雨月
1
国王パオロ二世崩御を受けて、国王の長女クリスティアーナは王宮においてただちに女王に即位した。国王の突然の崩御のニュースは国中を震撼させたが、美しく聡明な若き女王の即位は国民の動揺を最小限に抑えただけでなく、長く暗いトンネルの中にいまだあるこのランバルドに新たな光を与える存在としてセンセーショナルに捉えられたようだ。
国王の葬儀を経て、二週間後には大聖堂にて戴冠式が執り行われ、金の王冠を戴いてクリスは公式にランバルドの女王として国内外に認められることとなった。
戴冠式に諸外国の王族や要人たちが多数列席する中に、ヴォルガ皇帝の代理としてベルンハルト皇子が参列していたことを新聞は大々的に報じている。前々からクリスティアーナの配偶者候補として名前の挙がっていたベルンハルトが、ヴォルガ皇太子を差し置いての代理として来訪したとあって、結婚に向けての準備が着々と進んでいることをうかがわせる、と新聞各紙──政府機関紙は好意的に、対して大衆紙は批判的に、それぞれ対照的な報道を行っていた。
大衆紙の売り上げが機関紙を大きく上回ったことから見ても、国民がこの政略結婚を快く思っていないことは明らかである。
そんな国民の声が届いているのかいないのか、王室はいまだクリスの結婚に関しての公式なコメントを出していない。
初めてベルンハルト本人と対面した時、写真で見るよりも線の細い男性だなとクリスは率直に思った。
海軍士官として兵役を積んだとは聞いていたが、そのわりに色が白く、少し長めの金髪が中性的な印象だ。燕尾服に身を包んだその姿は軍人というよりも芸術家に近い。
噂通りの物腰の優雅な見目麗しい青年ではあったが、威厳あふれる皇帝イヴァン三世とは正反対の雰囲気であった。皇帝の妹である母にそっくりなこの甥を、皇帝は大層可愛がっているのだそうだ。
戴冠式の後、両国の王室、首脳が一堂に会しての祝賀会が催された。表向きはどうあれ、事実上王配として内定していたベルンハルトとクリスを対面させるのが目的だったのは確かだ。とは言うものの、ランバルド王室としては何一つ了承した覚えのないものだったが。
政治家たちが結婚をさも既成事実のようにして、談笑がてら今後のことを協議しているその横で、クリスはベルンハルトからの挨拶を受けていた。
「お初にお目にかかります。クリスティアーナ女王陛下」
「こちらこそ、お会いできて光栄ですわ」
お互いに握手を交わす。
浮かべた笑顔の下でどんな思惑が渦巻いているのか──互いに手を握り締め見つめ合うのは、こまかな表情の動きさえ見逃すまいとするためか。
「お美しい方だとは聞いておりましたが……いやはや、本当にお美しい……」
通り一遍の社交辞令が済むと、ベルンハルトはそう言って目を細めた。ドレス姿のクリスを頭のてっぺんからつま先まで眺めて、大仰なため息を漏らす。
初対面とはいえ、双方の事情は大概のことは知っている。最初のうちはかなり身構えていたクリスも、ベルンハルトの紳士的な振る舞いと、さらには彼と同年代と言うこともあり、言葉を交わすうちに緊張も徐々にほぐれていった。
ぎこちなくも談笑していると、カルダノが近づいてきた。
「陛下とベルンハルト皇子と、若いお二人だけでお話したいこともたくさんあるでしょう。本来なら無粋な我らが退出すべきなのですが、何せ人の数が多いものでしてね。あちらのお部屋で、お二人きりでお話をなさってはいかがでしょうか」
ベルンハルトとクリス、交互に見せたカルダノの笑顔はどこか下卑て見えた。返事をする前に背中を押して別室へ追いやろうとさえしてくる。何かつまらぬことを企んでいるに違いない。
客人であるベルンハルトは成り行きに任せようとでも言うのか、微苦笑を見せるばかりだ。カルダノの申し出を突っぱねることは簡単だが、それではベルンハルトに対して失礼に当たる。
どうしたものかと思っていると、クリスとカルダノの間に割って入る人物がいた。
「陛下に失礼ですぞ、大臣」
クリスを守るように一歩前に出た男──それは叔父のスフォルツァ公爵だった。
父亡き後、クリスの次に王位継承権を持つこの叔父は後見人としての役目も持つ。王家の重鎮として、この結婚に強硬に反対しているのもこのスフォルツァだった。
「大体、我々王室はこのような場を設けるとは一言も聞いていないのですがな。それに前国王が崩御なされてまだ一月……王室としてはいまだ喪に服さなければならないというのに、そなたらときたら……せめて縁談の話を先延ばしにするくらいの気遣いがあってもよいと思うのだが」
スフォルツァは苦々しくまくし立てたが、カルダノはわざとらしく背をそらせて、背の低いスフォルツァを見下ろした。
「公爵こそ失礼ではないのですかな? ベルンハルト皇子は皇帝陛下の名代としてここにいらっしゃってるのですぞ。この祝賀会は遠路はるばるお越しいただいた皇子を歓迎するためのものでもあるのです。それを皇子の前で難癖つけるような真似をなさって……」
国王が若いクリスに代替わりしたとあってか、カルダノをはじめとする政治家たちはますますもって王室を軽んじている。ヴォルガとランバルド、君主とすべき王室を完全に履き違えているようだ。
クリスも腹に据えかねるものはあったが、ぐっとこらえて飲み込んだ。この場で大騒ぎするのは得策ではない。
カルダノに食って掛かりそうな勢いのスフォルツァをなだめ、クリスは笑顔を作った。
「せっかくですから、皇子とお話してきますわ」
「しかし陛下……!」
スフォルツァは青ざめた。何かあってからでは遅いという後見人としての責任感なのか、クリスを止めようと必死だ。その危惧もわかるが、あくまでベルンハルトは客人。彼の顔をつぶすような真似だけは女王として避けなければならない。
大丈夫とばかりにクリスはスフォルツァにうなずいて見せた。
「少しだけですから……では皇子、参りましょう」
クリスの気苦労がわかるからこそ、スフォルツァもそれ以上何も言わなかった。唇を噛み締め、うなだれるばかりだ。
二人は広間を出て、すぐ近くの小さな応接間に入った。クリスに続いてベルンハルトが入ってきてドアが閉められると、途端に緊張が襲ってきた。
暖炉に火が入れられた応接間は暖かく、静けさの中で薪がはぜる音だけが響いている。
二人きりになったからといって、特別話すことがあるわけでもない。ましてや今日初めて顔を合わせた者同士、衆人に聞かれて困るような踏み込んだ会話ができるはずもない。
クリスは場を取り繕うように、ベルンハルトに話しかけた。
「お見苦しいところをお見せしてしまって……臣下に代わってお詫びいたしますわ」
彼は首を横に振った。
「いえ……陛下が色々と難しいお立場立たされていることは、十分承知いたしておりますよ」
「お気遣い痛み入ります」
ベルンハルトもまた自分の立場をよくわかっているのだろう。小さな気遣いが、今はありがたい。
「陛下が結婚のことでお心を痛めていることもわかっています。周囲はこの結婚に対して色々と考えているようですが……それでも私は貴女様のことを、純粋に愛しておりますよ」
面と向かって「愛している」などと言われると、ベルンハルトに何の情も抱いてなくても、自然と頬が赤らんでしまう。そもそもこんなふうに求愛されるのが初めてのクリスにとって、この言葉を聞くのは顔から火が吹き出るほどに恥ずかしく、うつむいて顔を隠すほかなかった。
返す言葉に困っていると、ベルンハルトの優しい声が降ってきた。
「私は──国のことなどどうでも良いのです」
クリスは驚いて、弾かれたように顔を上げた。
見上げたベルンハルトは屈託なく笑っていた。
「もとより政治を動かせるような能力は持ち合わせていませんからね。難しいことは叔父たちに任せます」
冗談にしてはきつ過ぎる。道化を演じているにしては純粋すぎる笑み。仮にも王配になろうかという人物がこんなことをあからさまに語ってしまうとは……
「私が望むのはこの国の実権でもなく、富でもなく、ただあなた一人──その黒い髪、白い肌、凛々しい唇、細い指、しなやかな腰、すべらかな足……あなたの全てを私一人の物にしたい、ただそれだけですよ」
この身体を舐めつくすように、ベルンハルトの視線がゆっくりと上下する。おぞましさに背筋が寒くなり、息を呑んだまま声も出なかった。
彼はクリスの右手を取った。冷え切ったクリスの手以上に冷たい手。氷にでも触れているかのようだ。
「私が怖いですか?」
ベルンハルトの瞳に浮かぶ、ほの暗い欲望の光。つかまれた右手から身体が凍りつく。
「ですが、あなたは私を拒めない──心優しい陛下のこと、ランバルドの民が傷つき血を流す姿など見たくはないでしょう? あなたがこの結婚を承諾すれば、この白い大地が血で汚されることもないのです」
人の弱みに付け込むような真似を──
この男は、自らの立場を熟知している。その上で立場を利用し、楽しんでいるのだ。
「あなたはこの国を守る美しき女王──決して生贄などではないのですよ」
ベルンハルトはクリスの右手を甲を上にして持ち上げた。そしてゆっくりと、その甲に唇を寄せる。
次の瞬間──クリスは思い切り手を引いていた。唇が甲に触れる前に、ベルンハルトの手をもすり抜けて。そして自らの左手で右手をかばった。
ここだけは、誰にも触れられたくない。たとえこの身を汚されようとも、ここだけは何としてでも守りたかった。
青白い顔でうつむくクリスを慈しむように、ベルンハルトは微笑んだ。
「これはこれは……どうも御気分を害してしまったようですね。申し訳ありません」
だがその顔に浮かぶのは嘲笑。慈しむのではなく、蔑んでいるのだ。
「では私は去ることにしましょう。他の者には、陛下はお疲れのご様子なのでお休みいただいたと伝えておきますので、どうぞごゆっくりなさってください」
ベルンハルトは一礼すると、踵を返して応接間を出て行った。
遠ざかる靴音が聞こえなくなってもまだ、クリスは動けなかった。右手をかばったまま、ただ身体を震わせることしかできない。
認めたくなかった現実を目の当たりにして、クリスはこみ上げてくる涙をこらえようと必死だった。
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