機銃が唸り声を上げて咆哮する。

 急旋回で圧し掛かる重力に、身体のあちこちが捻じ切られそうだ。

 高速で飛び去る敵機の中に人影が見えたが、機銃の発射レバーを握る手は躊躇を知らない。毎分五百発の速さで撃ち出される十三ミリの弾丸が、敵機を貫き、鋼鉄の機体を切り裂いた。機体から伝わる振動が心までも震わせ、湧き上がる何かを消し去っていく。

 赤と黄色の国籍マークをつけたヴォルガ軍機が、黒煙を上げて堕ちていった。それを見届けて、ヴィートはようやく全身の力を抜いた。


 他の敵機は早々に退散したようだ。

 残されたのは、幾筋もの螺旋を描いて走る飛行機雲と、その向こう側に広がる青い空だけ。

 今日もまた生き残った──ドッグファイトが終わり、空に静けさが戻ってきたこの瞬間。今この時に、生きていることを一番実感する。

 ただ穏やかに回り続けるエンジンとプロペラの音が心地よい。緊張を強いられていた心と身体が少しずつほぐれていく気がする。

 どこまでも美しいこの大空を、このままずっと飛んでいたい──狭いコクピットで目を閉じ、想いを空に溶かそうとした瞬間。


『おい、ヴィート! 大丈夫か!』


 無線機がけたたましくがなり声を上げた。

 僚機のニーノだ。自慢のダミ声がノイズだらけの無線機のせいで余計に汚く聴こえる。あまりの煩さにヴィートは目を開けた。


「大丈夫だって。ちょっとかすっただけだよ」

『何がちょっとだよ。尾翼ふっとんでるじゃねえか』

「そうか? でも今飛んでるからきっと大丈夫だろ」


 ヴォルガ軍機に撃ち込まれた機銃で、目の前の風防ガラスにはいくつも穴が開きひびが入っている。ドッグファイトに夢中になるあまり、凍てつくような冷たい風が顔に吹き付けていたことにも気づいていなかった。身体に傷がついていないのが不思議なくらいだ。


『まったく、呑気な奴だな。これでエースだって言うんだから信じられんよ。今日は何機喰ったんだ?』

「えーと……三機か? 地上のはよく覚えてない」

『今日もお前の一人勝ちかよ!』


 ニーノの機体が左前方に見えてきた。コクピットに座る彼の姿もよく見える。ごつい顔が飛行帽とゴーグルで覆われて、ますます大きく見える。

 彼の機体もヴィートに負けず劣らず穴だらけになっていた。


「そういやジャンは?」

『奴なら……堕ちたよ。脱出もできなかったみたいだ』

「そうか……」


 今朝、言葉を交わしたはずの仲間が、今はもういない。だが涙は出なかった。戦争が始まって一ヶ月、仲間が次々と死んでいくことにも慣れてしまった。

 開戦以来、この国境付近の制空権を巡り、毎日のように空戦を繰り広げている。ヴォルガの電撃的な侵攻で当初は押され気味だったが、ここ最近は何とか制空権を確保していた。


「ここ、いつまで持つかな」

『さあな。けど時間の問題だろうな』


 周辺国はこの戦争に手も口も出さないというスタンスらしい。援軍が来ないと知って、物量で勝るヴォルガは徐々に気勢を揚げつつある。ニーノの言う通り、制空権が再び奪われる日も遠くないかもしれない。

 生き残った機が集結し、次々と基地に戻っていく。ヴィートとニーノの機もそれに続いた。

 白雪を頂いてそびえ立つ山々を横目に、その谷間を縫うように飛行する。程なく、正面に灰色の直線が見えてきた。ヴィートたちのホームベース、ブレッシャ基地の滑走路だ。

 地上管制に従って、続々と着陸する。ヴィートはニーノの後だ。彼が無事着陸したのを確認してから、自らも着陸態勢に入る。

 車輪を下ろし、操縦桿を細かく動かして滑走路に機体を下ろしていく。あと少し……


 機体が──ガクンと沈んだ。


 重力が一瞬なくなり、それから機体ごと身体が地面に叩きつけられたような感覚。衝撃で車輪が折れたのがわかる。

 胴体着陸──まずい。まだ燃料が残っている。

 轟音と激しい振動の中、ヴィートは無意識のうちにシートベルトを外していた。あれこれもがいている暇はない……このままでは爆発する。

 火花を散らして地面を滑る機体から飛び出そうと、ヴィートはキャノピーを開け立ち上がった。コクピットの縁に足をかけ、主翼の上に飛び降りようとした次の瞬間──

 爆音と共に火柱が立ち上った。

「爆発したぞ!」

 爆風もろともヴィートの身体は宙に投げ出され、そして硬い滑走路に叩きつけられる。

 雪原地帯に似せかけた白のカモフラージュ塗装に、機首に描かれたユニコーンのマーク。自分専用の機体が炎に包まれていく様を、ヴィートは朦朧とした意識の中で眺めていた。

「消火部隊急げ! 奴は無事か?」

 仲間たちがぐったりしているヴィートを引きずって担架に乗せる。入れ替わるようにホースを抱えた男たちが消火に向かっていった。






「まったくよお……お前の身体は一体どうなってんのかね」


 ベッドの上で身体を起こすヴィートの横で、ニーノは呆れ顔だった。

「大きなケガはなかったものの、身体中やけどに擦り傷、打撲だらけ……なのに」

 ヴィートは何も言わず、涼しい顔で微笑んでいる。ニーノは厳つい顔を引きつらせて、彼の胸倉を掴んだ。

「なんで……その胸糞悪い顔には傷一つつかねえんだよ!」


 あれだけの事故に巻き込まれながら、ヴィートの顔面はなぜか無傷だった。しかも今回だけの話ではない。今まで幾度となく被弾や墜落を起こしながら、首から下は満身創痍となってもその顔だけは絶対に傷つかないのだ。


「神の思し召しって奴だな。この顔に傷をつけるのは忍びないと、神様が守ってくれてるんだよ」

「けっ」

 そっぽを向いたニーノの反対側では、数人の女性たちがベッドに寄り添っている。看護婦や女性下士官が甲斐甲斐しくヴィートの世話を焼いているのだ。


「いいご身分だなぁ、おい」

「うらやましいか?」

「別に。うらやましくなんかねぇよ」

「この間紹介してやった娘とはうまくいってるのか?」

「ふふん……聞いて驚くな。次のデートでプロポーズだ」


 武骨者で女性にはからきし弱いと思っていたニーノだが、意外に押しが強い部分もあったらしい。もうプロポーズとは、紹介してやった甲斐があるというものだ。

 彼とは開戦前から、部隊配属以来の同僚だが、よく凸凹コンビと揶揄されている。

 ヴィートは毛布をはがしてベッドを降りた。


「起きていいのか?」

「大したケガじゃないさ。寝てるのにも飽きたしな」


 女性達に礼を言い、二人は医務室を出て基地の屋上に向かった。

 外はすっかり日も暮れ、空には冬の星座が輝いている。今夜も冷え込みが厳しい。ニーノは寒さに震えてジャケットのボアの襟を立て、煙草に火をつけながら言った。

「お前、いよいよ中尉に昇進だってな」

 紫煙が白い息と共に吐き出される。

 ヴィートは夜空に燦然と輝く北極星を見上げていた。


「そうらしいな」

「そうらしいって……うれしくないのか?」

「オレは空を飛べれば何だっていいよ」

 ニーノが笑った。

「お前ってつくづく変な奴だよな。とぼけたツラしやがって、とても『悪魔』なんかにゃ見えねーよ」

「悪魔? なんだそれ」

「ヴォルガの奴らが、お前のことそう呼んでるらしいぜ。『白い悪魔』だとよ」

「そりゃいいあだ名だ」

「向こうにとっちゃ悪魔でも、こっちでは英雄さ。通算二十機越えたんだろ? 国王陛下から勲章もらえる日も近いな」

「ああ……」

 ヴィートは気のない返事をした。

 昇進も勲章も、別にどうでも良かった。自分にとっては空を飛べることが一番の喜びなのだから。


「なあヴィート……お前、なんで戦ってるんだ?」

 落ち着いたニーノの声に視線を向けると、彼は心配そうな目でこちらを見ていた。


「時々──お前が怖くなるよ。無茶苦茶に突っ込んでいっては、並居る相手を次々と木っ端微塵にして、そして自分も傷だらけになって帰ってくる……そのくせ『自分は絶対に死なない』みたいな呑気な顔してよ。なんかさ……顔が傷つかない代わりに、お前の中で何かが壊れてるんじゃないかって」

「お前こそ、そんな大層なこと言えるツラじゃないだろ」


 鼻で笑ったが、ニーノの憂い顔は変わらない。

「お前……なんで戦ってるんだ?」

 真顔で同じ質問を繰り返す。


「さあ……な。オレもよくわからんよ」


 そう言ってヴィートはまた夜空を見上げた。ニーノの手元でくゆる紫煙が、墨色の空にゆっくりと溶

けていく。

 今は、親友の真摯な瞳から逃げ出したかった。






 戦う理由──この戦争の中にあって、確固たる理由を持つ人間が一体どれだけいるのだろうか。


 確かに、空軍パイロットになった頃にはあったかもしれない。人並みにこの国を守るんだという使命感を抱いていた。

 だが戦争が始まり、実弾の飛び交う戦場に否応なしに放り込まれて、生き残ることに必死になるうちに、そんなものはどこかに置き忘れてしまった気がする。


 初めて敵機を撃墜したのは、開戦から二度目の出撃だった。

 無我夢中のうちに機銃を撃ち出し、気がつけば敵機が火を噴いていた。燃え盛る炎に包まれながら、崩れ堕ちていく敵機の姿を今でも鮮明に思い出せる。

 戦争が始まって早一ヵ月。初戦果に心震わせたあの日が遠い昔のようだ。

 あっという間に五機を超えて「エース」と呼ばれるようになり、気がつけば撃墜数は二十機を超えていた。ランバルド空軍の中では断然トップで、日々ハイスコアを塗り替えているらしい。実感がわかないのは、自分で撃墜数をカウントすることをやめているからだろう。


 特別空戦の才能があるとは思わない。

 ただ、人より恐怖に対する感覚が鈍いとは思う。だからこそ誰よりも深く突っ込めるし、敵機の機銃掃射を受けても怯まない。

 死ぬことが怖いわけではなく、自分が死ぬとは思えないのだ。

 実際、撃墜されたり戦闘機の故障で墜落したりで、死に直面することも何度かあった。それでも自分は今生きている。


 死ぬこととは、どういうことなのだろうか。

 生きて帰るたびに、それを強く思う。それを考えること、考えられることが生きていることなら──死とは?


 皮肉なものだ、といつも自嘲する。名も知らぬ誰かを殺しておきながら、自分はこうしてのうのうと思索にふけっている。

 自分は人殺しをしているのだ。ヴォルガのパイロットに死を与えているのだ。

 戦闘機のコクピットに座り、機銃レバーを握りこむ──ただそれだけで、簡単に死を与えられてしまう。

 無残な死体を目にすることもなく、断末魔の悲鳴を聞くこともない。空の澄明な青に包まれながら、堕ちていく敵機を見下ろすだけだ。

 人殺しの自覚がないまま、今日も空へと上がり、誰かを落とす。

 自覚なんてしたくなかった。すれば、もう二度と空を飛ぶことができなくなりそうで怖かった。

 戦う理由がもし残っていたとすれば──それは積み重なる罪悪感を忘れるためだったのかもしれない。







 戦争も中盤に差し掛かる頃には、ヴォルガ軍はさらに攻勢を強め、前線はランバルドの奥へ奥へと後退し始めていた。地上部隊には焦りの色が見え始め、ヴィートたち空軍部隊にも毎日のように近接航空支援の要請が入っていた。

 異例とも言える速さで中尉に昇進したヴィートだったが、その日々に大きな変化はない。いつもどおり出撃して敵機を撃墜し、敵車両を撃破して、そして基地に帰ってくるという毎日。変わったことといえば基地が移動したことと、少しずつ入れ替わっていく仲間たちぐらいだ。

 相変わらずニーノとのコンビは続いていて、息のあったところを見せている。

 この間は機銃を食らって敵陣後方の農地に不時着したニーノを助けるため、ヴィートも着陸したのだが、ニーノを回収していざ離陸という時にエンジンが故障し、前線の味方基地までの三十キロを踏破するハメになってしまった。

 それでも追っ手を撒き、冷たい川を泳いで、自慢の顔で農村にいた若い娘に近づいて食糧を分けてもらい、二人は何とか基地まで到達した。基地は帰ってこない二人が死んだと思いこみ意気消沈していたが、ボロボロになりながらも帰還した二人の姿に驚き、狂喜乱舞したのだった。

 婚約者に泣いてすがられ、なだめすかすのに必死なニーノ。はにかみながらも生きて戻れたことの喜びを噛み締める彼がヴィートにはまぶしくもあり、うらやましくもあった。

 戦争が終わったら彼女と結婚式を挙げるのだと、ニーノは少し恥ずかしげに、しかしながら誇らしげに語った。

 だからとっととヴォルガ軍を殲滅して、さっさと戦争を終わらせるんだ──そう言って、傷だらけになってますます厳つくなった顔を引き締める。彼女のためにもと地上勤務を勧めたが、ニーノは頑として戦闘機パイロットにこだわった。


 もしかしたら、ニーノも自分と同じような想いを抱えていたのかもしれない。

 これだけの人殺しをしてきて、今更一人地上へ逃げ込むことなどできるのか、と。

 戦い続けて、戦争を終わらせる以外の逃げ道など、自分たちにはなかったのだ。

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