4
冷え切ったその手に、ふと冷たいものを感じた。
手の甲に光る水滴。気づけば空中に白いものが舞っている。
雪だった。こまかに降る細雪──まるで天から降り注ぐ涙だ。
「……わかってるわよ、そんなこと」
ひどく子どもっぽい言い方だと自分でも思った。
ヴィートの言い分には何一つ反論できる隙はない。
彼の言っていることは何もかも正しいのだ。婚約を思いとどまらせようとやってきた人々と全く同じ主張だ。だから知っていた。
「ヴォルガの狙いも、周辺国が密かに臨戦態勢に入ってることも。クーデターの話だって知ってた……」
ヴィートは驚いたように目を見開いた。
「そこまで……ならばなぜ……!」
「私はわがままな女なのよ。一番大事なものを守りたいがために、わがままを通そうとしたの」
そう言ってヴィートに見せた顔は、泣き笑いに近かった。
「あなたを……戦地に送り込みたくなかったの。あなたを苦しめるような真似はしたくなかった……私が国よりも国民よりも大事にしたかったもの、それはあなたなのよ」
彼が息を呑むのがわかった。
「哀れで愚かな女だと哂ってくれていいわ。あなたの迷惑になることもわかってる……それでも私はこのわがままを通したかったの。あなたをこれ以上『人殺し』にしたくないから。絶対に……あなたを死なせたくないから!」
何を犠牲にしようとも、ヴィートだけは守りたかった。
女の愚かさを丸出しにしてまで、この想いを貫きたかった。
一度堰を切った想いは止まることを知らず、胸を、喉を突き上げてあふれ出す。今は恐れも恥ずかしさもなく、素直な想いだけが言葉となって出た。
「私……私、あなたのことが」
「──陛下」
穏やかな、それでいて強い拒否を含む声。クリスは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「その先を口に出してはいけませんよ。自分のお立場をよくお考え下さい」
微笑みながら、首を横に振るヴィート。その無情な答えに、こみ上げる悲しさでクリスの瞳から涙がとめどなくあふれた。
何を期待してたんだろう──受け止めてもらえないことくらい、わかっていたはずなのに。
顔を背け、涙を隠す。自らの浅はかさを噛み締めて歯を食いしばった。
「陛下、顔をお上げください」
ヴィートの優しい声が降ってきても、クリスは顔を上げられなかった。こんなみっともない顔は見られたくない。
涙に濡れる頬は冷気に晒されて冷たく、惨めさで熱くなった頬を冷やしてくれるかのようだ。それなのに、ヴィートへの想いで満たされる胸の内はいまだ熱を帯びて、苦しさに喘いで白い息となって漏れ出る。
不意に──頬に温かいものが触れた。
それが彼の手のひらだと気づいて、クリスは驚いて顔を上げてしまった。
自分を見つめるヴィートの瞳は、凪いだ海のような色をして、波に煌く光を放っていた。
「私は死にませんよ。私を誰だとお思いです? 『不死身の悪魔』ですよ。何度撃墜されようが帰ってきた男です。そう簡単に死ねるわけがないのです」
彼の笑顔が、これ以上ないほどに力強く感じる。
「それにね、今は戦うことが怖くないのです。私は戦う理由を手に入れた。陛下が美しいと仰ったこの国を守るために──私は今再び『悪魔』となる覚悟を決めたのですよ」
かつて彼は、「悪魔」として重ねた罪を一生背負って生きていくと語った。
その罪を、重荷を増やすような真似は絶対にしたくなかった。これ以上、彼を苦しめたくはなかったのに──
なぜ、この人はそこまでして自分を苦しめようとするのだろう。
「陛下。この機を逃せば、ランバルドが真の自由を勝ち取る日は永遠に来ないかもしれない。ヴォルガが自滅するのをただ待つのではなく、ランバルドがランバルドであるために、我々自身が自らの足で立ち上がり、真の独立を掲げるべき時なのです」
そんな正論は聞き飽きた。
わかっている──そうしなければ、いずれランバルドという国が滅びてしまうであろうことも。
わかっている──自分に残された選択肢は一つしかない。ヴィートがここに来た時点で、それは決まっていたのかもしれない。
「陛下──どうかご決断を」
誰よりも優しく、誰よりも厳しく。
ヴィートはこちらをまっすぐに見つめて、最後の決断を迫った。
もう抗えない。抗う術を知らない。けれど……ただ一つだけ確かめたい。
クリスは彼の視線に真っ向から立ち向かい、そして訊いた。
「絶対に……生きて帰ってきてくれると、約束してくれますか?」
ヴィートは一旦目を伏せ──それからその顔を微笑みで満たして、力強くうなずいた。
「ええ……もちろん」
覚悟せよ──これからこの国を襲うであろう激動の波を。様々なものを失い、傷つくその痛みを。
その先にあるのはきっと、輝かしいランバルドの未来。
何も恐れず、何にも屈しない。
自分たちだけのランバルドを勝ち取るのだ。
「──わかりました」
ヴィートだけを映すその瞳に、曇りはなかった。
「婚約は破棄します。ヴォルガとの間に結ばれた不平等な協定・条約も破棄することにします。ランバルドがランバルドであるために……戦争も辞さない覚悟をヴォルガに見せてやりましょう」
そう言い放った声は冷静ながらも勇猛さにあふれ、まるで何万人もの聴衆へ向けて宣言するかのような迫力を持っていた。
「陛下……ありがとうございます」
感極まったのか、ヴィートは打ち震える声で言い、深々と頭を下げた。
もう後戻りはできない。
これからたくさんの血が流れるだろう。もしかしたら後世、自分は「悪女」として名を残してしまうかもしれない。それでも、今のこの決断が間違っていたとは絶対に言いたくなかった。
強く信じられる何かが欲しい……
頭を上げたヴィートを、クリスは笑みもせず、真正面からきつく睨みつけていた。
「誓いを……立ててください」
「誓い、ですか」
「ここへ……口付けを。絶対に生きて帰ってくるという、誓いのキスを」
クリスは右手の甲を差し出した。
それは最後の、本当に最後のわがままのつもりだった。
想いが叶わぬのなら、せめて最後に思い出を──思い出さえあれば、きっと生きていける。思い出はどんな痛みにも、どんな辛苦にも耐えることのできる強さに変えられると、そう考えていた。
ヴィートは立ったまま、その手を取った。彼の大きな手はとても暖かく、自分の手が冷え切っているせいかひどく熱く感じる。
だが彼はひざまずこうともせず、握ったクリスの手をただじっと見つめていた。迷っているのか、困ったように苦笑いを浮かべている。
誓えないとでも言うの? それとも……?
随分と長い時間、手を取り合っていたように思う。無理強いしているみたいで段々と惨めになってきた。情けなくなって、手を引っ込めようとしたその時──
手を強く握られ、逆にぐいと引っ張られた。
思いがけない強さで、身体ごと持っていかれる。
「きゃ」
目の前に迫る彼の胸板。勢いよくぶつかるのと同時に背中に腕が回され──
気がつけば、クリスはきつく抱きしめられていた。
息が止まりそうなほどの驚き。早鐘を打つような心臓の音が聞かれてしまいそうだ。もがこうとするが、逆に抱きしめる腕に力が込められ背骨が軋んだ。
こんなにも荒々しいヴィートは見たことがない。いつも温厚で飄々として、紳士的な人間だと思っていた彼が、今は内に秘めた野性をむき出しにして身体全体で荒い息をついている。
恐る恐る顔を上げると、彼は眉根を寄せ、今にも泣き出しそうな表情をしていた。こちらを見下ろす瞳の光が微かに揺れる様は、言葉に出せない彼の苦しい心情を映し出すかのようだ。
だからクリスは──目を閉じた。
一筋の光さえない世界で、全身でヴィートの存在を感じる。
しがみつくように掴んだウールのコート。広い胸板に身を預け、胸いっぱいに吸い込んだ彼の匂い。
そして重ねた唇──胸の奥から突き上げ出る想いを、ヴィートの熱情に震える唇が受け止めてくれる。
ずっとこうしたかった。ずっとこうしていたかった。
何もかも忘れて、このまま時が止まればいいのに……
名残を惜しむかのようにゆっくりと唇が離れると、白く熱いため息が漏れ出た。互いの吐息が混じりあって、降りしきる細雪を溶かす。
ヴィートは少し寂しげに笑っていた。
「あなたが悪いんですよ……そんな瞳で見つめるから」
かすれた声が耳朶を打つ。
それが彼一流の照れ隠しであることに、クリスは気づいていた。
「冬戦争で傷ついた私を、あなたは命を懸けて守ると言ってくれた。そんなことを言ってくれた女性はあなたが初めてでした。だから私はあなたを守りたい」
ヴィートは肩をすくめて、自嘲気味に笑った。
「国を守るという大義名分よりも、ただ一人の愛する女性のために命を懸けて戦う方が、ずっと私らしいと思うのですよ。これもわがままですかね」
身体が熱く火照り、雪の冷たささえ感じない。熱に浮かされ、めまいを起こして倒れそうになる身体を、彼の背に回した腕でしっかりと支える。
「生きているうちにそういう女性に出会えたことを、神に感謝しますよ」
その台詞で、クリスは気づいてしまった。
「あなた……まさか……」
約束とは裏腹に、玉砕するつもりでは──
だがヴィートは微笑むだけで、何も答えなかった。
彼は腕を解き、クリスの身体を軽く押しやるようにして離す。どうしようもない不安に駆られて、クリスは彼にすがった。
「だめ……だめよ……待って……行かないで」
怖い──彼を失うのが、こんなにも恐ろしいなんて。
ヴィートはクリスの右手を取り、素早く甲にキスした。だがその誓いですら今は気休めに思えてしまう。
「陛下──私は何があっても、どんな姿になっても、必ずあなたのもとへ戻ってきますよ。だから信じて待っていてください。必ずやあなたにランバルドの輝かしい未来を届けますから。その時は……その時こそはあなたの……」
つないだ手。手のひらを合わせ、冷たい指先を絡ませて、互いの体温を分け合うように強く固く握り締める。
見つめあう瞳、交わす吐息。
心が、想いが、つながる。
あなたが戦う理由を見つけたように──私も強く信じられるものを見つけられたから。
クリスは穏やかに微笑んだ。揺るぎない信念をその目に宿して。
「……待ってるから。ずっと、待ってるから」
ヴィートは満足そうにうなずいていた。
手を離すと、彼は敬礼を捧げた。
「では、これにて失礼いたします……陛下もどうかお元気で」
「ご武運をお祈りしています」
ヴィートは最後にもう一度礼をして、背を向けた。地面の雪を踏み鳴らして、彼は出口へと向かっていく。追ってはいけない──なぜかそんな気がして、この足が動かない。
いつの間にか、細雪は大粒の綿雪にその姿を変えていた。ふわりふわりと音もなく降り注ぐ雪は、遠ざかる彼の背中をも包んで霞ませる。
突き上げる想いに任せて、クリスは叫んでいた。
「いつか! 私もあの空を飛ぶから……またあなたと一緒に、ランバルドの青い空を飛びたいから……必ず、必ず帰ってきて!」
ヴィートは足を止め、こちらを振り返った。いつかとは逆の立場。だが彼がこちらに歩み寄ることはなかった。
笑顔で一礼し、また背を向けて歩き出す。その背中が闇夜に溶け、雪の向こうに消えてなくなった。
立ち尽くし、見送っていたクリス──その身体が突如崩れ落ちた。
深閑とした裏庭に、くぐもった嗚咽が響く。雪の上に座り込み、身体全体を震わせてクリスは泣いていた。ずっとこらえていた涙があとからあとから溢れ出て、零れ落ちては綿雪を溶かす。
姿が見えなくなった途端に襲い来る孤独、絶望。辛くて悲しくて、固めたはずの決意が揺れに揺れて、この綿雪のように溶けてしまいそうになる。
やっぱりだめ。あなたがいなかったら、私は……
ふと、視線を上げたその先に、雪とは違う何かを見つけた。
雪が割れ、その下の茶色い地面がわずかに見えている。そこから突き出る緑色の茎、葉。そして滴り落ちる雫のような白い花びら。
それはあのスノードロップの花だった。
『かつてアダムとイヴがエデンの園を追われた際、雪が降りしきっていたそうです。永遠に続くような冬に、イヴは絶望し涙をこぼした……そんな彼女を慰めるために、天使が一片の雪に息を吹きかけ、この花を作り出したのだと言われています』
ヴィートの言葉が蘇る。
降りしきる雪の中、絶望し泣き崩れるイヴ──まるで今の自分そっくりではないか。ならば、目の前で咲くこの花は……
それはきっと天使ではなく、紳士的で魅惑的な「悪魔」の贈り物。彼が残していってくれたスノードロップは、今まさに希望の花を咲かせていた。
もう泣かない。泣いてなどいられない。彼はいつだって、この胸の中にいる。
この希望を信じて、私は強く生きていく──
クリスは立ち上がった。コートの袖で涙の跡を消し、裾についた雪を払う。
漆黒の瞳が、見上げた夜空の月を映し出す。
鋭く、鮮烈に──光を放つ瞳に、もう涙はなかった。
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