 ニーノと天使、二人がそれぞれに手を差し出した。

 指一本動かす力すらなかったはずなのに、不思議と腕が上がる。二人の手をしっかりと握ると、何とも言えない心地よさが身体を包んだ。

 これで──ようやく彼女のもとに帰れる。

 この身をランバルドに降る雪に、雨に変えて、いつまでも貴女の上に降り注ぐから。

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