取り巻く世界は一変し、日々流されるままに過ぎていく。


 新米の国家元首として、目が回るような量の公務に押しつぶされそうになりながら、それでもクリスは弱音を吐くことはなく、ただ黙々と自分の責務を果たしていた。

 次々とやってくる国賓との会見。食事を取る間も入れ替わり立ち替わり侍従が仕事の話を持ってくる。毎日手渡される分厚い閣議決定書類へ目を通し署名。夜ともなれば宮中晩餐会や、外国大使や政府関係者との食事会だ。それが終わっても、覚えなければならない国事行為を寝る間も惜しんで勉強する。


 冬宮殿に私物の整理に戻ることすらままならなかった。王宮でも引き続きエレナが身の回りのことをしてくれているが、彼女も生活環境が一変したことに少なからず疲れを感じているようだ。

「私のことよりご自分のことを心配してくださいな。なんだかお顔の色が優れませんよ」

 エレナはそう言ってくれるが、まだ若い自分よりそれなりに年を取ったエレナの方が心配になるのは当然のことだろう。

 書類にサインする手を止めて、クリスはエレナの入れてくれた紅茶に口をつけた。


 即位から一ヶ月。少しずつではあるが女王としての仕事にも慣れてきた。即位してすぐの頃はあまりの忙しさに余計なことを考える暇などなかったが、それが一段落してやっと余裕ができてきたように思う。

 王宮の一角にあるこの執務室は代々の王が使ってきた部屋で、クリスが座る執務机も重厚な造りの王専用机だ。王宮の中庭をのぞむ大きな窓からは暖かな日差しが差し込み、敷き詰められた赤い絨毯に陽を落としている。

 冬も寒さの厳しい時期は終わり、日一日と春に近づいているのがよくわかる。中庭はいまだ雪に覆われているが、軒下からしたたる雪解け水が陽光に煌いて、近づく春を予感させる。

 紅茶を飲み終わって、大きく背伸びをして席を立った。長い黒髪と萌黄色のワンピースの裾を翻して、窓辺に向かう。

 冬晴れの今日は空も青く、ツグミがどこかで朗々とさえずる声が聞こえてくる。


 ふと、青空を横切る飛行機の姿が目に入った。一瞬ドキリとした胸に、思わず自嘲を浮かべてしまう。

 彼は今、遠く離れたスティーアの空を飛んでいるはずだ。あれは違う。

 ことあるごとにヴィートのことを思い出してしまう自分が少し情けない。未練がましくいつまでも彼のことを想っている自分に嫌気さえ感じてしまう。

 彼は空を取り戻したのだ。

 きっと今頃、水を得た魚のように大空を自由に飛びまわり、その喜びを噛み締めていることだろう。向こうの基地でも、あの華やかな笑顔で女性たちを魅了しているに違いない。

 ヴィートは前に進んでいる。冬戦争をようやく過去のものにして、未来へ向けて彼は歩みだしているのだ。

 それなのに──自分は。

 踏み止まったまま動けない。忙しさの間にやってくる心の隙間を埋めるように、彼のことを思い出している。このままじゃいけないとわかっているのに、忘れたくても忘れられない。

 右手の甲が熱く疼く。

 気づけば、唇を寄せていた。冷たい手に、触れる自分の唇の温かさ。

 恋を教えてくれたヴィートが、今は恋しくてたまらない。

 だが彼とは決別したのだ。あの忠誠の誓いのキスで、お互いにそれぞれの人生を歩むことを決めたのだ。


「クリス様」

 呼ばれて振り返ると、エレナが心配そうな顔でこちらを見つめていた。

「……本当に少しお休みになられたらいかがですか? お身体も心配ですけど、それ以上にご心労がおたまりでしょう」


 窓の外を物憂げに眺める自分の姿に、気がかりなものを感じたようだ。

 クリスは笑顔を作って答えた。


「ありがとう……でももう少ししたら首相との会談があるし、その後はおじ様……スフォルツァ公もいらっしゃるでしょ。どちらも大事なお話があってのことだし、すっぽかすわけにはいかないわ」

「どちらもご結婚についてのお話じゃありませんか。首相は断固推進、スフォルツァ公は断固反対……両極端なお話を立て続けにされてはそれこそ参ってしまいますよ」


 政治家たちは段取りを全て整えた状態で、あとは胸一つというクリスに決断を迫る。それに対し王室の重鎮たちは結婚を阻止しようと、毎日のようにクリスを説得しにやってくる。身を二つに引き裂かれるような思いで彼らの話を聞くのは相当に耐え難い苦痛であった。

 しかもクリスが女王に即位したことで、これらのスケジュールが前倒しになってきている。若き女王を支える王配を早くに迎えるべきだと、政治家たち──要はヴォルガ側がゴリ押ししているのだ。その考えは確かに間違っていないとも思う。小娘のような自分だけでこの国を支えられるのかと不安に思う国民もいるだろう。


 何より、一番迷っているのはクリス自身なのだ。

 もう少し時間と余裕があれば、皆が納得のいく答えが出せたかもしれない。

 しかし、現状では結論を引き伸ばすのもそろそろ限界である。これ以上曖昧な態度を取り続けることは、議会と王室の間の溝をただ広げるだけだ。

 愛のない結婚に覚悟は決めていたはずだった。国を守ろうと決意したその覚悟を揺るがし、迷わせているのはヴィートという大きな存在。


 何が一番大事なのか。

 何を一番守りたいのか。

 見極め、決断しなければならない。

 最後に見た、ヴィートの顔を思い出す──厳しくも端麗な、微笑めば眩しく、時に鋭い眼光で相手を射抜く、彼の顔。

『強く正しく、心の赴くままに生きよ』

 父の最期の言葉を思い出す。

 今こそ──わが心の赴くままに、決断をするべき時ではないだろうか。

「……大丈夫よ、エレナ」

 その胸にゆるぎない決意を秘めて、クリスは微笑んだ。





   ◇ ◇ ◇ ◇





 どこかで鳥が鳴いたように聴こえた。

 あれはヒバリだろうか。春を告げる鳥だというが、鉛色の空から落ちてくる淡雪が滑走路を濡らす様を見つめていると、いまだ春は遠いように思える。


 滑走路の向こう側に広がる海も空と同じ鉛色をして、荒波が岸壁に叩きつけられて激しい水しぶきを上げる。

 ここは海沿いだからか、内陸のランバルディアほど雪深くはない。

 彼の地はいまだ雪に覆われて、美しい冬の姿を留めているのだろうか。日一日と近づく春の足音に、あの庭園を愛した彼女はどんな想いを抱いているのだろう──


 ヴィートは滑走路の中央に立って、南の空を見上げていた。

 中隊長として新設された隊を率いるようになって一ヶ月。ようやく隊もまとまるようになり、戦闘機部隊として最低限の仕事はこなせるところまでこれたと思う。まだまだ課題は多いが、訓練でできることは全てやった。後のことは実戦で身につけるしかない。


「おい、ヴィート! ここにいたのか」

 呼ばれて振り返ると、それは大隊長のデムーロ大佐だった。かつての上司フェラーリン准将の兵学校時代の後輩だそうで、准将に言いつけられてかヴィートのお目付け役をやっているフシがある。


「なんですか」

「准将から電話があってな……」

「あの件のことなら、お断りしたはずですよ」

 デムーロの言葉を遮るようにヴィートは答えた。

「ってお前なぁ……いい話じゃないか」

 どうやら図星だったらしい。

「准将が懇意にしている侯爵家のご令嬢だぞ。向こうもお前を気に入ってるらしいし、悪い話じゃないと思うけどな」


 転属する前に一度ハッキリと断ったはずなのだが、准将はまだ諦めてなかったらしい。

「お前みたいなヤツは結婚でもしないと落ち着かないだろう? ここいらが人生の墓場ってやつじゃないか?」

 墓場とは身も蓋もない言い方だが、恐妻に尻にしかれていると評判のデムーロが言うと妙に説得力がある。ヴィートは苦笑を浮かべたが、静かに首を横に振った。

「……今はそんな気分になれないんですよ」

 結婚したいとかしたくないとかではなく、それが率直な気持ちだった。

 そう言ってうつむいたヴィートに、デムーロは何か別の理由を考えたようだ。 

「なんだ、新しい女でもできたのか?」

 デムーロは呆れ顔をしたが、ヴィートは悪びれもせずに笑った。


「女性のことを考えない日はないですけどね」

「特定の恋人はいないんだろ? それともまだ遊び足りないって言うのか? まさかお前が女に片思いしてるわけないだろうし……」


 だがヴィートは答えなかった。厚い雲が覆う空を見上げて、意味深に口元を歪めるのみだ。

 デムーロは驚いたように顔を引きつらせた。

「え……本当に? お前が? 口説いてないのか? どんな女だ?」

 デムーロが浴びせかける矢継ぎ早の質問に、思い出さざるを得なくなる。

 目を閉じれば、彼女の凛とした立ち姿がはっきりと浮かんでくるようだ。すぐそこに、手を伸ばせば届きそうな──


「……見つめるには眩しすぎて、抱きしめるには遠すぎて、想いを伝えるには美しすぎる人ですよ」


 届きそうで届かない。

 彼女はこの空よりも高い、遥かなる高みへ上ってしまったのだ。

 デムーロはポカンとして、ヴィートの顔を食い入るように見つめていた。

「……お前ほどの色男をそこまで詩人にするとは……よっぽどいい女なんだな。で、どこの誰なんだ?」


 まったく、詮索好きな上司だ。しつこく喰らいつくデムーロを何とかあしらって、ヴィートは格納庫の中に逃げ込んだ。

 誰もいない格納庫は静まり返って、波の音が遠くに聞こえるのみだ。

 鈍い軍靴の音を響かせて、鎮座する愛機に近づく。その機首にはかつて『白い悪魔』と異名を取ったユニコーンの絵が再び描かれていた。

 労わるように、機体を撫でる。


 彼女に嘘をついてしまった。

 本当は断っていた縁談を、口実のように持ち出してしまった──自分と彼女の間に生まれつつあった何かを断ち切るために。

 彼女に結婚するなと言っておきながら、自分の力では彼女を幸せにはできない。その資格はないのだ。

 あれでよかったのだと思いたい。心を残せば後が辛くなる。彼女を想えば想うほど、自分も、そして彼女をも苦しめてしまうだろう。

 今の自分にできることは、彼女のために戦うこと、ただそれだけだ。


 彼女は決断してくれるだろうか……

 何が一番大事なのか、何がこの国の一番の幸せなのか。

 今は彼女を信じて、待つしかない。覚悟はとうにできている。

 自分は戦う理由を見つけたのだ。もう何も恐れない。この手が再び血で汚れようとも、この大地を守り通してみせる。


 ランバルドを守るためなら、今再び「悪魔」として目覚めよう。





   ◇ ◇ ◇ ◇





 その日、ランバルディアには寒雨が降り注いだ。

 いつ雪に変わるとも知れない冷たい雨だが、それでも積もる雪を溶かして、季節をまた一歩進める。長い冬の終わりが確実に近づいている──


 だが、ランバルドの人々の心は晴れなかった。灰色一色の空は、人々の心に立ち込めた暗雲を表すかのようだ。

 その日の新聞各紙の一面に大きく取りざたされた記事が、国全体に暗い影を落としている。




【クリスティアーナ女王、ヴォルガのベルンハルト皇子との婚約を発表】

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