3
ヴィートは穏やかな微笑を湛えたまま目を伏せていたが、やがて大きな息を一つ吐くと、ゆっくりと口を開いた。
「……確かに、私は将校たちから極秘裏の指令を受けています──ヴォルガとの開戦を決断するよう、殿下を説得しろと」
聞きたくなかった事実──動揺を隠そうと、クリスは精一杯頬を歪めて見せた。
「お父様……陛下が動かないのなら、娘の私から切り崩そうというわけね。見くびられたものだわ。飛行機が壊れて飛び降りたって言うのも嘘だったのね」
「冬宮殿に降りたのは本当の事故ですよ。ですがあの事件をきっかけに私が殿下とお近づきになったことを知って、将校たちは千載一遇のチャンスと考えたのでしょう」
軍とて一枚岩ではない。何とか王室を動かそうと、彼に厳命を下した国粋主義者が将校の中にいてもおかしくはないだろう。
カルダノはそうした動きに気付いていたのだ。だからこそ軍の人事に口を出すなどという越権行為を犯してまで、ヴィートを遠く離れた場所に異動させたのだろう。
何も知らなかったのは自分だけ……これではまるきり道化ではないか。
「ですが……私はなかなか決心がつかなかった。この国の平和を心から願う殿下のお心に触れてなお、新たな戦争でランバルドをさらに痛めつけるなどという殿下にとって辛いお話をするなど……殿下を騙すつもりなど、毛頭なかったのです。これだけは信じてください」
「ではなぜ……!」
「これはあくまで私個人の考え──将校からの命令などではない、私の心からの強い思いです……が、私を含めた全国民が望んでいることだとも思っています。国民からこれだけ厚く信奉されている王室です。誰の目にもヴォルガの圧力に屈したと映るような政略結婚を、国民が望んでいるとでもお思いですか? ランバルドの象徴たる王室、その未来の女王である殿下が、真の幸せを掴むことがひいてはこの国の平和につながると皆祈っているはずです」
「あなたの言葉の何を信じろというの? 何が私の幸せよ……何も……知らないくせに」
ヴィートが嘘をついていないことくらい、彼の目を見ればわかる。彼も辛い役回りを背負わされて、さぞ心苦しかったのだろう。
それでもなお、綺麗事ばかり並べてくるヴィートが憎らしかった。
これが彼の本音なのかと思うと、なぜか悔しさがこみ上げてきた。うつむき、唇をきつく噛み締めて堪えようにも、あとからあとから湧き出てきて喉の奥に詰まったように苦しい。
「……私は私なりにこの国のことを、国民のことを考えてるのよ。これ以上あなたにあれこれ言われる筋合いはないわ。下がりなさい」
「どうしても……お聞き入れくださりませんか」
「下がりなさいと言ってるでしょう! あなたが下がらないのなら私が戻ります!」
腹立ち紛れに大きく一歩踏み出した瞬間──雪がクリスの足を引っ張った。
「きゃ」
足がうまく前に進まず、クリスの身体が大きくよろめく。白く降り積もった綿雪の中に身を投げ出して──
「あっ」
その身体を柔らかく受け止めてくれたのは、冷たい雪ではなかった。
背中に回る、逞しい腕の感触。腕の中に深く沈みこむような感覚がやけに心地よい。
気がつくと、鼻先が触れそうな位置に、ヴィートの端正な顔があった。
「……大丈夫ですか?」
そう聞かれても、声が出てこない。
吐息が顔にかかりそうな距離で、呼吸さえうまくできない。彼の藍色の瞳に映る自分の驚いた顔を、ただ見つめることしかできなかった。
こんなにも近い──
様々な感情が胸の中で渦を巻いている。
こみ上げる悔しさも、もどかしさからくる憤りも、胸が疼くような得体の知れない感情も、全てが激しくかき回されてどういう顔をすればいいのかわからない。
クリスは胸を突き上げる想いに任せて、かすれる声でその名を呼んだ。
「……ヴィート」
彼が微笑む。
胸が苦しい。言葉にして吐き出してしまえばきっと楽になれる。けれどどう言葉にすればいいのかわからない。でも、この感情の正体を──私は確かに知っている。
互いの唇から漏れる白い息が、二人を隔てる最後の壁。それさえなくなったら──
クリスは小さく息を呑んだ。閉じられた唇が、何かを期待するように震える。
心地よい眠りに誘われるように、瞳をゆっくりと閉じて……
「──クリス様!」
庭園の静けさを破る、エレナの叫び声。
クリスは飛び上がらんばかりに驚いて、我に返った。
目の前には笑顔のヴィート。彼の腕に抱きとめられて、雪の中で二人……
自分が今置かれている状況を思い出して、急激に現実に引き戻される。
「ごっ、ごめんなさい」
何も考えられなくなって、ヴィートの腕から逃れようとあたふたともがいてしまう。
彼は心得たかのようにクリスの身体を抱き起こし、きちんと立たせてくれた。
「ご無事で何よりです」
彼の満面の笑みをまともに見ることができなかった。火照った顔を隠すように背を向けると、宮殿の方からエレナが走ってくるのが見えた。
まさか……今のを見られてた?
巨体を揺らして必死の形相で走ってくるエレナからは、何か只事ではない雰囲気が伝わってくる。
「どうしたの? そんなに慌てて」
クリスは焦りをひた隠しにしながら、息を切らして駆け寄るエレナに怪訝な顔を見せた。
エレナはクリスの前についてもすぐには喋れず、何度か深呼吸して息を整えて、ようやく話し始めた。
「ルッカの……離宮から……電話が、来まして……」
「ルッカから?」
「陛下が……国王陛下が危篤状態だと……」
息も絶え絶えなエレナの喋りに、クリスは自分が一瞬聞き違えたのかと思った。
「えっ? 危篤って……」
エレナはクリスの肩を掴み、その身体を揺さぶった。
「クリス様! お父上の一大事なんですよ!」
エレナの言葉の意味がなかなか理解できなくて、クリスはしばし呆然と立ち尽くす。
「クリス様!」
頭の中を、エレナの言葉がぐるぐると回る。
「……お父様が……?」
昨日の朝、王宮で見送った時の父の笑顔が思い出される。あんなに元気そうだったのに、なぜ……
「嘘よ……嘘でしょ?」
突然そんなことを言われてもにわかには信じられない。事実であるとしても、否定したい気持ちの方が大きいのだ。
うわごとのように呟くクリスに、エレナは今にも泣き出しそうな顔で説明をした。
「お昼頃『胸が苦しい』と突然倒れられて、そのまま昏睡状態だそうです。医師の話では今夜が山だとか……」
今からルッカに向かったとしても、今日中に着くのはどう考えても無理だ。陸路では最も早い列車を使っても六時間はかかる。
「そんな……」
脱力し、雪の上にへたり込む。
クリスはうつろな瞳でたそがれる空を見上げていた。
あの南の空の向こうで、父は今、死の淵に立っている。
行って父を励ましてあげたい。せめて一言、言葉を交わしたい。せめて一目、父の穏やかな微笑を……
「殿下、失礼しますよ」
頭の上から、ヴィートの声が響いた。彼がいることさえ忘れていた。
急に、身体がふわりと浮く。
ヴィートが、動けなくなったクリスの身体を抱き上げてくれたのだ。
「殿下、ルッカに参りましょう」
その言葉に驚いて、クリスは腕の中から彼の顔を見上げた。
「何を……」
「今ならまだ間に合います。乗り心地の悪い飛行機でよろしければ、すぐにご用意できますよ」
「……まさか」
ヴィートの瞳が、鋭く光ったように見えた。それはパイロットの瞳、『不死身の悪魔』の目だ。
恐ろしい光景が、クリスの脳裏をよぎる。
「そのまさかですよ。急げば夜には着くでしょう」
答えを待たずに、ヴィートは歩き出した。
クリスを抱えたまま、庭園からコンサバトリーへ。エレナにクリスの着替えと車の手配を頼みながら、宮殿の廊下にまで出る。
「……ちょ、ちょっと……ちょっと待ってよ!」
ヴィートがあまりにも話を強引に進めるので、クリスは焦って叫んだが、彼は意に介していないようだ。
「ねえ、降ろして!」
抱えられた腕の中で暴れるように身を捩ると、ヴィートは諦めたのかクリスの身体を床に降ろした。
豪華な調度品の並ぶ薄暗い廊下で、ようやく自分の足で立ったクリスはヴィートに食ってかかった。
「勝手に話を進めないで! 私、飛行機に乗ったこともないのよ? それなのに……そんな……戦闘機だなんて……絶対にイヤ! 私は乗らないわよ」
「殿下は本当にそれでよろしいんですか?」
ヴィートの真摯な瞳に射すくめられて、クリスは返す言葉を失った。
「今すぐ、陛下にお会いになりたいのではないのですか? 今を逃せば、もしかしたら、もう二度と陛下とお言葉を交わすことができなくなるかもしれないのですよ」
「それは……」
今すぐ父に会いたい。飛べるものなら今すぐ飛んでいきたい。
心ではそう思っても、実際に空を飛ぶとなると恐怖心が先立ってしまう。
クリスは飛行機に乗ったことがないのだ。軍用機は発達していても、旅客機はいまだ一般的な乗り物ではないのである。
ヴィートの引き締まった顔つきは、パイロットのそれに完全に戻っていた。
「あとは殿下のお心次第です。殿下──私を信じてください。このエヴァンジェリスティ、命に代えましても必ずや殿下をルッカまで送り届けます」
クリスの心は揺れていた。
初めて空を飛ぶ──しかもその飛行機が戦闘機だなんて、冗談にもほどがある。考えただけで眩暈がしそうだ。
けれど──彼の言う通り、この機会を逃せば父の今際の際に間に合わないかもしれない。
父にもしものことがあった時。
それが自分にもたらすもの、その意味を、クリスは痛いほど知っている。
遠い未来だと思っていたその日が、今、目の前に迫ってきているのだ。
クリスは目をそらすようにうつむいた。
「……私は王宮の留守を預かる身。このランバルディアを離れるわけにはいかないわ」
クーデターを狙う不届きな輩がいないとも限らない。今のクリスは王宮における国王の代理なのだ。
「けど……私はお父様に会いたい。ほんの少しでいいの。強くて優しい、大好きなお父様に……だからお願い。私をルッカまで連れて行って」
それがわがままだとわかっていても──願わずにはいられなかった。
この願いを叶えてくれるのは彼しかいないと思った。ましてや多少の危険を伴うのなら、この命を預けられるのは彼をおいて他にはいない。
見上げたヴィートの顔が、ふっと緩む。それがとてつもなく頼もしいものに見えた。
「御意にございます」
そう言って、ヴィートは深々とお辞儀をした。
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