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ヴェネト基地司令部の裏口玄関に横付けして車を降りると、司令が血相を変えて飛んできた。冬宮殿からヴィートが電話で連絡を入れてあったので、飛行機を用意する手筈は整えていたが、彼が本当に王女を連れてくるとは思っていなかったらしい。
挨拶もそこそこに、クリスは乗りやすいようにと女性士官用の飛行服に着替えた。更衣室から外に出るとヴィートもすでに着替えを終えていて、数人の整備員や同僚たちと何やら話しこんでいる。
いずれは知れることになるかもしれないが、国王が危篤状態にあることはいまだ機密事項だ。クリスがこの基地に来ていることを知っているのもごく限られた人間のみである。ヴィートは口の堅い、信用できる人間だけを使って飛行機を用意させたと言っていた。さらには王女が飛行するということで、もう一機護衛機まで用意させたそうだ。
向こう側に広がる長い長い滑走路から吹き込む風が異常なほど冷たい。様々な飛行機が並ぶ駐機場で、クリスは首に巻いたマフラーをたなびかせて空を仰いでいた。
夕暮れが近く、東の空には闇が迫りつつある。
空は薄い雲があるものの穏やかで、風もそれほど強くない。この天候なら少しは安心できる。
陸路では列車を使っても山脈を迂回して六時間はかかるルッカだが、飛行機なら山を越えてたった一時間だそうだ。
飛行帽にゴーグルをしたクリスの姿は、ぱっと見では王女とはわからない。だが遠くのヴィートと目が合うと、彼はすぐに駆け寄ってきた。
「準備はよろしいですか」
クリスは黙ってうなずいた。緊張のためか、喉が渇いて声が出そうにない。
「では参りましょう」
ヴィートに先導され、駐機場に整然と並べられた軍用機の間を歩いていく。使用するプロペラ機はすでに暖気されて、いつでも飛び立てる状態にあるらしい。
辺りにはエンジンの轟音が響き、吹き抜ける風に束ねた髪が激しく弾む。
案内された飛行機は複座の偵察機だった。とはいえ戦闘機がベースなので、機関銃もしっかりとついている。これで人が殺せるのかと思うと血の気が引く思いがした。
「大丈夫ですよ」
機体を前にしてたじろぐクリスに、ヴィートはそう言って笑いかけた。
大丈夫──今はその言葉を信じるしかない。
彼が差し出した手を取り、クリスは主翼に足を乗せた。翼の上に立ち、コクピットの後部座席に足をかける。
何とか身体を滑り込ませ、座席に座り正面を向くと、前部座席の背面に当たるところに様々なスイッチやランプがついていた。だが何一つ意味がわからないので、絶対に触らないでおこうと心に決めた。
両脇から整備員たちが寄ってたかってベルトを締めたり無線機を装着したりしている。緊急時の脱出方法についてのレクチャーも受けたが、そんな事態に陥ったらパニックになって全て忘れてしまいそうだ。もちろん、そうならないようヴィートの操縦を信じているが。
彼も軽快に上ってきて、流れるような仕草で前部座席に座った。
「キャノピー閉めます」
頭上で風防ガラスが降りてきて、コクピットが閉じられた。ガラス越しに見える空がやけに広く感じる。
ヴィートが管制塔とやり取りしている内容が、無線機を通してクリスの耳にも入ってくる。タキシング(地上滑走)の許可が出て、機体がゆっくりと動き出した。
整備員や他のパイロットたちが、帽子や手を大きく振って出立を見送ってくれた。ヴィートは敬礼でそれに応え、クリスもまた深々と頭を下げて、急な出発にも関わらずうまく取り計らってくれた彼らに感謝の意を表した。
機体がゆったりとしたスピードで誘導路を進むのにあわせて、クリスの鼓動も段々と早まっていく。
やがて正面に滑走路が見えてきた。どこまでもまっすぐな道。地平線の彼方まで続いているように見える。
滑走路の入口で、機体が一度止まった。
「こちら【カヴァリエーレ(騎士)】、位置についた」
『【カヴァリエーレ】、離陸を許可する』
「了解。離陸開始する」
ヴィートがそう言うや否や、機体がうなり声を上げて急加速を始めた。
機体がガタガタと音を立てて揺れ、主翼がそのたびにしなっているように見える。クリスは怖くなって、目をぎゅっと硬く瞑った。
加速度を増すたびに身体はシートに押し付けられ、重くて身動きが取れない。クリスは目を閉じたまま必死で神に祈っていた。
どうか無事に飛び立てますように──
どこまで加速するのか、いつまで滑走路を走るのか。このまま永遠に飛び立たないのではないかとさえ思ったその瞬間。
激しい揺れが、突然消えた。
「あっ」
ふわっとした浮遊感。
経験したことのない不思議な感覚に襲われて目を開けると、世界が斜めに傾いていた。
「……浮いた?」
慣性力に押し付けられた身体を捻って風防の外を覗き込むと、猛スピードで流れる地上の景色が茜色に染まりつつある空に沈んでいくのが見えた。さらに身を乗り出し、格納庫の屋根や滑走路に描かれた標識が次第に遠のくさまをじっと見つめる。
機体は機首をさらに上げ、空へ向かってぐんぐんと高度を上げていた。
ヴェネト基地の全景が姿を表し、その周りの風防林や河川、雪に覆われた農地も見えてくる。遠くにはランバルディア市街の街並みを望むこともできた。
大小様々な家の屋根が白い大地にばらまかれた積み木のようだ。車も道路も橋ももちろん人も、全てがミニチュアみたいでまるで大きな箱庭を覗き込んでいるような気分になる。
しかし、何よりもクリスの目を惹いたのは、果てしなく広がるランバルドの大地の、その広大さだった。
国内の様々なところに行き、その距離を時間として体験しても、平面上を移動するだけでは視覚的な実感はわかない。地図でランバルドの広さを大体はわかっていたつもりでも、それはあくまで仮想のものだった。
だが今、この目に映る景色は──
森も林も畑も草原も、見渡す限り雪で白く化粧を施した大地。生き物がのたうつような迫力を持って川は流れ、人々の営みがそこにあることを示す道路が整然と地を走る。
地平線の向こうは夕闇が迫る鮮やかな色の空。遠くには雪を頂いた山々がその存在を主張するかのように隆々とそびえ立つ。
空の上から見る景色は、地図ではわからない立体感を伴って世界を見せてくれる。クリスの知らなかったランバルドの姿が、そこにあった。
「すごい……」
なんて壮大で、なんて美しい──
クリスは身体の震えを止めることができなかった。
初飛行の恐ろしさも、父が今際の際にあることも忘れて、ランバルドの絶景をしばしその目に焼き付けていた。
「……殿下、大丈夫ですか?」
前席のヴィートの声が無線機越しに聞こえてきて、クリスはふと我に返った。
「え、あ……は、はい」
「お加減はいかがですか」
「ええ、大丈夫みたい」
機体は水平飛行に入っていた。安定してしまえば大きく揺れることもなく、気分が悪くなるようなこともない。
さらに上空を見上げれば、東から西へかけて、濃紺から茜色へのグラデーションがまた一層美しかった。ランバルドの王女でありながら、この国が持つ雄大な自然の美を知らなかったことを、今はとても悔しく思う。
「では少々飛ばしますよ。景色を楽しみたいのは山々ですが、先を急ぎますので」
機体がまた加速を始めた。だが今度はそれほどの恐怖は感じなかった。
昼と夜の境目をなぞるように、進路を南に向けて飛ぶ。
緩やかに流れていく大地を見下ろしながら、クリスは瀕死の父に想いを馳せ、その無事をただ願っていた。
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