雪月

 半月ぶりに見た父パオロ二世の顔は、少しやつれてはいたものの血色はよく、心配していた風邪も多少良くなったようだった。

 ランバルド西南の都市ルッカにある離宮へ旅立つという父と母を見送るため、クリスは王宮へと出向いてきていた。


「お父様お母様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」

「向こうはここよりもずっと暖かいからな、しっかりと静養してくるよ」

「ねえクリス、今からでも一緒に行かない?」


 母である王妃ユーディトは後部座席の窓から心配そうな顔をのぞかせたが、クリスは黙って首を横に振った。心配性の母のことだ。今は離れて住んでいても、自分たちが遠くに出かけるとなると途端に一人娘のことが気がかりになるらしい。

「そう……では留守を頼みますよ」

 窓が閉められ、車は通用門を出て近くの駅へと向かった。ルッカまでは王室専用列車での旅となる。

 門を出て行く車を見送って、クリスは通用口から王宮の中へと戻った。公務の打ち合わせが入っていたので、冬宮殿に帰る前に片付けていかねばならない。

 直線状の長い廊下は所々ランプで照らされ、薄暗い中で伝統ある歴史の色を醸しだす。


 国王パオロ二世の居城であるランド宮殿は、さすがにクリスの住む冬宮殿とは比べ物にならないほどに大きい。ここは国王の公邸であるのと同時に執務の場でもあり、歴史ある建物の中に執務室のほか接見室、音楽堂、ギャラリー、舞踏会場、晩餐広間などの公式の場があり、さらに百近くの客間が存在する。

 庭園も、落ち着いた雰囲気の冬宮殿とは対照的に、国王の居城としてふさわしい絢爛さに満ち溢れている。ヴィートと一緒に逃げ込んだあの裏庭はその中でも寂れたほうで、まだ幼いクリスがここに住んでいた頃、勉強がイヤでよくあの裏庭に隠れていた勝手知ったる場所だったのだ。

 ここには国王夫妻をはじめ、王族に仕える多くの侍従たちも同じ宮に住み込んでいる。政府関係者や職員などの公務に関する人員や、さらに招待客や諸外国からの訪問者などを含めると、目まぐるしいほどの人の出入りだ。その煩わしさに耐えられず、年頃になったクリスは一人冬宮殿に住まいを移した。

 王宮と冬宮殿は、車で十分ほどの距離である。歩いてもそう遠くない。公務があるたび、クリスは王宮に出向いている。

 すぐ近くとはいえ、一人家を出た形のクリスに、父や母は時々寂しそうな顔を見せる。クリスとて両親と一緒に住みたくないわけではない。

 だが王宮にいる全ての人間が、自分に好意を持つ人間とは限らない。隙あらばつけ込み、自分を利用しようとする輩もいないとは言えなかったのだ。その目に冷たい光を宿して隙をうかがう肉食獣のような、そんな老獪な大人たちから逃げ出したい気持ちの方が強かった。


 我ながら、弱い人間だと思う。

 将来女王になるのだと言われても、どこか他人事で、公務にも積極的になれなかった。

 けれど、ヴィートに出会ってから、その心境に変化が出てきた。

 彼の華やかな見かけによらない人柄に触れ、英雄と呼ばれた『不死身の悪魔』の源流を知ったからだろうか。

 彼の昔話を通して、これからの自分が背負うものの大きさ、その重さを、改めて知った。

 この国を襲った戦争と言う名の悲劇の、その真実の姿を知ることで、自分が守るべきものが何なのかをしっかりと見据えられた、そんな気がする。


 あれからも度々ヴィートを宮殿に招いては、お茶会と称して色々な話を聞かせてもらっている。

 戦争の話だけではなく、飛行機や天候、空軍の組織や頑固頭の上司、果てはヴィートがこれまでお付き合いしたという女性の話まで、彼はどんな話でも面白おかしく語ってくれた。

 その巧みな話術は、彼が見てきた世界をクリスにも見せてくれる。

 自分の知らない世界を──一生見ることがないであろう世界をも垣間見れたような気分になれる。

 ヴィートと二人で話に華を咲かせるコンサバトリーでの時間は、クリスにとって何物にも代え難い至福のひとときになった。時が経つのも忘れてしまい、冬の早い日暮れが訪れてやっと過ぎ去った時間に気づくほどだ。

 気がつけば、彼の来訪を指折り数えて待っている。

 明日はその来訪の日。だからこそ母の誘いを断ってまでランバルディアに残ったのだ。

 侍従を引き連れて回廊を歩いていたクリスは、向こう側からやってくる白髪混じりの男が、満面の笑みを湛えてこちらを見つめていることに気づいた。


「これはこれは殿下……今日はこちらにおいででしたか。ちょうど良かった」


 三つ釦のスーツを折り目正しく着こなしたその男は、あのカルダノだった。よっぽど無視しようかと思ったが、そうもいくまい。仕方なく足を止めて挨拶をした。

「大臣、今日は何の御用ですの?」

 何となくはわかっているが、先制の意味も込めて聞いてみる。

「ベルンハルト皇子の海軍退役スケジュールが変更になりましてな。殿下との謁見の日時を少し早めることにいたしました」

 思わずため息が漏れそうになって、クリスは慌てて咳払いで誤魔化した。


「おや、お風邪でも召しましたか?」

「いえ、大丈夫です」


 カルダノは終始ニヤニヤとして、こちらを見下すような視線を送ってくる。同じ笑顔でもヴィートとはまるで違う。


「皇子は今はまだ駆逐艦の上ですが、直本国へ戻ってくるそうです。できれば夏辺りに婚約を発表し、次の冬には結婚の儀を執り行いたいところですなあ」


 自分の与り知らぬところで結婚の話は着々と進められているようだ。そこに自分の意思などあるはずもない。こちらの都合など聞かず、ヴォルガ側の意思ばかりを尊重する彼ら政治家は、この結婚が本当に国益につながると信じているのだろうか。

 彼らはクリスを王族だ次期女王だと奉っているが、心中では自分たちの野望成就のための道具としか考えてないことをクリスは重々承知している。ランバルドのためと言いながら、彼らはヴォルガにすり寄り媚びへつらうことで自分たちの地位を安泰のものにしようと画策しているのだ。結局は自分たちの利益を追求するのが目的なのだから、彼らの愛国心を疑いたくなるのも当然である。

「これで殿下がご世継ぎを産んでくだされば、ランバルド王室も安泰と言うものでしょう」

 まったく気の早い話だ。

 こちらがこの結婚に乗り気でないことを知っているはずなのに、嫌がらせとしか思えない発言である。


 この話は今までは父がやんわりと断りを入れてくれていたのだが、体調を崩すことが多くなって、強硬に推し進めようとする政治家たちの圧力にいつまでも立ち向かうことができなくなってしまった。一旦押し切られてしまったら、後はなし崩しだ。

 そして今は国王である父を差し置いて、彼ら政治家だけで話をどんどん進めてしまっている。父の影響力がここまで弱まっているのかと思うと、クリスは悲しくなってしまった。

「ええ……そうね」

 そう答えるのが精一杯だった。

 これ以上この話はしたくない。そう思って、クリスは「では」と軽く一礼してカルダノの脇を通り過ぎようとした。


「ところで殿下──最近冬宮殿の方に、頻繁に来客があるそうですね。なんでも軍の人間とか」


 クリスはハッとして足を止め、顔を上げた。

 真横でカルダノは意味ありげに片頬を歪めて笑っている。

「なぜ……」


 ヴィートのことを──そう続けようとして、クリスは慌てて口をつぐんだ。

 カルダノが言う来客がヴィートを指していることは明白だ。

 なぜ彼がそのことを知っているのか──だが今はそんな疑問よりも、彼が今ここでヴィートの話を持ち出した真意が何なのか、クリスは焦る頭で必死に探った。


「……彼はいいお友達よ」


 つまるところ、カルダノは牽制しているのだ。

 言い返しはしたが、彼の顔を見ることはできなかった。

 顔を背けた自分の頬に、カルダノの視線が突き刺さる。口元に笑みはあるが、その目は決して笑っていない。


「もちろん、殿下ともあろうお方が一軍人と間違いを起こすような真似はなさらないかと思いますがね……いや、奴も軍人。殿下に近づくことで、何か良からぬことを考えているやも知れません。もしかしたら殿下をそそのかそうと──」

「彼はそんな人じゃないわ」


 そう言って睨み返してきたクリスの剣幕に驚いて、カルダノは一瞬言葉を詰まらせた。

 だが彼はすぐに態勢を立て直し、優位を際立たせるように背をそらせてクリスを見下ろした。

「……とにかく、殿下はご婚約を控えた御身なのですから、くれぐれもご用心下さいませ」

 自分は何一つ間違ったことをしていない。なのになぜこんなにも屈辱的な気分を味わわせられなければならないのか。

 クリスは腹立たしくなった。カルダノを真正面から見据え、胸を張って王女として精一杯の威厳を見せ付ける。


「進言痛み入ります。ですが心配は無用です。自分の立場はわきまえていますから」


 落ち着いた、迫力のある声。睨みをきかす漆黒の瞳が冷たい光を放つ。

 たじろぐカルダノを捨て置くように、クリスは歩き出した。背後で彼が深々と黙礼しているのにも構わずに、硬い靴音だけを残して回廊をただひたすらまっすぐに進んで行った。

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