「……誰もいない?」

「大丈夫ですよ」


 柱の陰に隠れていたクリスは、エヴァンジェリスティに促されて姿を現した。忍び足で薄暗い回廊を渡り、外に飛び出す。

 そこは王宮の裏庭だった。敷石を避け、靴音を消してくれる枯れた芝生の上を歩く。見上げれば澄んだ夜空に月はなく、無数の星だけがその存在を主張して瞬いていた。


「本当によろしいので? 殿下がいなくなったとわかれば騒ぎになりますよ」

 彼は困ったように微笑んでいたが、クリスはキッパリと言った。

「いいのよ。私がいなくなったって何の支障もないわ。それに晩餐会の主役はお役人たちなんだし」


 王室主催の舞踏晩餐会とはいえ、ほとんど政治の一環のようなものだ。華やかな雰囲気の裏で政治家たちの権謀術数渦巻く駆け引きが行われていることは、先ほどのカルダノを見れば一目瞭然である。


「彼らにとって、王室はあくまでお飾り。でもお飾りにはお飾りなりの矜持ってものがあるでしょ?」

「それが舞踏会からの逃亡ですか?」

「……わがままかしら?」

 エヴァンジェリスティを振り返ると、彼は首を横に振った。

「わがままは女性の特権ですよ。男にはそのわがままに付き合う義務があるのです」

「ありがとう……あなたにそう言ってもらえると、少しは救われるわ」


 舞踏会のざわめきが遠く彼方に聴こえる。

 夜の裏庭には灯りもなく、月もない今夜は部屋の窓から漏れてくる淡い光だけが頼りだ。夜が更けて一段と冷え込んだ空気に、クリスはむき出しの肩を抱いて震えた。

「殿下、これをどうぞ」

 エヴァンジェリスティは自分のジャケットを脱ぎ、クリスの肩にかけた。

 ふわりと香る香水の中に、微かに混じる彼自身の匂い。胸がドキリとする。


「ありがとう。でもあなたは寒くないの?」

「これでも一応軍人ですから」

「……あなたって不思議ね」


 素直にそう思った。

 白いシャツにボウタイ、ウエストコート姿となった彼はますます軍人には見えない。立ち居振る舞いは洗練されていて、どこぞの貴族だと名乗っても不思議はないだろう。

 けれど、時折見える瞳の中の鋭い光は、彼が数々の死線を潜り抜けた『不死身の悪魔』であることを思い出させる。


「そうですか? 私は殿下の方が不思議なお方だと思いましたが」

 そう返されて、クリスは驚いてエヴァンジェリスティを見た。

「私? 私は何のとりえもないただの王女、お飾りの人形よ」

「私も実際にお会いするまではそう思ってましたがね」

 彼は含み笑いを浮かべた。


「空から降ってきた闖入者にお茶を出したり、ワルツを踊りながらどぎついジョークを言ってみたり。果てには舞踏会から逃げ出してしまったり、実に生き生きとして人間味に富んでいる──そうかと思いきや、気高き威厳を持って大臣を叱り付けたり、陛下の横に立つお姿は神々しく眩しいくらいでした。どれが殿下の本当のお姿なのでしょうか……けれど少なくとも、今目の前に立っていらっしゃる殿下は飾り物の人形などではありませんよ」

「それは褒め言葉として受け取っていいのかしら?」

「もちろんですよ」


 クリスは微笑んで見せたが、夜空を見上げて白いため息を漏らした。

「でもやっぱり私は人形なのよ。自分では何にもできない、飾り物のお人形さん……情けなくって悔しい……」

 かすれるような呟き声は、白い息と共に夜の空気に溶けていく。

 遠くから聞こえていた楽団の音楽が途切れ、一瞬の静寂が訪れる。その間隙をつくように、エヴァンジェリスティの声が響いた。


「……何かあったんですか?」


 察しのいい男だ──とクリスは思った。そうでもなければ女性の人気を集めることはできないかもしれない。けれど今はそれがありがたかった。

 クリスは花壇の前にしゃがみこんだ。一輪だけ咲いていたコスモスの花が目の前で寂しそうに揺れている。その花に手を差し伸べ、語りかけるようにクリスは口を開いた。


「縁談の話が来てるの──相手はヴォルガ皇帝イヴァン三世の甥に当たるベルンハルト皇子ですって。いずれこういう日が来るとは思ってたけど……実際に来てみると、ね」

「ショックでしたか」

「ショックっていうか……私なんてまだまだ未熟者で、やっと大人への入り口に立てたかなって思ってたくらいなのに、それが急に結婚だなんて、何だか実感がわかないのよ」


 降ってわいた話ではなく、実は前々からそういう話はあった。だが正式に話を出されて、クリスは自分の意思とは関係なく大人の仲間入りをしていたことを否応なしに痛感させられた。


「あまり乗り気ではないようですね」

「乗り気じゃなくても、私には断る権利はないのよ。向こう側の強い要望みたいで……万が一断れば何されることか……最悪また戦争ってことになるでしょうね」


 そもそもこの話は父ではなく、政府親ヴォルガ派から出されたのだ。あのカルダノは特にこの縁談を強く推している。

 いまだに国内での独立戦争をいくつも抱え込んでいる軍事大国ヴォルガ。

 冬戦争では痛みわけに終わったが、現実として宗主国的なヴォルガの皇子と姻戚関係を結び、良好な関係を保っておくことが、このランバルドの確かな存続の道だと彼ら政治家はクリスに説いた。だがそこに綺麗事だけでは済まされない彼らの様々な思惑が渦巻いていることもクリスは知っている。


「結婚するのはいいのよ。王族の女には血統を残していくという大事な仕事があるのだし、そのためには誰であろうと伴侶が必要だもの。でも……でもね」

 クリスはコスモスの花を手折り、立ち上がった。その頬はコスモスの花びらと同じほのかなピンク色に染まっている。


「欲を言えば……好きな人と結婚したかったなあって。ううん……それ以前に、私、ちゃんとした恋をしたかった。自分じゃない誰かを本気で好きになるってどんなことなのか知りたかった……」


 王女に生まれ、次期女王の地位にある自分にそれは赦されない事なのかも知れない。だが人に生まれ、女に生まれて、それを望むのは必然なのではないかとも思う。

 けれども、自分は臆病者だ──

 王宮の喧騒を避けて一人冬宮殿に閉じこもり、『白馬の王子様』が向こうからやってくるのを待つばかりだった。

 傷つくのがイヤで自ら逃げ出しておきながら、魅力的な男性に巡り会えなかったことを不運のせいにして、ここで待っていればいつか会えると都合のいいことばかり考えている。そんな自分の浅はかさを今更恥じたところでもう遅い。

 穏やかな日々に終わりを告げる婚礼の鐘が、もうすぐ鳴ろうとしている。


「できますよ、恋。いつだってできますよ」


 急にそう言われて、クリスは驚いて振り返った。

 声の主はポケットに片手を突っ込んで、夜空を見上げている。事も無げな言い方に、クリスはムッとして言い返した。


「そんなことできるわけないじゃない。私結婚するのよ? 夫がいるのにそんな……他の男性に……」

 こちらを向いたエヴァンジェリスティは、クリスの正論をあざ笑うかのように片頬を歪めていた。

「殿下──恋はしようと思ってするものではなく、気がついたら落ちてるものなんですよ。恋はいつでもどこでも、どんな時でもできるんです……いくつになっても、たとえ伴侶がいてもね」


 クリスはあっけに取られた。

 開いた口が塞がらなかったのは、呆れたのではなく、彼の言葉が圧倒的な説得力を持っていたからだ。


「結婚したからといって、恋ができないわけではない……殿下はこれを不貞とお嘆きになるかもわかりませんがね。自分の心を偽ることとどちらが罪かと問われれば、私は後者だと信じたい」


 クリスは彼の顔をしげしげと眺め、話に聞き入っていた。

 倫理に背くことはよくわかっている。けれど、自信たっぷりに語る彼の言葉を聴いていると、石を飲み込んだように重かった胸の内が、すうっと軽くなっていくような気がした。


「ものすごく納得させられてしまうのはなぜかしら……」

「お褒めにあずかり光栄です」


 エヴァンジェリスティはおどけたが、自由な恋愛を享受しているであろう彼の言葉だからこそ、心に響くものがあったに違いない。


「自分の心を偽る……か。本当はね、愛のない結婚なんかしたくないって大声で叫びたかったの。でも王女として、そんな自分勝手なことはできない。ましてやランバルドがこんな状況にあって、結婚相手に注文つけるような真似なんてできない……」


『ランバルドはヴォルガの属国ではない』

 カルダノを叱責したこの言葉に偽りはない。だが現実問題として、ヴォルガの干渉を受け続けていることは事実であり、背けば敵対行為とみなされて再び侵略される危険に晒されてしまうのだ。 

 王女である自分の振舞い一つで国の平和が左右されてしまう。政治家たちに利用されているとわかっていても、そう簡単に利己的にはなれないのだ。


「あなたの話を聞いていたらすごく気が楽になった。たとえ気休めでも、そう思えるだけでも心強いわ。ありがとう……縁談がまとまって結婚することになっても、私、きっと素敵な人を見つけて恋をするわ」

 吹っ切れたようにクリスは笑ったが、エヴァンジェリスティは対照的に苦笑いを浮かべていた。

「素晴らしい心がけだとは思いますがね。ですが殿下──殿下はまだお若いのですから、もっとわがまま言ってもいいと私は思うのですよ。叫びたかったら叫べばいい。若いうちから色々と我慢しすぎると、あっという間に老けてしまいますよ」

「やだ……でもそんな……」


 急に──エヴァンジェリスティの顔が眼前に迫った。

 藍色の瞳の中に映る自分の顔。胸の高鳴りは何かを期待するようだ。

「あ──眉間にシワ」

「え?」


 慌てて眉間に手をやると、彼は声を上げて笑った。

「冗談ですよ。殿下はいつだってお美しい……」

「ちょっと、あなたって人はもうっ!」

 クリスは頬を膨らませたが、すぐに吹き出した。

「本当にあなたって面白いのね……私、あなたにもう一つお願いしたいことがあるの」

「何ですか?」

「あのね……」


 言葉を遮るように、遠くからクリスの名を呼ぶ声が響いてきた。それも一つではない。

「クリス様! どこにいらっしゃるんですか!」

 侍従たちだ。とうとう逃亡がバレてしまったらしい。

「早くお戻りになった方がよろしいですよ」

「んもう……しょうがないわね」

 クリスはエヴァンジェリスティのジャケットを脱ぎ、礼を言って彼に返した。ジャケットを着なおした彼の胸元に手折ったコスモスの花を差し込みながら、クリスは彼の顔を見上げた。


「……また冬宮殿に遊びに来てくれないかしら。色々とお忙しいとは思うのだけど」

「ありがたくお誘いを受けたいところなんですが、一応仕事のある身ですし、怖い上司が何と言うか……」

「准将にはこちらから話をつけておきますよ。それともう一つ、遊びに来てくれたら、あなたが地上勤務から現場に戻れるよう参謀総長にお願いしてあげる」

「えっ」


 初めてエヴァンジェリスティの顔色が変わった。驚きの中に期待と不安が入り混じる、複雑な表情だ。だがそれはすぐに含み笑いに変わった。


「……それは取引ということですか?」

「そう取ってもらっても構わないわ。あれだけモテるあなたですもの。こうでもしないとお時間取ってくれないでしょ?」

「そんなことはありませんよ。殿下のような美しい女性のためならいつでもどこでも馳せ参じますよ」

「それ、出会う女性みんなに言ってるんでしょ」

「そうやって疑われてしまうのが色男の辛いところでしてね。ですがせっかくのお申し出です。ありがたく受けさせていただきます」

「取引成立ね」


 手を差し出すと、エヴァンジェリスティはその手を握り返した。

 大きく、暖かい手──踊る時に手を取り合ったはずなのに、改めて握手するとその力強さを感じて少しだけ狼狽してしまう。


「では……えーと……エ、エヴァンジェ」

「長ったらしくて呼びづらい名前でしょう? これからはヴィートとお呼びください」


 親しい間柄というわけでもないのに、彼をファーストネームで呼ぶというのは少し気恥ずかしい。

 なるほど、とクリスは一人合点した。


「……そうやって女性と親密な関係を築いていくのね」

 意地悪っぽく見上げると、彼は愛想笑いを浮かべて頭を掻いていた。

「気のせいですよ。まったく、殿下にはかないませんな」

「では、また今度。付き合ってくれてありがとう」


 ドレスの裾を翻して芝生を駆けていこうとしたクリスを、エヴァンジェリスティが呼び止めた。

「殿下──言い忘れていたことが」

 振り返ると、彼は胸のコスモスの花を指差していた。


「コスモスの花をむやみに男性に贈るのは、お止めになった方がよろしいかと思いますよ」

「えっ、なぜ?」

「コスモスの花言葉はね、『乙女の純潔』って言うんです」


 クリスは顔を真っ赤にして、エヴァンジェリスティのもとに駆け寄った。そしてひったくるようにしてコスモスの花を奪うと、また踵を返して駆けていった。

 どうもエヴァンジェリスティの前では自分が自分でなくなるようだ。ものすごく饒舌で毒舌になってみたり、感情が制御できなくて露にしてしまったり。優位に立ったつもりでもいとも簡単に崩されてしまう。


 回廊に戻る一歩手前で、クリスはもう一度振り返った。

 だが彼の姿は見えなかった。いつの間にか薄く立ち込めていた夜霧が、彼の姿をベールの向こうに隠してしまっていた。

 不意に訪れる、一抹の寂しさ。姿が見えなくなった途端、もう何年も彼に会っていないような不思議な懐かしさに襲われる。

 クリスは手にしたコスモスをドレスの胸に飾った。言いようのない気持ちを置き去りにして、クリスは暗い回廊へあがり闇の奥へと消えていった。

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