ルッカ郊外の野戦飛行場に無事着陸した頃にはすっかり陽も落ちていた。頬に触れる空気はひんやりとしているが、ランバルディアのような厳しい寒さではない。辺りに雪はなく、地面を覆う枯れ草の中でタンポポが早くもつぼみを出している。緩やかに吹く風の中にも土と草の香りが漂っていた。

 迎えに来ていた車にヴィートも連れて乗り込み、一路市街地にある離宮を目指した。

 ルッカの離宮は代々王族の保養地として使われている。温暖な気候と中世から残る閑静な佇まいで、別荘地としても有名なのだ。

 玄関に到着してすぐ出迎えてくれた母ユーディトは、思ったよりも顔色が良く笑顔さえ浮かべていた。


「まあまあ……こんなにも早く来てくれるなんて。着替えもしないで飛んできてくれたのね」

 飛行服のままのクリスにユーディトは目を見張っていた。随分と明るい母が少し心配になる。

「……お母様、どうしたの?」

「実はね、あなた方がこちらへ飛んでくるって連絡が入ったすぐ後くらいかしら、陛下の意識が戻られたのよ」

「えっ、本当に?」

「本当よ。まだ横になってらっしゃるけど、容態は落ち着いているわ」


 母の様子からすると、一応の危機は脱したらしい。クリスはホッと胸をなで下ろした。

 母と共に離宮に入ろうとして、ユーディトがふと振り返った。後ろではヴィートが車の横で一礼をしている。クリスをここまで送り届けるのが使命とばかりに、分をわきまえた彼はそこでずっと待っているつもりなのだろうか。クリスよりも先にユーディトが声をかけた。

「エヴァンジェリスティさんだったかしら。あなたもどうぞお入りになって。陛下がお礼を述べたいそうよ」

 ヴィートは驚いたように顔を上げたが、「ありがとうございます」と言って頭を下げるとクリスの後をついてきた。


 父パオロは寝室のベッドに横たわっていた。クリスが来たことに気づいて身体を起こそうとしたが、枕元に駆け寄ってそれを押し留めた。反対側の手は点滴につながれ、白衣を着た医師や看護婦がその向こう側で忙しなく動いている。意識が戻ったとはいえ、まだ油断はできないのだろう。


「まだ寝ていてください」

「クリス……来てくれたんだな」


 かすれるような小さな声だった。

 その顔はやつれて土気色をしていたが、パオロは微笑を湛えた柔らかな眼差しでクリスを見つめていた。

「倒れられたと聞いて、文字通り飛んできたんですよ」

 枕元にひざまずいて握った父の手はひどく冷たかった。知らず知らずのうちにその顔の皺も随分と増えていたことに気づいて、クリスは思わず胸が詰まった。

「彼に送ってもらったのか?」

 パオロの視線が後ろに立つヴィートに送られる。クリスはうなずいた。

「無理を言ってお願いしたの。どうしてもお父様に会いたかったから……」

「昔からお前は一度言い出すと聞かないところがあるからな」


 そう言って父は相好を崩す。こんなに明るい笑顔を見るのは久しぶりだ。

 パオロはしっかりと顔をヴィートに向けた。


「……君は空軍のエヴァンジェリスティ大尉だな」

 ヴィートは一歩前に出て、敬礼を捧げた。

「はい……陛下とは勲章の授与式以来でしょうか」

「最近クリスと懇意にしてもらっているらしいな。娘の願いを叶えてくれて礼を言うぞ」

「もったいないお言葉……恐悦至極に存じます」


 父の口から「懇意」などといわれると、照れるやら恥ずかしいやらで冷や汗が出てきそうだ。

 パオロは困った顔をするクリスの頭を優しく撫でた。


「この子は多少わがままなところもあるが、人の痛みをわかることのできるとてもいい子なんだよ。これに懲りずにこれからも力を貸してやっておくれ」

「もちろんにございます。力の限り、クリスティアーナ殿下をお守りいたします」


 ヴィートの答えに、父は満足そうにうなずいた。

 父が自分をこんな風に子ども扱いすることなど、本当に久しぶりのことだった。最近では次期女王として国王の代理を務めることもあり、父と娘として向き合うことが少なくなっていたように思う。

 それだけに、いつもと違う父の様子が気になった。倒れてしまったことで単に気弱になっているだけかもしれないけれど。

 クリスはそんな父を元気付けてあげたかった。

「ねえお父様、空から見るランバルドは本当に素晴らしかったのよ。お父様にも見せてあげたいわ。だから早く元気になってね」

 父はニコニコしながら、黙ってクリスの頭を撫でるだけだった。方便でも社交辞令でもなく本気の願いなのに、父も飛行機が怖いのだろうか。そんな恐怖は杞憂だったと教えてあげようとした矢先、パオロはそばにいた侍従に向かって声をかけた。


「皆を……呼んでくれぬか」

 侍従はすぐに頭を下げ、隣の部屋にいたユーディトをはじめとする全員に声をかけた。程なくして全員が寝室に集まり、皆がベッドの周りをぐるりと取り囲んだ。

「お父様、どうなさったの?」

 クリスは父の手が震えていることに気づいた。

「この機会に皆に言っておこうと思ってな」

 そう言う父の唇は真っ青だ。また具合が悪くなったのではないかと思い、クリスが立ち上がろうとすると、父はつないだ手を少しだけ強く握り返してそれを引き止めた。

 パオロは侍従たちに宣言するように、少し声を張って言った。


「クリスはまだ若い……私のもとで国王としての勉強をしてきたとはいっても、君主としてはまだまだ経験不足だ。これから皆が一丸となってクリスを支えてやって欲しい」


 唐突ではあったが、侍従たちは一様にうなずいていた。

 そしてパオロは横にひざまずくクリスに顔を向け、その瞳をじっと見つめた。視線が一瞬後ろのヴィートを捉えたが、意味ありげに口元を歪めるとすぐに視線を戻した。

 心なしか、その呼吸が速くなっているような気がする。息切れして、声を出すのが辛そうに見えてきた。

「お前が幸せに生きられる世を残したかったが……時間が足りなかったようだ。お前を守りきれ……なかった父を……赦しておくれ」

「……お父様? 何を……」

 パオロの顔が苦悶に歪み始めた。胸を掻き毟るように毛布を掴み、肩で大きく荒い息をする。

「陛下!」


 皆が口々に叫んだ。突然の急変にユーディトも侍従たちも息を呑んで立ち尽くす。

 次第に早まる激しい呼吸音。額には脂汗がじっとりと浮かび、苦しさから逃げるようにのた打ち回る。医師が慌てて看護婦に注射を指示し、自らも聴診器を当てようとしたが、パオロは震える手でそれを遮った。

 クリスに言葉を伝えたい──何よりも早く。

 その想いだけが今のパオロを突き動かしているように見えた。

「だから……最後ぐらいは王ではなく、一人の父親として……お前の……幸せを願っているよ」

 クリスは父の冷たい手を強く握っていた。その瞳をじっと見つめたまま、身じろぎさえできない。父が遺す言葉を一言一句聞き漏らしてはいけない──そう直感していた。

 ふと、パオロが微笑んだ。

 クリスを大きく包んでくれるような、いつもの優しい笑顔。


「強く、正しく……心の……赴くままに生き……よ……クリ……ス」


 そして、パオロはゆっくりと目を閉じた。

 まるで眠りに落ちるように──それはきっと目覚めることのない、永遠の眠り。握った父の手にもう力はなく、放すとパタリと軽く落ちた。

 あちこちからすすり泣く声が聞こえてくる。医師が父の脈を取り、まぶたを開いて瞳孔の開きを確認する様をクリスはただ呆然と眺めていた。


「国王陛下、ご崩御なされました」


 そう言って頭を下げた医師の落ち着いた声が、部屋全体を震わせたような気がした。

 ユーディトはパオロの身体にしがみついて、声を上げて泣いていた。侍従たちも皆沈痛な面持ちで、溢れ出る涙を拭いている。

 そんな中でクリスは一人、涙を流していなかった。


 父が、死んだ──

 とてつもなく悲しいはずなのに、不思議と涙が出てこない。それどころか泣いてはいけないような気さえする。

 私は──私は、もう。

 クリスはふらふらと立ち上がった。


「……王宮に戻ります。陛下が崩御なされた今、王宮を留守のままにはできません。エヴァンジェリスティ大尉」

「はい」

 ヴィートを振り返ったその顔は、全ての感情を押し殺したような無表情でありながら、瞳はどこまでも澄んで凛然とした光を放っていた。

「ランバルディアまで送ってください。お願いします」

「御意」


 ヴィートもまた緊張した面持ちで一礼をした。

 侍従たちは我に返ったように慌しく動き始めた。国王の崩御は、国の根幹に関わる事態。関係各位に次々と連絡しなければならない。

 取り乱す母の世話を侍女にお願いして、クリスはヴィートを連れて足早に部屋を出た。

 一刻も早く王宮に戻らなければ──その思いだけがクリスを支配して、他のことが考えられない。離宮から車で飛行場まで戻り、待機していた飛行機の後部座席にすぐさま乗り込んで離陸するところまで、クリスは心から切り離された身体が自分ではない何か別のものによって動かされたような気がしていた。

 エンジンとプロペラの音だけが穏やかに響く夜間飛行。

 コクピットから見上げた夜空には満天の星が広がっている。一つ一つの星がその存在を主張して瞬く様を眺めていると、自分が本当にちっぽけな存在に思えてならない。

 父は一度は死の淵に立ちながらも、どうしても自分に伝えたい言葉があって現世に舞い戻ってきたのだろう。最期は王ではなく一人の父親として、自分の幸せを願うために。


 そして父は──星になったのだ。

 子どもじみた考えだけれども、北の空に輝く一際大きな星の柔らかい光を浴びていると、あの星が父みたいに感じた。きっと父はあの空からいつまでもいつまでも、このランバルドの地を照らし続けてくれるのだろう。


「殿下」

 ヴィートの声が空から降ってきた気がした。

 低く響く彼の声はとても心地よくて、まるで夜の闇が自分を優しく包んでくれるような錯覚さえ覚える。

「……もうすぐランバルディアです。基地に着陸するまでには泣き止んでくださいね」

「え?」

 そう言われて始めて、クリスは自分が泣いていたことに気づいた。あとからあとから溢れ出る涙がゴーグルの中に水溜りを作り、レンズを曇らせている。

「あなたはもう……ただの王女ではないのですよ」


 私はもう──今までの私ではいられない。飛行機がランバルディアに着けば、泣いてる暇などなくなるのだ。ヴィートの気遣いが、今はうれしかった。

 クリスはゴーグルを外してマフラーで涙を拭くと、無理矢理口元を歪めて笑顔を作った。


「あなたって、意外と生真面目なのね。本当に女性にモテてたのかしら」

「痛いところを突いてきますね。意中の女性に限って終始紳士的に振舞ってしまうから、私はいつまでも独身なんでしょう」

「それじゃ種馬っていうより当て馬じゃない」

「……殿下もきついことを仰る。でもそれがこの種馬の正体ですよ」


 クリスは声を上げてひとしきり笑った。ヴィートもつられて笑っていた。

 上も下も真っ黒な世界の彼方に、微かに街の灯りが見えてきた。行きに見た壮大さとはまた違い、宝石箱をひっくり返したようなキラキラとした光が下一面に広がる様は何物にも代えがたい美しさだ。あの灯りの下で、民がそれぞれの暮らしを送っていることを思うと、クリスは不思議と胸が熱くなった。

 このランバルドを、この大地を、これからは私が守らなければいけない──


「……ありがとう」

 クリスは呟いていた。

「あなたが空を愛する気持ちが、少しだけわかったような気がする」

「空はいいでしょう。見るもの全てが美しく感じるんです……私は殿下にこの景色をぜひお見せしたかった。その願いが叶えられました」


 このままずっと空を飛んでいたい──早く帰りたいと言って飛んできたのに、そんな風にさえ思ってしまう。

 ヴィートと二人。いつまでもどこまでも、あの空の彼方まで……

 二人を乗せた飛行機は無事ヴェネト基地に着陸した。すでに遅い時間だが、着替えをする時間も惜しんで待ち構えていた車に乗り込む。

 心細い気持ちが伝わったのか、何も言わずともヴィートは一緒に車に乗り込んで王宮まで送ってくれた。

 車窓を流れる街の灯りを見つめていると、ついさっきまで空を飛んでいたことが嘘のことのように思える。夜空を見上げても、ここからでは星が良く見えない。

 窓ガラスに映るヴィートの端正な横顔──いつもクリスが見つめれば微笑を返してくれるが、視線に気づいていない今は凛とした軍人の顔でまっすぐ前を見据えている。

 もうすぐ王宮。そこに着けば、クリスの静穏だった日々は終わりを告げる。もう冬宮殿には戻れない。あの庭園で、コンサバトリーで、ヴィートと二人語らうこともできなくなる……

 甘くほろ苦い痛みが胸いっぱいに広がって、静かにため息を漏らす。曇る窓を指で拭いてはまた曇らせて、幾度となくそれを繰り返しながらクリスはヴィートの姿に見入っていた。


 王宮に入ると、深夜にもかかわらず侍従や職員が所狭しと駆けずり回っていた。街はまだ眠りについたばかりだが、明日になれば新聞やラジオが国王の崩御を伝え、国中が大騒ぎとなるだろう。

「クリスティアーナ殿下!」

 車から降りると、幾人もの侍従たちがクリスのもとに駆け寄ってきた。国の柱を失い、憂いと不安にさいなまれた彼らの目が、新たなる柱となるべきクリスにすがりつくようだ。

 今夜は寝る暇もなく、様々な手続きや公務が怒涛のように押し寄せてくるのだろう。その荒波の前で一度立ち止まるかのように、クリスは後ろに立つヴィートを振り返った。


「大尉、送ってくださってありがとう」

「いえ、殿下をお守りするのが私の使命ですから」

 刻一刻と迫る別れの時。

 こうして名残を惜しむ間にも、侍従たちはクリスを連れて行くタイミングを計っている。


「殿下。今日庭園でお話したこと、覚えてらっしゃいますか?」

 突然切り出されて、クリスは戸惑った。

 もちろん忘れてはいない。そしてあの雪の中でのことまで思い出して、顔が熱くなってしまった。

「今一度、よくお考えになってください」

 クリスは躊躇しながらも、小さくうなずいて見せた。今ここで再び言い争うようなことはしたくなかった。わだかまりは残るけれど、そんな別れ方はしたくない。

 そんな葛藤を隠すように、クリスは伏目がちに言った。


「あの……時々でいいの。スティーアからここに飛んできてくれないかしら。友人……として、あなたともっともっとお話したいわ。庭園の四季も見せてあげたいし……」


 こんな時だからこそ、わがままを言いたかった。これから激変するであろう生活の中で、拠りどころとなるべき存在が欲しかったのだ。

 だがヴィートは微笑むだけで、イエスともノーとも答えなかった。


「……実は私にも縁談話が持ち上がってましてね。上司が早いとこ身を固めろとうるさいんですよ」


 嘘だ──瞬間そう思った。単なる願望ではなく、女のカン。

 だが、これはきっと決別の機会なのだろう。嘘でも、嘘でなくても、遅かれ早かれこんな日が来るのはわかっていたはずなのだから。

 ヴィートにはヴィートの、そして自分には自分の、成すべき仕事、背負うべき使命があるのだ。


「スティーアに行っても、殿下と過ごした楽しい日々のことは忘れません」

「……元気でね」

 クリスは笑顔を作り、右手を差し出して握手を求めた。

「これからは空の上から、貴女をお守りいたします」

 だがヴィートはその手を握らずに、恭しく膝をつく。


「……親愛なる、女王陛下」


 彼はクリスの手を取り──甲にそっと口づけた。

 素肌に触れた唇の熱さは、甘い痺れとなって全身を貫く。頭まで麻痺したようにボーっとして、言葉が出てこない。

 ヴィートは手を離すとゆっくりと立ち上がり、そして踵を揃えて敬礼を捧げた。クリスを見つめる目は鋭く、笑みの欠片もない。


「殿下、早くこちらに」

 侍従たちが急かすようにクリスの背に手を当てた。半ば押しやられるように振り向かされ、王宮の中に引き込まれる。

 さよならも言えなかった。後ろ髪を引かれる思いで振り返るが、遠ざかるヴィートは敬礼したままで、その厳しい顔は友人でもなく臣下の軍人としての顔だった。


 あなたは──どこまでも軍人なのね。

 悲しくはなかった。互いに楽しかった冬宮殿での日々へ未練を残させない、彼の気遣いがありがたかった。

 クリスは前を向いた。決意と、届かぬ想いを胸に抱いて、大きく一歩踏み出す。

 ようやく気づいた。自分の本当の気持ちに。

 認めてしまえば、今まで堅く築いてきた何かが儚く崩れ去ってしまいそうで怖かった。

 けれど今なら──もう振り返らないと決めた今はもう、迷わない。恐れない。


 あなたを守りたい。

 あなたが好きだから。



 だから私は──女王になる。

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