霜月

 灰色の雲が空を覆いつくしている。この冷え込みでは、いつ雪が降り出してもおかしくない。

 クリスはコンサバトリーのガラス越しに空を眺めて嘆息した。雪は嫌いではないが、今日はあまり降って欲しくない。

 このコンサバトリーは宮殿から庭園に突き出す形で作られている。そもそもは温室として作られたもので、白を基調とした全面ガラス張りの建物だ。あまり広さはないが、天気の悪い日でも眼前に広がる庭園を楽しむことができるので、クリスはよくここでお茶を飲む。

 約束の三時まであと十分。だが無情にも、見上げた空から白いものが一つ二つ、ふわりふわりと落ちてきた。

 あっという間に、庭園の景色が綿雪の水玉模様に彩られる。まだ積もるほどではないが、それでも庭園の木々がうっすらと白く染められては融けて地面を濡らしていく。

 曇りガラスを指で拭いて外を眺めては、ため息を漏らす。今日はもう外を散歩することはできないだろう。


「クリス様、ご到着されましたよ」


 エレナの声で、クリスは我に帰った。気がつくと、後ろでエレナがニヤニヤしながら立っている。恰幅がよく気立てのいい母親みたいなエレナであるが、いつもと違いどこかそわそわしていたクリスの様子に何か感じるものがあるようだ。

「そ、そう……」

 好奇の視線を避けながら、クリスはエントランスへと向かった。

 ちょうどドアが開けられ、客人が入ってきたところだ。


「ようこそ。寒かったでしょう」

「お言葉に甘えてお招きにあずかりました。先日のドレス姿もよかったですが、今日のワインレッドのワンピースもよくお似合いですね」


 今日も眩いばかりの笑顔を振りまいて、ヴィート・エヴァンジェリスティ大尉は敬礼を捧げた。今日は濃紺色の常装──つまりは普通の制服姿で、手にコートを携えている。

 聞けば彼は二十八歳なのだそうだ。精悍な中にわずかな青さを残す顔つきはそれよりも若く見えるし、ランバルドの守り神と聞けばもっと年上かと思ってしまう。全くもって、不思議な雰囲気の男だ。


「殿下、これをどうぞ」

 ヴィートは後ろ手に持っていたものを差し出した。真っ赤なバラの花束だ。

「まあ……ありがとう」

「女性に会うのに手ぶらというわけには行きませんからね」


 彼の抜かりのなさというか、そつのなさには舌を巻くしかない。

 クリスはヴィートをコンサバトリーに案内した。

「ほう……これは素晴らしい……」

 入るなり、ヴィートは感嘆した。

 コンサバトリーの中でポインセチアやシクラメン、デンドロビウムやカトレアなどのランの花が色鮮やかに咲き乱れていたからだ。


「こんな素晴らしい部屋もあったんですね。まるで秘密の花園ですな」

「今日みたいな天気の日はここが一番よ。さ、掛けて」

 ヴィートに椅子を勧めて、クリスも腰掛けた。すぐさまアフタヌーンティーの支度が始められる。

「こちらからお誘いしておいてなんですけど、お仕事は大丈夫なの?」

「仕事といっても、日がな一日書類を睨みつけてるだけですからね。同僚にうらやましがられましたよ。もっとも、殿下のお招きにあずかったと言ったら『ついに殿下にまで手を出したのか』と怒られましたが」

「嫌だわ。私そんなつもりじゃないのに……」

「殿下は『ランバルドの宝石』、いわばこの国の宝です。いくら不死身の種馬といえども、恐れ多くてそんなことできませんよ」


 そう言って彼は笑ったが、目は至って真面目だ。テーブルの向こう側に座るヴィートを少し遠くに感じる。

 アフタヌーンティーの準備が終わり、エレナと侍女たちは下がっていった。

 コンサバトリーの中に二人、取り残されて静寂に包まれる。

「どうぞ、召し上がって」

 二人はそれぞれのカップを手に取り、紅茶を堪能した。

 外は綿雪から細雪に変わっている。カップから立ち上る湯気が、逆に外のきつい寒さを知らしめる。

 クリスはカップを置き、身を乗り出した。


「……ね、『不死身の悪魔』の話を聞かせてくれない?」


 ヴィートはカップに口をつけたまま、動きを止めた。

 目を伏せ、一呼吸おいて紅茶を口に含む。口角を上げてはいるが、どこか思案顔である。

「……あまり話したくないって顔ね。ごめんなさい」

 思わぬ反応に、クリスは場を取り繕うように言った。

「いえ……戦争の話などつまらないものですから、殿下にお聞かせするにはいかがなものかと考えていたのですよ」

 ヴィートはそう言うが、カップを持つ彼の手が微かに震えているのをクリスは見逃さなかった。ソーサーに置いたカップの中で、紅茶の水面に細かい波紋が広がっている。


「無理には聞かないわ。ただ……興味本位というわけじゃないのよ。五年前ですもの、私だって記憶はあるわ。でもその当時まだ幼かった私は、一人他国に疎開させられていたの。父や母は王宮に残って、最後までヴォルガ軍と戦うつもりだったのに、私は一人安寧の地でランバルドの勝利を祈ることしかできなかった……」


 疎開という判断は、王室の存亡を考えれば当然のものだったと理解はできる。

 だがたった一人、異国の縁者を頼っての疎開生活は、まだ十三歳だったクリスには寂しくもあり辛くもあり、何よりも一人除け者にされたという想いが強かった。

 クリスとてランバルドの民。国民を総動員しての戦いの中、王位継承権第一位の自分が異国で安穏と過ごし、戦争を傍観する立場にいたことを歯痒く思っていたのだ。


「私はこの目で戦争を見ていない──遠い将来、私はこの国の女王になるわ。この国の象徴となる人間が、冬戦争を何も理解してないなんて、そんなことにはなりたくないの。資料で見るのではなく、前線で戦ったあなたの言葉で、冬戦争のことを知りたい。あの戦争が過去の遺物になる前に、思い出の彼方へ行ってしまう前に……」


 とつとつと語るクリスの、その真意を探るようにヴィートの瞳がじっと見つめていた。

 光を帯びた藍色の瞳は宵月のように澄んで、クリスの姿を明瞭に映し出す。だがその奥底に見え隠れする暗然とした何かが、視線ごとクリスを引きずり込もうと蠢いている。

 怖い──でも知りたい。それが何なのか──

 先に視線を外したのはヴィートだった。


「本当に──つまらない、面白くも何ともない話ですよ。人は私を英雄と呼びますが、私には英雄と呼ばれる資格などないのです。私は文字通りの『悪魔』なんですから」


 横を向いたヴィートは、そこにいる誰かに話しかけているようだった。自嘲気味に頬を歪めた顔は、自らを英雄と褒め称える人々をあざ笑うかにも見える。

 だが、心配そうに見つめるクリスにいつもの優しい微笑を投げかけると、彼は背筋を伸ばし姿勢を正した。


「そんな私の話でもよろしければ、聞かせて差し上げましょう。大恩ある殿下のお役に少しでも立てるのなら」

「……感謝しますわ」


 ヴィートは大きくうなずくと、切れ長の瞳を閉じた。

 深く深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。それはまるで何かの儀式のよう──

 真っ暗な闇の中で、ヴィートの意識は雪に覆われたランバルドの国境付近上空を飛んでいた。

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