「陛下!」 

 息を切らして執務室に飛び込んできた若い武官を、クリスは静かに振り返った。窓際に立つその頬は落日に染められて、美しい顔に物憂げな影を作り出している。

 武官は直立不動の体勢を取ると、手にしていた書類を読み上げた。


「陸軍からの報告です! 戦線は旧国境線に到達。ヴォルガ軍はそのまま領内に退却した模様! ヴァレーゼを完全に掌握したとのことです! また、ヴォルガの首都で一部兵士によるクーデターが発生したそうです。同調した市民を巻き込んでのデモ隊が皇宮に押し掛け、首都は大混乱に陥っていると……」

「そう……」


 クリスは穏やかに微笑んだ。

 事態を収拾するため、ヴォルガ政府は皇帝イヴァンを退位させるであろう。すでにこちらから打診している講和条約も飲まざるをえまい。

 もはや皇帝の求心力は無きに等しい。帝国は遠からず崩壊し、共和制へ移行する道程を辿ることになるだろう。

 戦争は確実に終結に向かっている。だが、手放しで喜べる状況ではなかった。こちらとて無傷というわけにはいかず、ヴォルガほどではなくとも、その半分ほどの戦死者は確かに出ているのだ。それを思うとうれしい反面、胸も痛む。晴れやかな空を覆う暗雲のように、クリスの心にも暗い影を落としていた。

 武官は深々と一礼すると、またバタバタと部屋を出て行った。入れ替わりにエレナが入ってくる。

 気を取り直して、クリスは笑顔を向けた。


「あら、もうお茶の時間?」

 浮かない顔のエレナはクリスに近づくと、顔を近付けて、ささやくように言った。

「今、連絡が入りまして……エヴァンジェリスティ大尉が行方不明になったそうです」

 クリスの顔が一瞬こわばる。だがすぐに一笑に付した。

「……いつものことじゃない。今までにも何度かあったでしょ?」

「いえ、それが……行方不明になってもう一週間も経つと……」


 身体が震えた。

 それでもクリスは表情を変えず、窓の向こう、鮮やかなグラデーションを描く春の夕空をじっと見上げていた。

 エレナはなおも続ける。


「ヴォルガの空襲部隊との戦闘中に撃墜されたそうですよ。大尉は脱出したらしいですが、付近の山林で血のついたパラシュートは発見できたものの、大尉の姿はなかったと……現在も捜索を続けてるとのことですが……」

「彼は必ず帰ってくるわ」

 クリスはきっぱりと言った。

 その瞳は夕陽に煌いて、強い光を放っている。

「だって、約束したんだもの……」


 窓の外はもうすっかり春の様相だ。寒々しかった木々の枝では、辛い冬を耐えたつぼみが春を謳歌するように美しい花を開かせている。冬の眠りから目覚めた大地にも命の誕生を思わせる春の花々がいっせいに咲き誇り、白一色だったランバルドは一気に鮮やかな色彩に包まれるだろう。

 だが、今この胸に咲くのは、あのスノードロップの可憐な花だ。

 いつもここに、希望はある。愛の証はここにあるのだ。







『……この戦争で、ランバルドは深く傷つきました。たとえ真の自由を勝ち取るための戦いだったとはいえ、皆さんに苦しみを背負わせてしまったことを、女王として大変心苦しく思っています。

 ですが戦争は終わりました。これからランバルドは生まれ変わるのです。私たち王室と、新政府と、そして国民の皆さんが一つとなり、それぞれの手で新しいランバルドを作っていきましょう』 

 王宮前広場に集まった大観衆から歓声と拍手が巻き起こった。段上で演説を終えたクリスは、観衆を見渡し、鳴り止まぬ拍手に笑顔で答えた。

 花曇りの午後。雲に覆われた太陽は、人々の上に柔らかな光を落としている。だが春のうららかな陽気とは裏腹に、民衆は熱気に包まれていた。長きに渡るヴォルガの支配から逃れ、ようやく手にした真の独立に皆沸き立っているのだ。


 戦争は終わった。

 だが──彼は、いない。

 彼がここにいてくれたら──どんなにうれしかったことだろう。

 行方不明になって一ヶ月。四方手を尽くして探したが、その消息はようとして掴めなかった。軍も新聞各紙も、もはや彼の生存を絶望視している。

 それでもクリスはまだ、ヴィートの帰還を信じていた。

 周囲はそんな自分を憐れもうとする。彼の死を信じたくないだけだと。


 だが約束したのだ。

 必ず、帰ると。「またいつか一緒に空を飛びたい」と願ったのだから。

 側近がクリスに退出を促した。この後には新首相のスピーチがあり、軍の戦勝パレードもある。

 クリスは観衆に手を振りながら背を向けた。勝利の余韻にひたってばかりもいられない。これからまた、戦争の後処理という重要な課題が待っているのだ。


 ふと──微かにプロペラの音が聞こえたような気がした。空を見上げたが、飛行機の影は見えない。上空警戒任務の機だろうか。

 後ろを振り返って、クリスは目を見張った。雲の切れ間からまっすぐに降る一筋の光。大地を暖かく照らす光は……天使の階段だ。眩しさに目を細めながら、太陽を見上げる。


 ふと、止まっていたクリスの足が、一歩動き出した。二歩、三歩と足が前に進む。側近が異変に気がついた時にはすでに、クリスは階段を駆け下りていた。

 広場の民衆に向かって走り出す。だがその視線は空を見上げたまま、周囲を気にしようともしない。むしろ民衆の方が急に駆け寄ってきた女王の姿に驚き、人垣が二つに割れ、クリスの前に道を作った。

 何事が起こったのかわからなかった側近や民衆も、ようやく空の異変に気がついたようだ。


 天使の階段から降り注ぐ陽光の中に、何かが見えた。初めは黒い物体としかわからなかった点が、徐々に大きくなってくるに連れ、それがパラシュートを背負った人影だと認識できた。パラシュートに描かれた白と濃緑と藍色の同心円はランバルド空軍の証。その下にぶら下がる人間も、飛行服を着た空軍の兵士だ。

 彼──飛行帽にゴーグルをした姿では男か女かわからないが、女王のただならぬ様子に誰もが『彼』と確信しただろう。

 クリスは広場の中央で足を止めた。遠巻きに見つめる民衆の視線を一身に浴びながら、天使の階段を駆け降りてくる彼だけをじっと見上げている。彼の右太ももに巻かれた白い包帯が痛々しかった。

 陽光を背にした人影は加速度的に大きくなる。姿かたちが、口元の表情さえハッキリとわかるほどに。

 クリスは空に向かって両手を広げた。涙をこぼしながら、それでも笑みを浮かべて。そして──クリスは叫んだ。


「──ヴィート!」


 まっすぐに堕ちてくる彼の身体を、全身で受け止めた。

 勢いあまってしりもちをついてしまったが、それでも彼を抱きしめた腕だけは絶対に離さなかった。

 彼は──帰ってきたのだ。

 地べたに座り込んだまま、無我夢中で彼にしがみつく。恥も外聞もなかった。彼もまたクリスの身体を強く抱きしめ、そして耳元でささやいた。


「ただいま……戻りました、陛下」

 優しいテノールの声。久方ぶりに聞く彼の声は、心も身体をも震わせる。

 この腕の中の大きな身体は、夢でも幻でもない。彼は生きて、帰ってきたのだ。


「……おかえりなさい、ヴィート」

 涙声でクリスは答えた。それ以上は、言葉になりそうになかった。


 周囲からポツポツと拍手が贈られる。それは次第に波のように広がり、やがて歓声を伴って祝福の大きなうねりへと変わった。英雄の帰還は、それ以上の喜びを民衆に与えたようだ。


 二人の上に、柔らかな春の日差しが降り注ぐ。

 天使の階段を駆け下りてきた『悪魔』は、女王の胸に抱かれて──今ようやく戻るべき場所にたどり着いたのだった。

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