3
昨日から降り続いた雨はひとまず止んだようだ。
雨露に濡れた闇夜を窓越しに見上げて、クリスは嘆息した。中庭の雪はかなり融けて、今日一日でかさが大分減ったように見える。これからは一雨降るごとに徐々に暖かくなっていくのだろう。
窓辺に置かれた鉢植えのプリムローズが、黄色い花をいくつも咲かせていた。執務机を照らすライトだけが灯るこの部屋で、黄色の花は淡く光るようでもある。
婚約発表から二日経ち、周囲は落ち着きを取り戻しつつある。それでも、様々な対応に追われたおかげでデスクワークがこの二日滞ってしまった。不可抗力とはいえ、自分の仕事が遅れてしまうことで、大勢の人々が迷惑を被ってしまうのは忍びない。そう思って、こんな深夜までこの執務室にこもっていたのだ。
もう一頑張りして、残っている仕事を片付けてしまおう。
クリスはもう一度夜空を見上げたが、厚い雲に覆われた夜空は星一つ見えなかった。
椅子に腰掛け、机に向かい紙にペンを走らせる。
昼間の喧騒が嘘のような、深夜の静けさ。この時間が一番仕事がはかどるので、どうしても睡眠時間を削ってしまう。特に昨日一昨日のような慌しさがあると、静寂に包まれるこの時間帯に安らぎを求めがちだ。
夜も更け、もうすぐ日が変わろうとしている。懐中時計を見て、ため息を一つ。
気を取り直そうとしたその時──ドアのノック音で静寂が破られた。返事をすると、曇り顔の侍女が入ってきた。
「どうかした?」
「あの……実は至急陛下に謁見したいという方が……」
「えっ、こんな時間に?」
侍女はうなずいた。
「夜遅くですし、お引取りをと願ったのですが……」
「帰らないの?」
「ええ。陛下にお会いできるまでここでずっと待ち続けると言って聞かないんですよ」
結婚に反対する市民団体の人間だろうか。そういう人物なら昼間も大挙してやってきたし、外でもデモ行進していたようだ。
苦笑いを浮かべると、侍女もつられて口元を歪めた。
「……やはりお帰りになってもらいますね。時間が時間ですから」
「悪いけど、そうしていただいて」
昼間ならまだしも、人の少ない深夜では警備上の問題も色々と出てくるだろう。自分が直接出て行くよりは衛兵に任せた方がよい。
侍女は意味ありげにクスリと笑った。
「そんな頑固そうな人には見えないんですけどね……若いし、言うこと以外は礼儀正しいし……あまり軍人さんらしくない感じで」
突然──椅子を倒しそうな勢いでクリスが立ち上がった。
驚いて目を見張る侍女を鋭く射る視線。
「……その方の名前、聞いた?」
何か無礼を働いたかと思って恐れおののいた侍女は、震える声で答えた。
「えっ、あ、はい……空軍のエヴァンジェリスティ大尉とおっしゃってました」
次の瞬間、クリスはペンを投げ出し、部屋を飛び出していた。静まり返る王宮の薄暗い廊下を、黒髪とスカートの裾を翻して風のように駆け抜けた。
今はただ、彼の顔が見たかった。
わだかまりも後ろめたさも恐れも、全部置き去りにして走る──何がしたいのが、何を言いたいのかもわからないのに、会いたい気持ちばかりが急いて足を運ばせる。
長い廊下を突き抜け、角を曲がって王宮のエントランスが見えてきた。
かの人物は、立ち塞がる屈強な衛兵たちを前にして一歩も怯むことなく、いつものように飄々として微笑んでさえいる。駆け寄ってくるクリスに気づいたのか、常装姿の彼はまっすぐこちらを向くと、柔らかな笑顔を見せてくれた。
「へ、陛下!」
衛兵たちが慌ててクリスを止めようとしたが、自ら足を止めたクリスは息を切らしながら彼らに下がるよう伝えた。
「この方は……私の大事な友人よ」
衛兵たちは互いに顔を見合わせながら、怪訝な表情で下がっていった。
天井の高いエントランスホールに一歩一歩靴音を響かせて、確かめるように彼に近づく。そして目の前に立つと、ヴィートはゆっくりと敬礼を捧げた。
あれほど恋焦がれた彼が、目の前にいる──
「夜分遅くに申し訳ありません、陛下」
最後に別れてから一月半しか経っていないのに、なぜこんなにも懐かしい気分になるのだろう。
彼は藍色の瞳を瞬かせた。
「やはりこちらは寒いですね。スティーアはこのところの雨ですっかり雪が融けてしまいましたよ」
触れたい──その大きな胸に飛び込みたい。
だがクリスはその衝動を隠すようにヴィートから目をそらした。
「……遠路はるばるご苦労様。ここは内陸だから寒さがきついのよ」
笑顔で誤魔化し、平静を装う。
こんな深夜に自分を訪ねてきたその理由を、今ここで訊くのは愚問であろうか。
あなたはなぜここに──口に出して聞かずとも、その答えはわかっている。
王宮からの退出を頑強に拒んだというわりに、クリスが現れてもすぐには本題に入らず、何事もなかったかのような笑顔を振りまいているあたりが彼の気遣いなのだろう。
「こんなところでは何ですから、お庭へ行きましょう」
部屋ではなく、あえて外を選んだ。彼にとってもその方が好都合だと思ったからだ。
ヴィートも意を得たりとうなずいていた。
ヴィートを案内した場所、それはかつて舞踏会を抜け出して二人で逃げ込んだあの裏庭だった。
コスモスが咲いていた花壇も足音を消してくれた芝生も、いまだ薄く雪に覆われて白一色だ。ひっそりとして寂寥感さえ漂う中、地面を踏みしめると晩冬特有の氷のような荒い雪がザクザクと音を立てた。
「ここね、私のプライベートガーデンにしてもらったの」
あまり立ち入る者のいないこの裏庭だが、クリスにとっては幼い頃からの思い出深い場所だ。自由にできる庭が欲しかったクリスにはこれ以上の場所はないだろう。
「前ほどはいじれないと思うけど、春になったら少しずつ手を加えていくつもり。ガーデニングは私の唯一の趣味らしい趣味ですもの。このくらいのわがままはいいわよね」
「そういうのはわがままではなく、『ささやかな願い』と言うんですよ、陛下」
ヴィートはそう言って笑った。
夜空を覆っていた雲の隙間から、月がわずかに顔をのぞかせている。深夜にかけて気温がどんどん下がって、冷え込みがきつくなっているのが肌で感じ取れた。コートを着こんではいるが、足元から寒さが忍び寄ってくる。
「少し痩せましたか」
「あなたは顔の色艶が良くなったようね。向こうでも相変わらず女性を口説いているのかしら?」
「新米中隊長として上司と部下の両ばさみの毎日でしてね。残念ながらそんなヒマもありませんよ」
「あら、現場に戻さない方が良かった?」
「いえいえ。美しい女性を口説くのと同じくらい、空はエキサイティングで楽しいですよ」
「……でしょうね。今のあなたはとても生き生きして見えるわ」
ほのかな月明かりに浮かぶヴィートの端正な顔。
流れる雲が月を隠した。薄暗くなりその表情が見えなくなった間隙を突いて、彼は口を開いた。
「……婚約なさったのですね」
穏やかな中に、微かな非難が滲む口調。
婚約を発表したあの時から、いつかこの瞬間が来ると覚悟はしていた。もしかしたら彼が飛んでくるかもと、期待すらしていたかもしれない。
「そうよ。これが私の出した結論、一番大事なものを守るためにはこれが最善だと思ったの」
クリスは微笑さえ浮かべてきっぱりと言った。
たとえヴィートとの約束を破ることになっても、これだけは譲れなかった。
「今日は私に思い直すよう忠告しに来たんでしょ? でも……悪いけど、もう決めたの」
「陛下は本当にそれでよろしいのですか?」
覚悟していたはずなのに──彼のまっすぐな視線を受けると、気持ちが揺らいでしまう。
目をそらして、吐き捨てるように言った。
「いいに決まってるでしょ。私が決めたんだから……私が……我慢すれば……」
思わず本音が口から零れる。胸の奥に硬く押し込めたはずの本音が、彼を前にするといとも簡単に漏れ出てしまったことに、クリスは焦りながらも重苦しかった胸の内が少し軽くなった気がしていた。
「──自惚れめさるな」
突然響いた低く唸るような声。聞いたことのないヴィートの厳しい声に、身体が反射的に震える。
恐る恐る顔を上げると、薄闇の中で彼の藍色の瞳が鋭い光を放っていた。
「もはや陛下お一人の我慢だけですむような事態ではないのですよ」
眼光に射すくめられて、身動きが取れない。
ヴィートの顔は、軍人のそれに完全に戻っていた。
「陛下もご存知の通り、ヴォルガはカレリア、トゥーロフの両国と目下戦争中にあります。いかに強大なヴォルガとはいえ、二ヵ国と同時に戦争などという事態になれば必要なエネルギー資源は常に不足している状態です。ヴォルガがこの結婚を強引に推し進めてくる真の目的は、ランバルドの資源にあるのですよ」
肥沃な大地に石油や石炭などのエネルギー資源を豊富に有するランバルド。
ヴォルガはその資源を常に狙っていた。だからこそこの土地を手に入れようと侵略を行い、冬戦争が起こったのだ。
確かに即位してからのこの一ヶ月、ヴォルガの動きには焦りみたいなものが感じられた。婚約の準備を口実に本国から派遣されてきたヴォルガの高官たちは、王宮内を我が物顔で闊歩し役人たちを捕まえては何やら難しい話をふっかけていた。
「ベルンハルト皇子が王配となるのを機に、王宮や議会にヴォルガの人間を多数送り込むつもりなのでしょう。そしてまだお若い陛下を傀儡として、彼らがランバルドの実権を握ろうとしているのは明白です」
武力で無理矢理資源を奪い取るより、懐にもぐりこんで国ごと意のままに操った方が遥かに手間も金もかからない。
もちろん、クリス自身も自分が傀儡──文字通りの「人形」にされてしまう危険性は感じている。だが自分さえしっかりしていれば、そんなことにはならないだろうとも思っていた。全ては自分の双肩にかかっているのだと。
戦争のリスクと傀儡にされてしまうリスク。あえて後者を取ったのに……
「でも……でも、もしまた戦争になったら……冬戦争みたいな泥沼の状態になって国民に大きな犠牲が」
「五年前とは状況が違うのです」
クリスの言葉を遮って、ヴィートは言った。
「冬戦争ではランバルドの周辺国は巻き込まれるのを恐れて手を出さなかった。けれど今は違います。この国同様にヴォルガの圧力を受け続けている周辺国は今ではランバルドに同情的です。ランバルドが蜂起すれば、周りもそれに同調する公算の方が大きいでしょう。それに──これは軍の内部情報ですがね」
ヴィートは少しだけ声を潜めた。
「ヴォルガ内部でクーデターの動きがあるそうですよ。そもそも、戦争中の両国だって元々はヴォルガ帝国を形成する一地方、それがヴォルガからの分離独立を謳って武装蜂起したんです。外交で強気に出ているのは、中の屋台骨がぐらついていることの裏返し。今がチャンスなんです」
爪が食い込むほどに強く握り締めた拳。うつむいたクリスは細かく震える拳をただじっと見つめていた。
ずっと彼に会いたかったはずなのに、今はその顔を見るのが辛い。彼の唱える正論が耳に痛いが、塞ぐこともできなかった。
「いくら王室が政治介入をしない主義だからと言って、ヴォルガに与する政府が国民をないがしろにしている現状を放置しておいて良いのですか? 自らの保身しか考えてない政治家たちに、国民はとっくに愛想を尽かしていますよ。陛下の婚約のニュースに、あちこちで反対のデモ行動が起きていることはご存知でしょう? 国民だって反対しているのです。今の状態が続けば、遅からずランバルドでも武装蜂起が起きますよ。そうなれば軍の中からも同調する者が出てくるでしょう。そんな混乱状態に陥ることが、陛下の望んだランバルドの未来なのですか?」
二人の間を、緩やかな風が通り抜けた。
しばしの沈黙──冷気を白く染める吐息の音、踏みしめる雪の音だけがこの暗い裏庭に漂う。目を伏せるクリスは薔薇色に染めた唇を微かにわななかせていた。
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