もう何度目の訪問になるのだろうか。

 話を一旦止めて、ヴィートは過ぎ去った時間を想った。過去と現在、時間の流れが前後したようで、今日が三度目の訪問であることがなかなか思い出せなかった。一度では時間が足りずに、乞われるまま今日で三度目となっている。


 コンサバトリーの外はすっかり冬だ。寒さは一層厳しくなりつつある。

 テーブルの斜向かいに座ったクリスは、その大きな瞳にあふれんばかりの涙を湛えてヴィートをじっと見つめていた。


 あの時──天使を撃ち殺した瞬間。

 本当は泣きたかったのだ──


 クリスの瞳から、透明な涙が一筋零れ落ちる。それを眺めながら、ヴィートは思い出していた。

 天使がその胸に抱えていた孤独、苦悩、誇り……その全てをこの手で終わらせてしまった。一つ重ねたその罪は、自分にとってはあまりにも大きすぎるものだったのだ。

 事切れた天使から逃げ出すようにその場を離れ、雪原を無我夢中のうちに歩き回り、ニーノの亡骸を見つけた時にはヴィートは凍死寸前だった。

 涙を流している余裕などなかった。いや、何も考えたくなかったのだ。

 クリスの涙は、あの時の自分が流せなかった涙なのかもしれない。

 抱きしめたい──

 王女を相手に恐れ多くもそんな衝動が湧き上がってきて、ヴィートは膝の上で拳を強く握り締めた。





「凍死寸前で救出され、病院で目を覚ました私は全治一ヶ月の大ケガでしたよ。でもじっと寝ていることなどできなかった……地上にいることに耐えられなかったんです。身体に圧し掛かる重力が、罪の重さと同じような気がして、一刻も早く空に逃げ帰りたかった。次の日には病院を抜け出して戦闘機に乗っていましたよ」


 ベッドに横たわる自らの身体が、重くて仕方がなかった。

 見えない何かが、この身体をベッドに抑えつけているような気がした。

 目を閉じれば、天使を殺したあの瞬間が鮮烈に蘇ってくる。手が指が、握り締めた拳銃の重さを、引き金の重さを鮮明に覚えている。

 じっとしていたくなかった。ただそれだけで、ヴィートは傷だらけの身体を引きずってまで戦闘機に乗り込んだのだった。


「それからの私の戦績はご存知の通りですよ。『不死身の悪魔』などと称され、何度堕とされても、どんな大ケガをしてもすぐに空へと舞い戻る……取り憑かれたような出撃回数に、軍医や仲間たちからは『狂ってる』と言われましたがね。確かにあの時の私は狂っていました。そうすることでしか精神が保てなかった。そうやって空へ逃げ込んではまた人を殺しているんですから、可笑しな話ですよね……」


 そう言ってヴィートは笑って見せたが、クリスの表情が晴れることはなかった。

 次々と零れ落ちる涙を拭おうともせず、ヴィートから視線を外そうとしない。


「戦争が終わり、戦う意義がなくなってホッとしたのも束の間でした。英雄と称えられ、陛下に勲章を賜った私は昇進し、地上勤務を命じられました。だがそれは地獄の日々の始まりだった──空を飛べないということは、逃げ込める場所がなくなったということなんです。終戦から五年……自分でもよく耐えたと思いますよ」


 地上勤務を命じられたあの時ほど、英雄であることを呪ったことはない。

 栄誉も名声も、勲章だって本当は欲しくなどなかったのだ。積み重ねてきた死体の上で輝く勲章を身につけるなど、ヴィートにとっては十字架を背負うのと同じことなのだから。

 平静を装いながら、その裏で強い罪悪感に苛まれ続けてきた日々。ギリギリのところで綱渡りをしてきた精神は、もはや限界に達していた。


「冬宮殿に降り立ったあの日の朝、夢を見たんです──土の中から這い出してくる無数の手……戦争で殺してきた何百人という人たちが、その上に立つ私の足首を掴んで地中に引きずり込もうとする──うなされて目が覚めて、私は格納庫へと駆け込みました。そしてたまたま空いてた飛行機に乗り込み、発作的に飛び立ったんです。夢の中の亡者から逃げるように、それはもう無我夢中で……それが整備途中の機体だったことにも気づかないくらいにね」


 高揚感が得られたのは一瞬だけだった。

 空へ逃げこんできた自分を責めるように停止するエンジン──一時はこのまま飛行機と一緒に堕ちようかとさえ思った。

 だが習慣というものは怖いものだ。墜落するとわかった瞬間、身体は脱出に向けて動いていた。ブランクがあっても、訓練や実戦で徹底的に身に染み付いた動きは忘れていなかったのだ。

 死ぬこともできず、流れ流されて着いた先が冬宮殿だった。そこが王女殿下の居城で、敵と間違われて銃殺される危険があるとわかっていても、ヴィートは今更逃げようなどとは思わなかった。捕まって処罰されようが脱走兵として処刑されようが、もうどうでもよかった。

 それが何の因果か、今こうやって王女を相手に昔語りをしている。

 ヴィートは窓の外に目をやった。微かに雪を被った垣根の中で、椿が真っ赤な花をいくつも咲かせている。その根元に散る赤い花びらが雪を染める血を思わせて、ヴィートは自らの罪をまた思い出した。


「私はただの『悪魔』ですよ。『英雄』なんかじゃない……数え切れないほどの人間を殺してきた、ただの『人殺し』。私はそれを自覚したのです。どんな大義名分があろうとも、罪は罪。この手で人を殺したその事実は一生私の脳裏から離れない──この罪を、一生背負って生きていくのです」


 話し終えて、ヴィートは紅茶のカップを掴んだ。飲むことも忘れて語っているうちにすっかり冷めてしまったようだ。口に含み喉を潤すと、深く深く息をついた。

 彼女の漆黒の瞳に見つめられると、抗えない──

 ヴィートの昔話を聞きたがる女は今までにも数多くいた。

 だがその誰もが華やかな戦績にばかり目が行き、口々に褒めそやし称賛の言葉で囃し立てるだけだった。

「悪魔」が「悪魔」になりえたその理由を誰も聞こうとはしない。ヴィート自身も意図的に話そうとしなかった。自分の最も弱い部分に触れられたくない、自ら触れたくなかったのだ。

 しかしクリスの──この王女の澄んだ瞳に見つめられると、その傷口でさえ自らさらけ出さずにはいられなかった。胸の内にずっとたまっていた澱を吐き出さずにはいられないほど、彼女の瞳には不思議な力があったのだ。

 どんなに陰惨な話でも、クリスは耳を塞ぐことなく、まるでこの宮殿内をゆったりと流れる時間の音を聞くかのようにじっと耳を傾けてくれた。ヴィートの淡々とした語りを、彼女もまた大仰に驚くでもなく淡々と聞いてくれた。

 そんな風に自分の話を聞いてくれる女性は、クリスが初めてだった。


「……ごめんなさい」


 クリスの呟く声に驚いて、ヴィートは伏せていた顔を上げた。

 彼女は唇を噛み締め、遠くを見つめていた。その目に涙はなかったが、吊り上げたまなじりが自己嫌悪に陥り、自分に憤りを覚える心中を表しているかのようだ。

「何を謝るんです? 昔話に付き合っていただいて、むしろ私は感謝していますよ」

「違うの」

 彼女の瞳がこちらを向いた。その瞳は微かに潤んで、深い悲しみを湛えているようにも見える。


「あなたを『人殺し』にしたのは私だわ」

「それは違うでしょう?」

 突拍子もない言葉に反射的に言い返したが、それでもクリスは首を横に振った。

「正確には私たち王族よ。ランバルド三軍の長は国王。たとえ侵略されて反撃するのであっても、あなた方兵士に人殺しの命令を出すのは王の仕事よ。そして私はそう遠くない将来、その王になる……」


 ようやく意図が飲み込めて、ヴィートは息をも呑んだ。


「あなたが罪を背負う必要なんてどこにもない。それは私たちの仕事よ。たとえそれが逃避であっても、あなたは命令を忠実に守り、この国を命がけで守った。あなたは悪魔でも罪人でもないわ。だからもう、そうやって自分を卑下するのはやめて……」

「殿下……」


 クリスの瞳から、新たな涙が零れ落ちる。

 綺麗だ──宝石のような涙だとヴィートは思った。ありきたりだが、そんな言葉しか思いつかなかった。無粋な慰めの言葉しか思いつかない自分を思い切り罵りたかった。


「……ならば殿下、これだけは覚えておいてください。私たちは王の命令一つで動く駒ではありますが、その駒にも意思が、感情があるのです。様々な想いや苦悩を抱えながら戦うのです。もし、王や殿下とその苦しみを少しでも分かち合うことができたのなら──それはこの国のために戦う兵士の救いとなることでしょう」


 クリスは静かにうなずいた。

 涙が光る大きな瞳には、もう憂いも悲しみも見えなかった。

 彼女は手にしたハンカチで涙を拭うと、晴れ渡った青空に輝く太陽のような眩しい笑顔を見せた。


「お話してくれてありがとう……あなたのおかげで、次期女王としての真の覚悟ができたような気がします」


 ヴィートをまっすぐに見据えて、凛と姿勢を正したその佇まいには後光すら差して見えるかのようだ。

 十八歳の少女としての可憐な顔と、次期女王としての威厳ある顔。

 華奢で細いこのクリスがこれから背負うもの──それはあまりにも大きく、過酷なものである。それを思うと、ヴィートもまた自然と背筋を伸ばし、彼女の決意の視線を真正面から受け止めた。


「あなたが命をかけて守ってくれたこのランバルドを、この大地を臣民を、これから先守っていくのは国王そして私たち王族の務め。あなたも兵士であると同時に一臣民です。これからは私が、命を懸けてあなたをお守りします」


 なんと強く神々しい──

 ヴィートは肌が粟立つのを感じた。もし立っていたのなら、間違いなく膝をついてひれ伏していただろう。

 穏やかに微笑みながら、揺るがない決意と覚悟を見せたクリス。

 その威厳に圧倒され、ヴィートは膝の上で握った拳が震えるのを抑えられなかった。

 クリスはおもむろに、テーブルの上に置かれていたベルを鳴らした。すぐさま飛んできた侍女に新しい紅茶を用意させる。

 カップに注がれる紅茶から、白い湯気が立ち上った。


「冷えてきましたね」

 クリスの言葉に外を見ると、また雪が降り出していた。もうすぐ冬本番、この庭園も直に雪景色に包まれるのだろう。

 熱い紅茶をすすると、身も心も温まりほぐれて行くような気がした。

「……ここは地上の楽園ですね。美しい庭園で美しい女性と語らう、ただそれだけで心が洗われるようです」

 ヴィートがそういうと、クリスは口元でカップを傾けていた手を止めて、おかしそうに笑った。


「本当にお上手ね」

「私はこう見えてもお世辞の下手な男でしてね。本当のことしか言えないんですよ。こんなにも穏やかで心安らぐ時間を過ごせたのは、パイロットになって初めてかもしれません」


 クリスに乞われる形で始まった昔語りだが、ヴィート自身、一つ一つ自分の記憶を整理して語るうち、不思議と気持ちまで整理できたような気がしていた。


「殿下をお相手に述懐することで、自分の中で戦争を過去のものにすることができたのだと思います。後ろをついてくる影にいつまでも怯えているのではなく、前を向き、地にしっかり足をつけて生きていくことが大事なのだと、ようやく気づきました。今の私にとって……空は逃げ帰る場所ではなく、自分が最も自分らしくあれる場所になったんだと思います」


 記憶と共に折り重なり、捩れ、複雑に絡まってしまった感情の糸──三度に渡りここに通い、時間をかけてゆっくりとそれを言葉に出すことで、その糸を一本ずつ丁寧にほどくことができた。だからこそきっと、今まで口に出すことをはばかってきた天使との邂逅を語る気になれたのだ。

 ヴィートの口元には自然と笑みが浮かんでいた。


「……あなたは本当にすごい人だ。王の資質というものがあるのなら、あなたは間違いなくそれを持っています。人々の心を開かせ、癒し、敬服させる力を……」


 ちょっとワガママで風変わりなお姫様──始めのうちはそう侮っていた部分もあった。話を聞いたぐらいで自分の何がわかる──と、憤りも感じていた。

 だが今は、彼女の力にただただ感服するばかりだ。

 クリスはこうなることを見越して、自分に昔語りをさせたのではないか──ヴィートはそんな気がしてならない。

 何か言いたげな彼女に気づかないふりをして、ヴィートは目に付いた鉢植えの花に歩み寄った。一輪の小ぶりな白いつぼみが真下を向いて、花開くその時を今か今かと待ち望んでいる。


「スノードロップ……もうすぐ咲きそうですね」

「え、ええ……春を告げる花だけど、ここに置いておくとさすがに開花が早いわね」

「殿下はご存知ですか? この花にまつわる伝説を」

 クリスが首を横に振るのを見て、ヴィートは続けた。


「かつてアダムとイヴがエデンの園を追われた際、雪が降りしきっていたそうです。永遠に続くような冬に、イヴは絶望し涙をこぼした……そんな彼女を慰めるために、天使が一片の雪に息を吹きかけ、この花を作り出したのだと言われています」

 まさに雪の雫がしたたるような、純白のつぼみ。もう少しすれば、美しく可憐な花を開かせるのだろう。

「花言葉は『希望』。私は思うのですよ──殿下こそがこの国の希望なのではないかと。今のランバルドはまさに永遠に続くかのような冬の時代。国全体が閉塞感に包まれる中で救いの光を見い出すならば、それはきっと殿下なのだと思います」


「──おだてないでくださる? 私はただの小娘よ」

 振り返ると、クリスは半分怒って半分照れたように、こちらを軽く睨みつけていた。

「殿下がただの小娘だと言うのなら、世の中の全ての女性は……それこそ人形ですよ」

「そんな調子のいいこと言ってたら、ご婦人たちに嫌われてしまうわよ」


 クリスは怒ったように目を吊り上げたが、その視線から逃れるようにヴィートはまた庭園に目をやった。

 今はその漆黒の瞳が、怖い。

 胸の内に生まれつつある、言葉にできない何かを見透かされそうな、そんな恐怖。

 いや、言葉にするのはもっと恐ろしい。その正体を確かめるのさえ怖くて、目をそらしたくなる。それなのに、それは少しずつ、少しずつ大きくなり──


 庭園を白く彩る雪はじき根雪となり、この宮殿を、ランバルドの大地を覆いつくすだろう。

 冬はこの国が最も美しくなる季節だと、ヴィートはつくづく思う。

 山々を覆う常緑樹の濃い緑と雪の白。遠く濃紺の海が見えた空からの景色は、ランバルドの国旗そのものだった。


 今、この国を守ろうと強く決意する王女を前にして思う。

 空から見たあの美しい情景を、いつか彼女にも見せてあげたい。そのためなら、この大地を守るためなら……

 冬戦争のさなかでなくし、見つけられなかった己の戦う理由。

 彼女が放つ希望の光の中に、それはきっとある。

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