一週間後、ランバルド王室は女王クリスティアーナとベルンハルト皇子の婚約解消をヴォルガ側に通告した。それはほぼ一方的で、ヴォルガにとっては寝耳に水の話だった。


 一度は結んだ婚約を、女王はなぜ一月も経たないうちに解消してしまったのか。

 資源の豊富なランバルドをどうしても手中に収めたかったヴォルガの裏事情に気づいたからとか、婚約が報道されたことでヴォルガの重苦しい干渉に鬱屈した国民感情が噴出し、あちこちでデモ行動が沸き起こったからとも言われるが、そのどれもが以前から言われていたことであり、女王の突然の心変わりの真意としては決め手に欠けるものである。


 そんな中で一つ、まことしやかにささやかれた噂があった。


 冬戦争の勇者として名高い空軍のエース、ヴィート・エヴァンジェリスティ大尉が、女王に婚約を解消するよう直接進言したのではないかという説である。しかもこの二人が恋愛関係にあったのではないかと新聞記事は伝えている。

 だが女王も王室も、多くを語ろうとはしなかった。大尉も空軍も固く口を閉ざし、結局事の真相が世に明らかにされることはなかった。


 面目を丸つぶれにされた形のヴォルガは怒りに狂った。

 政略結婚とはいえ、美しいクリスティアーナに御執心だったベルンハルトは婚約破棄を大層嘆き悲しみ、皇帝イヴァンに泣きついたのだという。元々政略結婚には消極的で、武力でランバルドをねじ伏せたかった好戦的な皇帝は、好機とばかりに軍を動かした。

 もちろん、五年前と同じ轍を踏むランバルドではない。ランバルド軍はその動きをいち早く察知していた。

 冬戦争ではヴォルガの電撃的な侵攻に出端をくじかれたランバルドであったが、今回は十分に準備できる余裕があった。クリスティアーナが婚約破棄を発表したその瞬間から、国全体に戦争への心構えができていたと言っても過言ではない。それを証明するかのように、ヴォルガ軍が動き出す前にランバルド軍は国境付近の軍備を増強していたフシがある。


 とはいえ、ランバルドは決して戦争を望んでいたわけではない。ギリギリまで戦争を回避しようとヴォルガの高官と折衝を続けた。話し合いで平和的に解決できるものならそのほうがいいに決まっている。

 独立紛争を二つも抱え、大半の国力を軍備に割いてしまい国内の財政やエネルギー事情が逼迫する中でランバルドと衝突すれば、たとえヴォルガとはいえ無傷ではすまない。ここで戦争を起こすことがどれだけ無謀なことか、わずかながら残る冷静な政治家はよくわかっていた。だがその意見は、皇帝をはじめとする強硬派に握りつぶされてしまった。

 双方にむなしい雰囲気が漂う中、交渉は決裂。事態は全面戦争へと動き出した。次第に緊張が高まり、両国軍は国境を挟んで部隊を展開。そしてヴォルガは進軍を開始するのと同時にランバルドに対し宣戦布告した。


 こうして第二次ランバルド侵攻──のちに『春戦争』と呼ばれる戦いが始まった。







「報告いたします。本日朝八時、ヴォルガ空軍によるソンドリオ市街地空爆と同時にダオスタ川にて陸軍が砲撃を開始。わがランバルド軍と交戦状態に入りました」

 執務室にて侍従長からの報告を受けたクリスは、重々しくうなずいた。

「それでソンドリオの被害状況は?」

「建物の被害は市街地の十パーセントほどですが、今のところ死者は報告されておりません。スティーアの空軍戦闘機部隊が出撃しただちにこれを撃破、制空権を確保したとのことです」


 彼だ。『悪魔』が戦場に帰ってきたのだ。

 クリスの胸がズキリと痛んだ。ついに彼を戦場に送り出してしまった──もう戻れない。行くところまで行くしかないのだ。

 だが今はそれだけに胸を痛めている場合ではない。すでに市街地に被害が出てしまっている。

 様々な理由があったにせよ、戦争のきっかけを作ったのは自分だ。ずっと張り詰めていた緊張の糸を、この手で切ってしまったのだ。

 彼だけを戦わせるわけにはいかない。国民と痛みを分かち合うためにも、自分も戦わなければ。


「……被災地への慰問の準備を。王室としてできる限りのことをして差し上げましょう」

「御意にございます」

「それと……陸軍情報部にいるラヴェンナ公爵を呼んでください」

「公爵……と言いますと、ゴドフレード王子をですか?」


 ゴドフレード王子は王室の中でも軍歴の長い人間だ。さすがに前線には出ていないが、今も情報部の将校として後方支援に当たっている。

「王室の一員としての彼に、頼みたいことがあるのです」

「わかりました」

 侍従長は恭しく頭を下げた。







 当初は攻勢をかけていたヴォルガ軍だったが、予想通り次第に疲弊した内情が露呈し、守勢に転じていった。何よりも前線で戦う兵の士気がなかなか上がらなかったことが、皇帝たち強硬派の強気な予想を覆していた。

 ランバルドが攻勢を強めることができた理由としては、五年前は口も手も出さなかった周辺国が今回はランバルドに同調し、多大な援助を送ってきたことが大きかっただろう。女王の密使として派遣されたラヴェンナ公爵が各国を回り、援助の確約を取り付けたのだ。

 だがもちろんそれだけではない。真の独立を勝ち取ろうと、軍をはじめとして国全体が一致団結し、大国ヴォルガを相手に一歩も引かない姿勢を見せたことが、その後の戦況をも決定づけたのではないだろうか。


 ランバルドはこれを機に、かつて奪われたヴァレーゼ地方の奪還に乗り出した。

 三軍の中でも、冬戦争において多大な戦果を挙げた空軍は、春戦争でもその持てる力を存分に発揮してきた。特に、女王の恋人と噂されたエヴァンジェリスティ大尉──かつて『不死身の悪魔』と呼ばれたその人の活躍には目覚ましいものがあった。

 戦闘機、戦車、装甲車、火砲、舟艇、果てには駆逐艦まで、ありとあらゆるものを撃破していった『悪魔』の恐るべき戦果は冬戦争以上だった。

 まさに鬼気迫る戦闘。『悪魔』が蘇った──ヴォルガ軍パイロットたちの間では恐怖を伴ってそうささやかれたという。

 エヴァンジェリスティ大尉をはじめとするランバルド軍の快進撃に、国民は心躍らせた。


 女王クリスティアーナはというと、自らが戦争の引き金を引いてしまったことへのけじめなのか、進んで戦場に赴き兵士たちを激励した。痛みを分かち合い、苦しみを共に背負い、国のために戦う彼らに感謝の意すら表したその姿に、兵士たちは感動し士気を上げたという。被災した国民に対しては一軒一軒家を訪問し、自らの手を差し伸べて慰めた。

 疎開を勧める周囲の声があった中でそれを頑なに拒み、精力的に慰問を続けるその姿に国民は勇気付けられ、王室に対する信頼を増大させた。


 女王と大尉──図らずも話題となったこの二人が、ともすれば傷ついてバラバラになりそうな国民感情を一つにまとめあげる柱となったことは間違いない。

 ランバルドがヴァレーゼを取り返し春戦争に勝利する瞬間を、誰もが今か今かと待ち望んでいた。







 それは、突然やってきた。

 ランバルディア中に鳴り響くサイレン。本能的に震えが走る。これは──空襲警報だ。まさか……前線から遠く離れたこの首都に爆撃機が?


 クリスは発作的に執務室を飛び出した。侍従が慌てて止めに入ったが、追いすがる手を振り切り、空がのぞめるバルコニーに向う。不測の事態に王宮中が騒然とし、廊下は逃げようとする侍従や女官たちであふれ返っていた。

 バルコニーの手すりにつかまって空を見上げると、雲の隙間に青空がのぞいていた。穏やかな風に乗って、早咲きのスミレの香りが漂ってくるようだ。

 そんな平穏な空の彼方に──小さく見えるいくつかの機影。不穏な気配をまき散らしながら、徐々にこちらに近づいてくる。防空網をかいくぐって来たのだろうか。ヴォルガは首都空爆で戦局の巻き返しを狙っているのかもしれない。


「陛下! 早く防空壕に!」

 すでに逃げ腰の侍従が泣きそうな声でクリスに呼びかけた。いざという時のために防空壕を備えてはあったが、まさか本当に必要になる日が来るとは夢にも思っていなかっただろう。

 だがクリスは侍従を振り返り、凛然と言い放った。


「この国を守るべき私が逃げ出してどうするというのですか。軍も国民も、傷つきながらも必死で戦っているのです。私は逃げません……私もここで戦います」


 次の瞬間──轟音が響き渡った。身体全体が震えるような重苦しい音。

 見れば、遠くで灰色の煙が立ち上っていた。あの方向は大聖堂かもしれない。ついに爆弾が落とされたのだ。

「ああっ……」

 空にはヴォルガ軍爆撃機の大きな機影。戦闘機とはまた違う、胴体の太い機体だ。その腹の部分が開き、黒い小さな物体がパラパラとばらまかれた。

 何発もの轟音が大気を震わせる。市街のあちこちから煙が上がり、道路は逃げ惑う人々で大混乱していた。

 目の前で繰り広げられる惨劇。ランバルディアの人々が傷つき、悲しむ姿を目の当たりにしてクリスは立ちすくんでいた。

 首都空爆の最たる狙いは女王であるこの自分であろう。勢いづくランバルド軍の士気を下げるには、もってこいの標的だ。自分だけを狙えばいいものを──なぜ罪もない市井の人々を巻き込むのか。

 バルコニーの手すりを掴むクリスの手が震えていた。

 爆撃機の音がこちらに近づいてくる。次の狙いは確実にここだ。空から降る悪意をひしひしと感じる。

 クリスはその目に光る涙も拭わず、厳しい目つきで爆撃機を睨み上げた。


 私はここにいる──逃げも隠れもしない。


 大きな影が一瞬のうちに空を覆った。身震いするクリスをあざ笑うかのように、爆弾庫の扉が開く。そして細長い物体が落ちてくるのが見えた。

 クリスは──死を覚悟した。


「きゃああああっ」

 しゃがみこんだ背後から、爆音と爆風が同時に襲ってきた。次いで粉塵と石つぶてが降ってくる。頭を抱えてそれをやり過ごした。

 痛みがあるということは、生きている。それを実感しながら立ち上がり振り返ると、立ち込める煙の中、王宮の一角が見るも無残な姿になっていた。庭の青々とした芝生は深く抉られて大きな穴が開き、堅牢な石の外壁は脆くも崩れ瓦礫と化している。

 あそこに倒れているのは……人影だろうか。クリスの顔から血の気が失せる。

 耳鳴りが収まらない。強がっては見たものの、本当は怖くて怖くて仕方がなかった。


「陛下! 急ぎ退避を!」

 衛兵が決死の覚悟で駆け寄ってきた。クリスを引きずってでも連れて行こうかという勢いだ。だがクリスはそれ以上の威勢で怒鳴り返した。


「それよりも市民の避難を最優先にして! 迎撃部隊は何をやっているのです!」

「ヴェネトの空軍基地も空襲を受けて、迎撃機が出撃できないそうです! 今、他の基地に応援を要請しているそうですが……」

「そんな……」


 応援部隊が到着するまで、ランバルディアはただ爆撃機に蹂躙されるしかないのか。

 一体どれだけの被害が出るのだろう。鳴り止むことのない爆音に耳を塞ぎたくなる。

 誰か……助けて……

 絶望に押しつぶされた胸から、声にならない言葉が湧き上がる。そして閉じたまぶたの裏に浮かび上がる、あの男の顔。

 彼が……いてくれたら……


「陛下! あれを!」


 急に衛兵が叫んだ。見れば南の空を眺め指差している。クリスもその方向を見やると……

 雲の彼方に見える機影。十数機が編隊を組んで、猛スピードでこちらに近づいてくる。あれは多分、戦闘機。ヴォルガのものだろうか。

 いや、違う。

 編隊は散開したかと思うと、速やかに爆撃機を攻撃し始めた。豆粒のような機関銃を大きな爆撃機に向かって連射している。爆撃機は爆弾の投下をやめ、ゆったりと旋回し逃げる態勢に入った。それでも戦闘機は執拗に追い回し、ランバルディアの上空から爆撃機を追いやろうとする。

 どこの部隊かはわからないが、ランバルド軍の応援部隊のようだ。その働きにクリスは安堵し、ホッと息をついた。空襲に恐れおののいていた民衆も、空の援軍に気づいたようで、皆空に向かって歓声を上げている。


 戦闘機のうちの一機が、高度を落とし、まっすぐこちらに向かってきた。そして王宮の上空で大きく旋回する。その動きは、王宮の様子を確かめているようでもあった。

 空を横切る機体を見て、クリスは息を呑んだ。

 ここからでもはっきりとわかるランバルド軍の国籍マーク。そして機体の鼻先に描かれたノーズアート。


 ユニコーンだ。

 美しい一角獣が、真っ赤なバラと、そして真っ白な花を咲かせたスノードロップの花を抱いている。見上げるクリスの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。


 彼だ──『悪魔』が、来てくれたのだ。


 クリスは大きく手を振って見せた。自分はここにいて、無事であると知らせるために。

 戦闘機は最後に一度旋回すると、また空高く上昇して編隊に戻っていった。ようやく他の応援部隊も追いついたようで、追い回された爆撃機は煙を吹きながら郊外へ不時着を余儀なくされている。

 彼は今再び、このランバルディアを救ってくれた。彼らの活躍が、一度は折れかけた皆の心を再び蘇らせてくれたのだ。

 彼がいればきっと大丈夫──私たちの願いはきっと叶う。


 私も戦っているから、あなたも必ず──帰ってきて。

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