冬晴れの空は雲一つなく、どこまでも青く澄み渡っている。

 それだけに今朝の冷え込みは厳しかったが、日が高々と昇って日光が降り注げばこのコンサバトリーは暑いくらいの温度になる。薄いブラウスにスカートという出で立ちで十分なほどだ。

 この天気だと、父と母が滞在するルッカはこのあたりの春くらいの気候になっているのではないだろうか。温暖な気候のルッカは年間通して雪もほとんど降らず、この時期でも屋外に咲く花が途切れることがないと聞く。

 テーブルの上で頬杖をつき、雪深い庭園を見つめていたクリスは、もうすぐやってくるヴィートを心待ちにしながら、一方で憂鬱な気持ちを抱えていた。


 昨日のカルダノとの一件が、小さな棘となって胸に刺さっている。

 ヴィートは気が置けない友人の一人。それ以上でもそれ以下でもない。お互いにそれぞれの立場を理解し、尊重して付き合っているつもりだ。

 ヴィートとは月に数度、ここで楽しくお喋りに興じているだけ。

 カルダノの言うことなど余計なおせっかい、気にしなければいいだけの話だ。何も後ろめたいところはない。

 なのに──この胸に広がる疚しさにも似た甘い痛みはなんだろう。

 女性には手が早いと評判の彼だが、クリスの前では努めて紳士的である。時にきわどい冗談を言ってクリスを驚かせたりからかったりするが、口説くようないわゆる「手を出す」ことは決してしない。王女としてのクリスを敬ってくれているのか、それとも単に女性として興味がないのか……

 どちらでも構わないけどね──そこまで考えて、クリスは自分が少し怒っていることに気づいた。眉根を寄せた不機嫌そうな顔が、窓ガラスに映っている。

 これではヴィートが手を出してくれないことが不満みたいで、みっともないしはしたないではないか。仮にも王女、カルダノの言葉ではないが婚約を控えた身だというのに……


『恋はいつでもどこでも、どんな時でもできるんです……いくつになっても、たとえ伴侶がいてもね』


 頭の中で、ヴィートの言葉が繰り返される。

 この結婚がランバルドの平和につながる──そう信じることだけが救いだった。

 人並みの幸せを求めることなど許されない。身も心も国に捧げよ──そう言われている気がして、クリスの心は追い詰められ頑なになっていた。

 だが彼のあの言葉は、不思議なことに重荷に縛られた心を解き放ってくれた。たとえ道理に背くものだとしても、その言葉に勇気付けられたことは確かなのだ。

 でも、今までそんな相手が見つからなかったのに、これから先好きになれる相手なんているのだろうか?

 恋はしようと思ってするものではなく、気がついたら落ちているもの──ヴィートはそうも言った。


 気がついたら……

 クリスは母の話を思い出した。前に聞いたことがある。父と出合った時のことを。

 父と母は王族には珍しい恋愛結婚だったのだ。元々縁戚関係にあり、一応は見合いという形を取っているが、当時すでに国王だった父と、とある貴族の音楽会で顔を合わせた母は一目で恋に落ちたのだと言う。

『気がついたら、陛下のお姿ばかり目で追っていたのよ。見ているだけで胸がドキドキして苦しくなって……でもそれがまた心地いいのよ。それからはもう寝ても醒めても陛下のことばかり。次はいつお会いできるかしらとかね。うふふ……いつの間にか恋に落ちてたわ』

 頬を赤く染めて笑う母ユーディトが少女に戻ったかのように可愛らしかったのを覚えている。

 母の言葉を思い出しながら、クリスは何か既視感のようなものを覚えた。


 何だか……似ているような?

 突然、クリスは勢いよく立ち上がった。考えることをやめたのだ。

 折り良くエレナがヴィートの到着を告げに来た。ふと頬が熱く感じて、クリスは冷たい指先を当ててその熱を冷まそうと躍起になってしまった。







「現場に戻れることになりました」

 ヴィートの言葉に、クリスは飲もうとしていた紅茶で火傷しそうになった。

「そ、そう……おめでとう」


 確かに一月前には空軍参謀総長に彼の現場復帰を打診している。だが思っていたよりも随分と早い配置転換だ。

 目の前に座るヴィートは、静かに紅茶に口をつけた。セピア色の髪が陽光を受けて煌き、心なしか浮かべる笑顔まで眩しく見える。

 カップをソーサーに置き、彼は目を伏せて言った。


「……スティーアに行くことになりました。新設される中隊の中隊長を拝命することになりましてね」


 クリスは今度こそカップを落としそうになって、テーブルクロスに紅茶を少しこぼしてしまった。

 スティーアと言えばここランバルディアから遠く離れた南東の都市、しかもヴォルガに最も近い、いわば前線基地だ。

 彼がパイロットに復帰できるのは喜ばしいことだが、まさかそんな遠い基地に行ってしまうことになるとは……

 クリスは激しく動揺している自分に気づいていた。


「ここに来るのは今日が最後になりそうです」

「今日が最後って……いつ向こうに?」

「来週です」


 クリスは直感的に、カルダノのあの嫌味たらしい顔を思い出していた。この急な異動話には、政府親ヴォルガ派の意向が強く働いているような気がしてならない。

「そう……そうなの……」

 クリスにはそれしか言えなかった。

 それきりお互い言葉を失って、黙って紅茶を飲むしかなくなってしまった。


 考えてみれば、軍人が一つの基地に長年居座る方がおかしい。ましてや地上勤務からパイロットへの配置転換ともなれば、基地が変わることは十分考えられることだ。

 ヴィートにとっては長年待ち望んだ空への本格的な復帰、喜ばないはずがない。彼が最も彼らしくあれる場所──あの広い大空へ、ヴィートは還って行くのだ。

 それが彼の幸せなら──クリスはそう願わずにはいられなかった。

 互いのカップが空になった頃、ヴィートはおもむろに口を開いた。その目は庭園をじっと見つめている。


「殿下、外に出ませんか」

「えっ、でも雪が……」

「ここは冬が一番美しい庭園でしょう? 足を踏み入れたのはパラシュートで降りたあの日だけですし、見納めに案内してくださいませんか」

「……そうね」


 二人は席を立つと、それぞれのコートを着こんで外へ出た。

 外は日が傾き始め、西日が薄く雲をかけて柔らかい光を投げ落としている。アイボリーブラックのウール製ミリタリートレンチコートに身を包んだヴィートは、庭園の中心に立ち、辺りを見回して感嘆の白い吐息を漏らしていた。

 夏には、芝生と草木が織り成す緑の濃淡に色鮮やかな花々が彩りを加えるこの庭園。全ての生命がその命を燃やしつくさんと、眩しいばかりにそれぞれの色を主張する夏とは対照的に──


 冬の庭園は、白と影の世界だ。

 何もかもが雪に覆われて、その陰影が作り出す光景にまるでモノトーンの世界に迷い込んだような錯覚を覚える。

 雪の間からわずかに顔をのぞかせる常緑樹の黒にも近い緑。背の高い樹木には霜が降って、細い枝が薄いヴェールを被るかのように神秘的だ。

 その色彩はまさにランバルドの原風景。凍てつく冬をも甘受し、古くから大自然の中で生きる喜びを噛み締めてきたランバルド人なら誰もが心を震わせる風景のはずだ。

 それでいて、背後には中世に建てられた歴史ある冬宮殿がそびえ立ち、庭園の外周を石造りの防壁がぐるりと取り囲む。舗道も植栽も幾何学的に配置され、ここが人工的に作られた空間で芸術の一部であることを忘れさせない。

 全ての生命が眠りについたかのように、静まり返る庭園。外界の音も閉ざされて、ここだけ空間が切り取られたみたいだ。

 光を乱反射して、雪と氷の世界が輝く。

 それは春のような力強さではなく、夏のような激しさではなく、秋のような寂しさではなく、あくまで優しい、柔らかな煌き──


「美しいですね……」


 ヴィートはその美しさを目に焼き付けるかのように、ゆっくりと庭園を見回している。

 雪に溶け込むようなスノーホワイトのカシミアコートを身に纏ったクリスは、そんな彼の横顔をじっと見つめていた。

 この庭園にヴィートが舞い降りてきたあの日から二ヶ月余り。季節は進み、庭園も真冬になって大きく様変わりしてしまった。

 確かに今が一番美しい時期だけれど──庭園の四季を全て、彼にも見せてあげたい。

 スティーアは遠いが、飛行機ならまさにひとっ飛びだろう。まとまった休暇が取れたら、自慢の飛行技術でここに飛んでくればいいのだ。

 春がくれば、この雪の下でしばしの眠りについていた草木たちはいっせいに芽吹き始め、白一色だった庭園は萌黄に色づき始める。辺りには土の匂いが立ち込め、目覚めた樹木たちがその花を咲かせ始める。桜、木蓮、ライラック……

 ヴィートは友人の一人。婚約が間近に迫っていても、この庭園を再び案内してあげるくらいのことはできるはずだ。夏も、秋も、そうやってここを見せてあげよう。

 けれど、次の冬が来る頃には──


「殿下」

 名を呼ばれて顔を上げると、ヴィートがすぐ目の前に立っていた。

「実は……殿下にどうしても申し上げたいことがありましてね」

 ヴィートは柔らかな微笑を湛えながらも、瞳の奥に鋭い光を忍ばせてクリスをじっと見つめていた。

 どこか真剣な眼差しに、クリスは息を呑む。

「……何かしら?」

「殿下のおこころざしを踏みにじるようで、大変申し上げにくいんですがね……」

 ヴィートは逡巡するかのように一度顔を背けたが、心を決めたのか、再びクリスを真正面から見据えた。


「ベルンハルト皇子とのご結婚は、おやめになった方がよろしいかと」


 息が止まりそうだった──

 それは心のどこかで期待していた言葉だった。期待しながらも、望んではいけないと自制してきた言葉だった。

 胸の動悸を抑えきれず、苦しくなって半開きになった唇から淡い吐息が漏れる。


「……それはあなたの個人的感情かしら? 皇子に嫉妬でもした?」

 冗談めかしてそう言うのがやっとだった。

「殿下を娶るなんて幸せな男は、世の男の嫉妬を集めて当然ですよ。もちろん、私もそんな男の一人ですがね。ですがこれは王室のため、このランバルドのためを思ってのご忠告です」


 自分の中で、何かが急速にしぼんでいく。

 急に熱が冷めたように、クリスは冷静さを取り戻した。むき出しの手が冷え切って、手袋を忘れてきたことに気づく。

 いつの間にか、ヴィートの顔から微笑が消えていた。


「殿下とて、これがランバルドにとっての最良の道だとお思いになっているわけではありませんでしょう? 皆が皆、この結婚に賛同しているわけではないことを、殿下はおわかりになっているはずです」


 そんなこと──そう言いかけて、クリスは言葉を飲み込んだ。

 ヴィートの言う通りだ。

 何もかも一人で背負い込んだ気になっているが、王室の重鎮から結婚に対する反対の声が上がっていることは確かなのだ。クリスにごく近い人物は言わずもがな、エレナなどは仕組まれた政略結婚に怒り心頭で、冬宮殿に来る政府関係者を鋭く睨みつける始末である。

 だがここで政府の要求を突っぱねて、ただでさえ微妙な関係にある政府と王族、そして軍部のパワーバランスを崩し、ランバルド全体を混沌の渦に巻き込むことはしたくない。ヴォルガの圧政下にあって国内がバラバラになるようなことになれば、それはまさにヴォルガの思う壺ではないか。

 ましてや小康状態で落ち着いているヴォルガとの関係を悪化させ、「冬戦争の再来」などという事態に持ち込むのだけは絶対に避けたいところなのだ。

 ランバルド王室にヴォルガ皇家の血を入れることで、両国が適度な距離を保った良好な関係を結べるのなら──

 クリスはそう思って、苦々しい想いを噛み締めながらこの縁談を了承したのだ。その想いは王室、政府共にわかっているはず。いや、王室には友好的な軍部だって知っているはずだ。なのに……


「強がるだけが、この国を守る方法ではありませんよ」

 そう言うヴィートはやけに老成して、クリスは子ども扱いされたようで気分が良くなかった。

「……あなたに何がわかるのよ」


 人の気も知らないで──

 ふてくされたように、クリスはそっぽを向いた。その仕草がまた子どもっぽいことに気づいて、ヴィートの視線から完全に逃れようと背を向けてしまう。

 クリスは投げやりになって言った。


「じゃあどうすればいいって言うの? またヴォルガと戦争しろとでも?」

「……私を含め、ランバルド軍は国王陛下、そして殿下のためならいつでも命を捨てる覚悟にございます」


 そんな建前を言って欲しいのではない。

 クリスは段々と悲しい気持ちになっていった。


「ランバルドの行く末の鍵を握るのは殿下なのです。この国の真の平和を望むのなら、ヴォルガに下るのではなく、ヴォルガともう一度戦うべきだと私は思います」


 ヴィートは淡々と、ただ事実を述べるだけで、そこに何の感情もうかがえない。

 たまらなくなって、クリスは彼を振り返った。


「そんなに戦争がしたいの? あなたは好んで戦うような人ではないと思ってたけど? まさか冬戦争のことを忘れたわけではないわよね」

「それはもちろんです」

 ヴィートは神妙な面持ちでうなずいた。


『この罪を、一生背負って生きていくのです』

 彼は述懐をそう締めくくった。

 その目で血塗られた戦争を見てきた彼の言葉だからこそ、クリスはそれを重く受け止め、決意を固めたのだ。

 ふと、クリスの脳裏に、昨日のカルダノの言葉が蘇った。

『奴も軍人。殿下に近づくことで、何か良からぬことを考えているやも知れません』


 まさか……

 カルダノの声が耳鳴りのように耳から離れない。

 彼を信じていた心が途端に激しく揺らぎ始める。言いたくない言葉を言って、聞きたくない答えを聞くのは怖かったが、それでもクリスはたずねずにはいられなかった。


「それは本当にあなたの考え? 誰かがあなたにそう言わせてるのではなくて?」

 ヴィートは答えなかった。

 ただ目をそらす彼を、クリスは絶望的な思いで見ていた。

「……そうなの? 最初から私をけしかけるつもりで近づいてきたの?」

 焦れる気持ちを抑えても、口調はどんどんきつくなる。それでも答えないヴィートにクリスは苛立ちを隠せなくなった。


「答えなさい!」


 感情に任せて問い詰めた大声は静かな庭園に波のように広がり、そして消えた。残ったのは、静けさの中に響く息遣いの音だけ。

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