世界大戦終結から五年──

 大陸の覇権を巡って、全土が戦火に包まれた世界大戦。その勝者ともいえる大国・ヴォルガ帝国は大陸中にその存在感を知らしめ、強大な軍事力を背景に今なお周辺国に多大なる影響を与え続けている。ランバルド王国もそんな周辺国の一つだ。


 古い歴史を持つランバルド王国は、ランド民族による単一民族国家である。

 国土はそれほど大きくないが、肥沃な土壌と豊富な資源に恵まれて、早くから独立を果たし発展を遂げてきた。大陸の北端に位置し、ヴォルガをはじめとする複数の大国に囲まれている土地柄から、中立を国是とし、世界大戦でもその立場を貫いた。


 だが、大戦も終盤に差し掛かった五年前の冬──そのランバルドの根幹を揺るがす事件が起こった。

 ヴォルガ軍が国境を越えて、ランバルドに突如軍事侵攻を開始したのだ。『冬戦争』の始まりである。

 ヴォルガの電撃的な侵略に対し、ランバルドは民族の誇りを胸に徹底抗戦した。軍事力では圧倒的な差があったが、山と森林が多い地形と雪深い季節だったということもあって、地の利を活かし、当初は侵攻を水際で抑えていた。

 この非情な仕打ちに、周辺国の同情が得られるとランバルド側は目論んでいたのだが、残念ながらそれは目論見だけで終わった。大戦下にあって、微妙なパワーバランスの上に成り立っていた周辺国は、ヴォルガとランバルドの戦いに首を突っ込もうとはせず、ただ傍観することを決め込んだのだ。どの陣営とも手を組まなかった中立国という立場も不利に働いた。

 援軍の来ないランバルドは日に日に追い込まれていった。それでも自慢の空軍力で首都ランバルディアへの侵攻は何とか食い止められていたものの、次第に戦局は膠着、戦争は泥沼化した。

 これ以上の消耗は避けたい──国土を蹂躙されているランバルドはもちろん、その思いはランバルド以外にも手広く戦争を展開していたヴォルガも同じだった。ヴォルガが先に停戦を持ち出し、ランバルドも飛びつくようにそれに合意した。


 かくして二国間で講和条約が結ばれたのだが、それはランバルドにとって屈辱以外の何物でもないものだった。

 その条約とは、ランバルドの領土の十分の一に相当するヴァレーゼ地方をヴォルガに渡すという一方的な条約だったのだ。首都まであと少しというところまで攻め込まれていたランバルドには、その条件を飲むしか選択肢はなかった。

 そして四ヶ月に渡る冬戦争は終結し、ランバルドに再び平和が戻ってきた──誰もが「かりそめ」と嘆く平和が。


 かくしてランバルドはヴォルガの衛星国となり、政治的、軍事的な圧力を受け続けている。もはや中立国ではいられなくなってしまったのだ。

 国土を踏みにじられ、領土を削られてなお、アイデンティティを否定された属国のような扱いを受けることに、国民の間でヴォルガに対する抑圧的な怒りが潜在的に渦巻いている。


 そんな現状で、ランバルド王国においての王室の立場は非常に微妙なものになっている。

 ランバルドは立憲君主制であり、国王は政治的権力を一切持たない。君主は国の象徴として君臨するのみだ。特に政治がヴォルガ寄りにある今、議会は王室の動向を探りつつ不穏な動きがないか神経を尖らせている。

 皮肉なことに、象徴としての王室の人気が非常に高いのだ。

 ヴォルガによる屈辱的な支配を受ける中で、誇り高きランド民族の血を色濃く受け継ぐ王室はランバルドの最後の砦として国民の絶大な支持を受けており、その勢いは議会はおろかヴォルガですら無視できないものがある。

 クリスの父で現国王のパオロ二世は、表向きは中庸な立場を取り続けているが、軍部とは比較的友好な関係にある。

 かつて、中立を貫くがゆえに強力な軍隊が必要だったランバルドにあって、陸海空の三軍は国と王のために戦うという理念の下に作られた。今でも三軍は王室軍を名乗り、最高司令官は国王である。

 文民統制下にあるとはいえ、議会がヴォルガ寄りである現状では、軍も王室をより尊重し、議会を軽視する傾向にある。さすがに王室を担ぎ出してクーデターを起こすような真似はしないであろうが、そんな心配が笑い事では済まされないほど政府との仲は険悪になりつつある。

 それがまた王室の立場を微妙なものにしているのだ。





 正直、政治のことはよくわからない。

 王位継承権第一位を持ち、次代の女王であると言われても難しいものは難しいのである。

 帝王教育を受け、基本的なことは叩き込まれたとはいえ、今はまだ真剣に考える気にはなれない。

 まだ女王ではない。王女なのだ。

 クリスの口から漏れた大きなため息は、ボールルームの喧騒に溶けて消えた。


 煌びやかな王宮のボールルームは、ドレスや燕尾服で着飾った大勢の招待客で賑わっている。王室主催の晩餐会の後、場所を移して舞踏会が開かれているのだ。

 ロイヤルブルーのドレスを着て優雅に立つクリスの横には玉座があり、父・パオロ二世国王が妃と並んで座っている。次々と挨拶にやってくる招待客たちに愛想笑いを振りまきながら、クリスは内心疲れきっていた。

 恭しく礼をする貴族や政府関係者の美辞麗句を延々と聞き続けるのは結構な苦痛だ。さしたる中身があるわけでもなく、皆同じようなことしか言わない。まだ十八歳の小娘であるクリスを軽んじているのが手に取るようにわかる。

 それも当然かと思う一方で、次期女王である自分に対してまでこんな態度なのだから、立場の微妙さを実感せざるを得ない。

 今日何度目かわからないため息をついたクリスの横で、パオロが咳き込んだ。


「陛下、大丈夫ですか?」


 背中をさするクリスに、パオロは手のひらを向け大丈夫とアピールした。

 齢五十を超えた父は、この頃体調を崩すことが多くなった。公務に支障をきたすことは少ないが、それでも少しずつ体力が落ちてきているように思える。

 いつも穏やかに微笑んでいる父だが、人知れず抱え込む心労も多いのだろう。今のような状況では尚更だ。

 もう二十年も国王として、国の行くべき道を国民に示してきた。その中で世界大戦や冬戦争があり、ランバルド史上最も激動の時代を生きてきた国王とも言える。

 その顔に刻み込まれた深い皺は、この国の歴史そのものなのかもしれない。

 平静を取り戻したパオロと共に、クリスはまた客人の挨拶を受け始めた。次は確か空軍のクローチェ中将だ。


 と、その時。

 中将の軍服の肩越しに、知っている顔を見たような気がした。

 たくさんの女性に囲まれて楽しそうに談笑しているその男は、燕尾服ではなく空軍の礼装を身につけていた。セピア色の髪をかき上げ、軍人らしくない華やかな笑顔を淑女たちに振りまいている。


 藍色の瞳がこちらを向き、一瞬目が合った。

 驚くクリスをよそに、彼は微笑みと一礼を返し、また淑女たちとの談笑に戻っていった。

 あれは──エヴァンジェリスティ大尉だ。士官とはいえ尉官クラスの彼がなぜここに?

 クリスは目の前で型どおりの口上を述べていた中将に、挨拶もそこそこに聞いた。


「あ、あの……あそこにいらっしゃる方……」

「ああ、彼はエヴァンジェリスティ大尉ですね。殿下までがご存知だったとは……って、そういえば! 奴め、先日は殿下に大変なご無礼を働いたそうで……」

 冷や汗を流す中将を尻目に、クリスの目はやはり本人だったエヴァンジェリスティに釘付けだった。

「いえ、それはいいの。でもなぜ彼がこの王宮に?」

「上司であるフェラーリン准将の名代と聞いてます。ああいう奴ですが、国王陛下から勲章を賜ったことのある空軍のエースでもありますし」

「えっ、エース? 勲章?」


 整備不良の飛行機に乗ってしまうような、ちょっと抜けている男が空軍のエースとは。

 クリスは信じられなかったが、中将は彼の正体を知らなかったと見えるクリスに少し自慢げに話して聞かせた。


「彼は五年前の冬戦争で、六十二機のヴォルガ空軍機を撃墜したエースパイロットなのですよ。その他にも戦車や軍用車両など百台以上は撃破しています。その数字もさることながら、それ以上に彼がすごいのは、被撃墜回数が十五回もあるということなんですよ」

「……それって、十五回も撃墜されたってこと?」

「ええ。でも奴は今あそこでピンピンしているでしょう? 幾度も撃墜されながらそのたびに生還し、また出撃しては敵機を撃墜したのです。彼の機体には真っ白なユニコーンのマークがつけられていましてね、ヴォルガ軍からは『白い悪魔』『不死身の悪魔』と呼ばれ恐れられていたそうですよ」


 不死身の悪魔──その名はクリスも聞いたことがあった。首都ランバルディアに攻め込まんとするヴォルガ軍を間際で喰い止めた『空の勇者』、『ランバルドの守り神』と。彼がいなかったらランバルディアは陥落し、ランバルドは講和条約を結ぶどころかヴォルガに併合されていただろうとさえ言われていた。

 だが、まだ幼かったクリスはかの人物の名前も知らなかったし、もっと古めかしい厳つい顔をした軍人だと思い込んでいた。それがまさか──あんなに若く、涼しげな目元の色男だったとは。


「しかしあいつめ、殿下のご温情にあずかっておきながら挨拶にも来ないとは何たること……今すぐ呼んで参ります」

 そう言って中将は振り返ろうとしたが、クリスは止めた。

「いえ、彼もこちらに来るタイミングを計ってるのでしょう。それに今はとってもお忙しそうですしね」


 パイロットという職業は花形だと聞くが、あの顔ではそれでなくてもモテるだろう。四方八方淑女に囲まれて、身動きが取れないようにも見える。

「あとでこちらから行きますわ。それよりも彼のお話、もう少し聞かせてもらえます?」

 にっこり微笑んだクリスに、中将は目を白黒させた。





 父に断って暇をもらい、クリスはそばを離れた。

 エヴァンジェリスティは少し離れた場所で、こちらに背を向けて淑女たちとの歓談に熱中しているようだ。クリスはその背中に狙いを定め、歩みだした。

 ワルツを踊る男女を避け、人ごみで声をかけられて軽く挨拶を返しながらも、足は彼のもとへ一直線に向かう。

 エヴァンジェリスティはこちらに全く気づいていないようだ。何を話しているのか、取り囲む淑女たちを笑わせて、うっとりとした視線を一手に集めている。その鷹揚な背中を見ていると、なぜだかいたずら心に火がついてしまった。この間は驚かされたから、後ろから忍び寄って今度はこちらが驚かせよう。

 エヴァンジェリスティの背中をとらえ続ける視界が、急に遮られた。


「おや、殿下」


 燕尾服の男が突然目の前に立ちはだかったのだ。ぶつかる寸前で何とか足を止めたが、何という無作法な男だろう。

 苛立ち紛れにその男を睨み上げると、それは外務大臣のカルダノだった。初老に差し掛かろうという年齢のはずだが、色艶のいい顔には生気がみなぎって随分と若く見える。

 彼はその細い目に笑みを浮かべて、孫のような年齢のクリスを見下ろしていた。


「あ、大臣……」

「ちょうどよかった。今こちらからおうかがいしようと思ってたところです」

 カルダノは畳み掛けるように言った。

「あちらにヴォルガ皇帝陛下の縁戚に当たる公爵夫妻がいらっしゃってましてね。殿下にぜひご挨拶をしたいと申しておりました。もしお手すきでしたら私と一緒に来てくださいませんか」


 物腰は非常に丁寧だが、どこか強引な物言いをするカルダノがクリスは苦手だった。

 そもそも彼は首相の盟友と言われ、親ヴォルガ派の筆頭でもあるのだ。クリスを見つめるその瞳は野望に満ちて、ギラギラと光っているようにも見える。

 本来なら向こうから挨拶に来るべきではないのか──そうは思ったが、クリスは口には出さなかった。

「いえ……あの、私は……」

 それよりも今はエヴァンジェリスティのところに行きたいのに……

 目をそらして答えを躊躇するクリスに、カルダノは幼い子どもを諭すように穏やかに言った。


「殿下──今後のこともありますから、ね」


 クリスの顔がさっと青ざめた。カルダノを見上げる瞳に、悲しみにも似た憂いの色が浮かぶ。

 クリスは何か言いかけて──諦めたようにうなだれた。

「よろしいですか?」

 カルダノの問いかけに、うつむいたまま小さくうなずく。彼もまた満足そうにうなずくと、先に立って歩き始めた。

 気分はまるで連行される罪人だ。カルダノの後を追おうと一歩踏み出して、クリスはエヴァンジェリスティがいた場所を振り返った。だがそこに彼の姿はもうなかった。淑女たちに連れられてどこかに行ってしまったようだ。

 落ち込む気持ちに追い討ちをかけられて、クリスはまたうなだれて歩き始めた。が、その時。

 またしてもクリスの視界が遮られた。目の前に突然現れた男の胸に、今度は止まりきれずにぶつかってしまった。


「んもう!」

 その男からは枯葉の匂いがした。

 つぶれた鼻の痛みをこらえながら、今度こそ怒ってその男をきつい目つきで見上げる。

「ちょっと……あ」


 藍色の双眸が自分を優しく見下ろしていた。

 急に恥ずかしくなって逃げ出そうとしたが、両肩をしっかりとつかまれてしまう。軍の礼装に身を包んだその広い胸板に吸い込まれそうな気がして、クリスは身体を硬直させた。

「……殿下?」

 ついてこないクリスを心配してかカルダノは振り返った。だが彼の訝しげな視線を受けて答えたのはクリスではなかった。

「ああ、これは失礼いたしました。クリスティアーナ殿下が市場に売られに行く子牛みたいに大臣の後をついて行くものですから、あまりの可愛らしさについつい捕まえてしまいました」

 子牛とはひどい例え方をされているが、そんな気分だったのは確かだ。

 カルダノは明らかに不快そうな表情を浮かべてその男に聞いた。


「……貴殿は?」

「空軍大尉のヴィート・エヴァンジェリスティと申します」


 その名を聞いて、カルダノの瞳に侮蔑の色が浮かぶ。

「ふむ……貴殿がかの『英雄』か」

 カルダノは満足そうに目を細めたが、胸をそらすその姿はどこか高圧的だ。

「大尉とは色々とお話したいこともあるが、今は急いでいるのでな」

 そしてカルダノはギラギラとした瞳でクリスを射すくめた。

「殿下、参りますよ」

 カルダノは手を差し出したが、クリスは身を縮こませてエヴァンジェリスティに寄り添った。もうカルダノについて行く意思がないことの表れだ。

 エヴァンジェリスティはクリスをその背に隠すように一歩前に出た。


「どうやら殿下は私と踊りたいようですよ。大臣には申し訳ありませんが、殿下のダンスパートナーの座をお譲りください」

「しかし殿下は……」

「大臣……女性にしつこくすると、嫌われてしまいますよ」


 エヴァンジェリスティはおどけて言った。

 周りにいた淑女たちが、カルダノを見てクスクス笑い始める。居たたまれなくなったのか、カルダノは顔を真っ赤にしてエヴァンジェリスティを睨みつけた。


「……この『悪魔』が」


 吐き捨てられたその言葉はエヴァンジェリスティの代名詞などではなく、明らかな侮蔑の言葉だった。

 クリスは怒りがこみ上げるのをはっきりと感じた。だが目の前のエヴァンジェリスティは何も言い返さず、ただ微笑むばかりだ。

 もどかしくなって、クリスは彼を押しのけてカルダノの前に出た。

「大臣……大尉に対してのそのような口の聞き方は赦しませんよ。慎みなさい」

 毅然と言い放った言葉に、カルダノはもちろん、エヴァンジェリスティまでもが驚いて目を見張った。

「はっ……」

 弾かれたようにカルダノは頭を下げた。その額には冷や汗が浮かんでいる。

 この機に乗じてクリスは続けた。虎の威を借る狐ではないが、後ろにエヴァンジェリスティがいるだけで何だか強気になれる。


「私はこの方のところに行く途中だったのです。公爵夫妻へのご挨拶はまた後ほど、改めてさせていただきますわ」

「し、しかし公爵夫妻はヴォルガ皇帝陛下の……」

「ランバルドはヴォルガの属国ではありません」


 クリスはピシャリと言い放った。

 怯むカルダノに対して、周囲からは小さな拍手が巻き起こる。ヴォルガに対する国民と政治家の意識に大きな隔たりがあることの表れだ。分が悪いと感じたのか、カルダノは苦りきった顔で一礼すると、足早にその場を立ち去った。

 一息つく暇もなく、クリスは周囲の貴族や招待客から次々と称賛の声をかけられた。口にしたくてもできない言葉をクリスが代弁してくれたことに、皆胸がすく思いだったのだろう。

 それが一段落して、ようやく後ろを振り返ると、エヴァンジェリスティはそこにとどまって待っていてくれた。というよりは、また女性たちに取り囲まれて引き止められていると言った方が正しいだろうか。

 自身を見つめるクリスに気づいたのか、彼は淑女たちに断りを入れながら人ごみをかき分けるようにして出てきた。引く手数多の様子には、助けてくれた礼よりも先に皮肉が口を突いて出てしまう。


「随分とおモテになるのね」


 クリスが苦笑すると、エヴァンジェリスティは服装と姿勢を正し、敬礼を捧げた。濃紺地に袖口の金ラインが眩しい礼装は凛々しく、フライトジャケット姿も似合ってはいたが、華やかな雰囲気の彼にはこちらの方が似合うような気もする。


「いえいえ……ご人望の厚い殿下の人気にはかないませんよ。それはそうと、先日は大変失礼をいたしました」

「どうやら銃殺刑にはならなかったようね」

「殿下のお口添えがあったからこそですよ。あの後、殿下から私を弁護する旨の通達があったそうで……銃弾の代わりに、准将から言葉の銃殺刑を受けましたがね」

「身体に風穴開かなかっただけ良かったわ」

「ついでにこの顔に傷がつかなくて良かったです。戦争中も必死で守った顔に傷をつけられるのは忍びないですからな」


 軽く噴出すと、彼も相好を崩した。

 ひとしきり笑って、やっと素直になれる。


「……助けてくれてありがとう」

 はにかみながらそう言うと、彼は首を捻った。

「はて……私は何もしていませんが?」

「でも……」

「私は大臣から可愛い子牛を横取りした悪い『悪魔』ですよ」


 エヴァンジェリスティはどこまでもとぼけるつもりらしい。それが彼なりの女性に対する優しさなのだろう。

 礼の代わりにクリスはスッと手を差し出した。


「……踊ってくださる?」

「ええ、もちろん」


 エヴァンジェリスティはその手を取り、ボールルームの中央へとクリスを導いた。

 優雅なワルツにあわせてステップを踏む。こういう場には慣れているのか、さり気ないリードがうまい。見た目よりもがっしりとした腕と肩の感触に身体を預けていると、不思議な安心感があった。


「……あなたがあの『不死身の悪魔』だったとはね」

 踊りながら、エヴァンジェリスティを見上げてクリスは言った。

「おや、ご存知ありませんでした? だからこそあのようなもてなしを受けられたのだと思っていたのですが」

 至近距離で見る彼の笑顔にどぎまぎしてしまう。クリスは慌てて視線をそらした。


「だって、もっと怖そうな軍人さんだと思ってたから……あなたも人が悪いわ。そうならそうと言ってくれればいいのに」

「空から『不死身の悪魔がやってきましたー』と叫べばよかったですか?」


 答えに窮していると、彼はニヤリと笑って見せた。してやったりという顔だ。

 クリスは諦めて話題を変えた。


「空の勇者も今は地上勤務なんですって? それなのにあの日はどうして飛行機に?」

 エヴァンジェリスティは自嘲気味に頬を歪めた。

「実は……地上勤務に飽きて、どうしても空を飛びたくなったんです。それで一機無断拝借して飛び立ったところまでは良かったんですが……上空千メートルでエンストしてあのざまですよ。まったく、面目ないです」


 それでもさしたる処分もなく、こうやって名代を務められているのは、それだけ戦時中の彼の働きがすごかったということなのだろう。


「さすがは『不死身の悪魔』と言うべきかしら。でも地上じゃ悪魔というより『種馬』らしいわね。さっきクローチェ中将が仰ってたわ」

「中将が殿下にそんなことを?」

 あまりのモテっぷりに、彼をひがむ同僚たちがそう呼んでいるそうだ。

「ユニコーンのエンブレムも形無しね。今度は馬のエンブレムにしたらいかが?」

 クリスとしてはやり返したつもりだが、彼は余裕ある笑みを崩さない。


「殿下……ユニコーンという生き物は見た目の美しさばかりが強調されていますが、実は非常に獰猛で恐ろしい生き物なんですよ。どんな相手にも臆することなく、その美しく鋭い角で相手を突き刺して八つ裂きにしてしまうんです」

 まるでエヴァンジェリスティの乗る戦闘機そのものだとクリスは思った。彼は華麗な戦闘機動で相手を惑わし、機銃の鋭い一撃で並居るヴォルガ軍機を次々と撃ち墜としていったという。


「捕まえて飼い慣らそうにも絶対に服従しない、そんな凶暴なユニコーンを手なずけることができる唯一の方法──ご存知ですか?」

 クリスが首を横に振ると、彼はニッコリ微笑み、耳元に顔を近付けてきた。


「──処女ですよ」


 耳朶をかすめるささやき声。クリスは顔が熱くなるのを感じた。

「清らかな乙女に魅せられたユニコーンは自らの獰猛さも忘れて、おとなしくその腕に抱かれて眠るのだそうですよ」


 エヴァンジェリスティはどこか満足げだ。自らが乙女の腕に抱かれて眠るユニコーンだといわんばかりに、たおやかに緩やかにワルツのステップを踏み続ける。

 何か言い返したかったはずなのだが、言葉が喉に詰まって出てこない。代わりに胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、クリスの唇から吐息が漏れた。

 ワルツの音楽が途切れ、二人のダンスは終わりを告げた。

 足を止めたクリスはキョロキョロと辺りを見回し、それから彼の瞳をまっすぐに見つめて言った。


「お願いがあるのだけれど、よろしいかしら?」

「何なりと、殿下」


 背伸びして、エヴァンジェリスティの耳に何事かささやく。彼は驚いていたが、すぐに神妙にうなずいた。


「……お願いできる?」

「簡単すぎて、ご恩返しにもならないほどですよ。そういうのは得意ですから」


 笑って胸を張るエヴァンジェリスティが、妙に頼もしかった。

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