久しきヒト 第五節

 バー『ブラム』は第一埠頭の近くで営業している港湾労働者向けの小さな酒場だ。ソルプエルトがただの漁港だった時代からある店らしく、内装はひどく古ぼけている。歴史を感じると言えば聞こえがいいが、その実ただ単にひどく経年劣化しているというだけの話だ。安っぽい建材で作られた店内は荒っぽい港湾労働者やチンピラに幾度とは配されていると見えて、無数の補修痕が古傷めいてあちこちの壁に存在する。


「マスター、ラムはあるかい」


 夜ともなれば仕事終わりに一杯ひっかけにやってくる男たちでにぎわうブラムだったが、流石にまだ日も高い今の時刻は閑散としている。テーブル席で騒ぐチンピラ集団がひとつと、静かにグラスを磨くメキシコ系のマスター、雑音まみれのラジオ音楽、そしてカウンター席に腰かけたジョックのみが今この店に存在するすべてだ。


「あるよ」


「じゃ、オーヴァーで」


「あいよ」


マスターは背後の飾り棚から古びた瓶を取り出すと、氷山を思わせる氷が三つ入ったグラスに濃い飴色の液体を注いだ。ジョックはそれを受け取り、静かに口をつけた。安酒だが、悪くない味だ。そして自然な風を装って周囲を見回す。下卑た笑い声をあげ、チンピラグループがなにやら盛り上がっている。どうやら、相当酔っているようだ。仕事としては、この方がやりやすい。ジョックはグラスを片手に、ゆっくりと立ち上がった。100kgを超す彼の体重に、薄いフローリングが微かに悲鳴を上げる。


「よう、兄さんがた。楽しく飲んでるかい?」


「なんだぁ? てめぇ」


苦い笑いを浮かべたジョックの言葉に、チンピラの一人が振り向く。ひどい赤ら顔だ。かなり呑んでいるに違いない。


「俺はただの無職さ。ちょいと嫌なことがあってね、馬鹿騒ぎしたい気分なんだ。兄さんがたに奢らせてもらってもいいかな?」


「ハッハハ! 無職のくせに気前のいい奴だぜ。いいぜ、来いよ! タダ酒が飲めるってんなら大歓迎だ」


金髪パーマチンピラが、空いている席を指差す。チンピラの数は三人だ。金髪パーマ、黒髪モヒカン、スキンヘッド。どれもグラスを片手に上機嫌だ。ジョックは簡素な木椅子に腰かけ、グラスを掲げてみせる。


「マスター、この人たちの今日の飲食代は全部おれが持つぜ。とりあえずおすすめのツマミをくれ」


「はいはい」


ジョックの言葉に、チンピラたちは下品なスラングで賞賛の言葉を上げた。チンピラとて人の子。こうも気前が良ければ当然好感も湧く。黒髪がペチペチと露出したジョックの二の腕を叩いた。彼の半袖の綿シャツから飛び出した腕はまるで古代ギリシャで作られた英雄をかたどる石像のように荒々しく、それでいて優美だ。


「すっげぇ筋肉だなあオイ! うらやましいぜこの野郎」


「昔は太ってたんだがな。トレーニングし始めたらすっかりハマってしまってこのざまだよ」


「へっへっへ、んじゃ喧嘩はからきしかい?」


「当然。武道なんかやったこともねえ。でかいおかげでケンカを売られることはほぼないがな」


グラスのラム酒を一気にあおって、ジョックはそう言った。良い飲みっぷりに新たな完成が上がる。マスターがやってきて、グラスに新たな酒を注いだ。先日の事件の報酬は膨大な実家の借金返済にあて、既に一銭も残っていない。にもかかわらず彼がこうも太っ腹なのは、葛城から先ほど必要経費として千ドル受け取っているからだ。情報収集には、基本的に金がかかる。それは葛城も理解していたし、なにより彼は金に対する執着が薄い。驚くほど気軽にジョックに対して金を渡した。返さなくてもいいと言っていたが、生真面目なジョックは返す気でいる。


「それでそんな馬鹿でかい銃を吊ってるのか?」


「ああ、俺が持つとほとんどの銃はミニサイズに見えちまって威圧効果なんぞあったもんじゃない」


ジョックの腰の牛革ホルスターに収まったM27の木製グリップを優しくなでた。クルミ材の重厚な感触が何とも頼もしい。


「ま、そりゃそうだな。虚仮脅しにしたってなかなかのもんだぜそりゃあ」


「ま、実際射撃の腕はからっきしだから本当に虚仮脅しなんだがな!」


「ハハハハハ!」


「おっと兄さん、ジョッキが空だ。ビールなんて牛のションベンみたいなもんだ、こっちを飲もうぜ」


大仰なゼスチャアを混ぜつつ朗らかに言い放つジョックに、チンピラたちは爆笑した。こうなればもう、ジョックのペースである。巧みな話術で場を沸かせつつ、酒を勧めていく。空気とアルコールの双方に酔った三人は、どんどん口が軽くなっていく。


「そういや、フリークスってグループのことを知ってるかい? 兄さんたち」


「ああ? フリークスぅ?」


スキンヘッドがいかめしい表情を浮かべた。しかし、ジョックはその口元が微かに緩んだのを見逃していない。内心、会心の笑みを浮かべつつジョックはつづけた。


「最近よく聞く名前なんでな。ちょいとばかし気になっちまって」


「ま、そりゃあそうだろうさ。最早フリークスに対抗できる組織なんぞ、第一埠頭に存在しないからな!」


「その口ぶり、もしかして?」


ジョックが小声で聞くと、スキンヘッドは意味もないのにあたりをちらりと見回し、それからこっそりと耳打ちするかのような声音で応える。金髪パーマと黒髪は、ウィスキーのグラスを煽りながらニヤニヤと笑みを浮かべてジョックを見ている。ラジオから流れる音楽が、軽快なポップから重厚なヘヴィメタル・ロックに変わる。


「ああ、そうさ。俺らがそのフリークスさ」


「ま、下っ端だけどよ」


「それを言うなよォ!」


「へへへへへへへへ!!」


アルコールと会話ですっかり上機嫌になった彼らは、いとも簡単に核心的な事実を告げた。ジョックとしてもこうも簡単にフリークスのメンバーと接触できるとは思っていなかった。せいぜい、連中の断片的な情報を得られるだけだろうと思っていたら、これである。僥倖と言う他ない。だが、核心的故につっこんだことを聞けば警戒されてしまう可能性がある。無論、ジョックは元海兵隊員の精鋭である。この三人が突如牙を向いて襲いかかってきたとしても、容易に撃退する自信はある。しかし、ここで構成員が三人も消えれば、連中の親玉は警戒して尻尾を掴むのが難しくなる可能性がある。とりあえず今回は、フリークスメンバーと会話できただけで良しとすべきである。この調子なら、連絡先を交換しようと言えば否とは言うまい。そこまで考えて、ジョックは自然な流れで会話を当たり障りのない方向に誘導していった。意識して酔わないように酒を飲んでいるジョックと違い、三人はすっかり泥酔している。話題転換は容易だった。


「すまねえ、ちょっとトイレへ行ってくるぜ」


「漏らすなよー」


「大丈夫、大便さ」


「どこが大丈夫なんだ!」


 手をひらひらと振りながらジョックは立ち上がり、トイレに向かった。安っぽい合板の扉を開ける。トイレは掃除をまともにしていないらしく、非常に汚らしい。元は爽やかなブルーだったであろう壁面タイルは色あせ、何とも言えない色合いに変貌している。白い陶器製の便器もまた、ちょっと腰を下ろしたくないような有様である。だがしかし、ジョックも中東の僻地で戦ったことがある身。汚いトイレなどとっくの昔に慣れてしまっている。薄汚れた便器に躊躇なく腰を落ち着ける。ズボンは降ろさない。ポケットから安価な携帯電話を取出し、登録しておいた番号にかける。相手は無論、葛城だ。この仕事を依頼されたのは本来葛城個人であり、ジョックはおまけのような存在だ。当然、報告を怠るわけにはいかない。


「葛城か? フリークスの構成員と接触できた。今ブラムってバーで一緒に飲んでる」


「ン」


葛城の返答は簡潔以上のナニカであった。容赦なく切られる電話に、ジョックは慄く。報告連絡相談もあったものではない。もう一度コールするが、繋がらない。ジョックはため息をついて携帯電話をしまう。とりあえず今回は適当に話を切り上げて、一度出直すべきか。実際に顔を合わせて聞けば、あの無口男も何らかの意見は言うだろう。流石に。そう思っていると、唐突に銃声がジョックの鼓膜を襲った。近くで、しかも複数だ。


「なんだ!?」


嫌な想像がジョックの脳裏を駆け巡る。つまり、葛城たちがジョックを尾行していたかもしれないという想像だ。あの戦争キチガイのことである。慎重に事を進めるのを面倒がり、一気呵成にフリークスメンバーに襲いかかっても不思議ではない。彼は広い額に汗を浮かべつつ、M27を引き抜いて目の前の扉を開けた。


「ジョック! 加勢してくれ!」


彼の目に飛び込んできたのは、店内に雨あられと降り注ぐ弾丸の土砂降りと、カウンターを盾に拳銃で応戦する金髪パーマたちだった。火箭の出所に目をやると、幸いにも葛城たちではない。人相の悪い男たちが車を盾に、アサルトライフルやサブマシンガンを乱射していた。


「フランクたちの仇だ、死にやがれ!」


などと勝手なことを叫ぶその男たちの顔に見覚えは全くない。確かに葛城たちではなかった。なかったが、最悪の事態には変わりない。ここで金髪パーマたちに死なれては、今までの苦労が水の泡になってしまう。ジョックは意を決して銃弾の雨の中に飛び込み、なんとかカウンター裏までたどり着いた。カウンターには防弾鋼板が裏打ちされている。こういった事態に備えてのことだろう。用意のいいことを、とジョックは苦笑いを浮かべた。


「あいつら、何者だい?」


「ブルースタルさ。連中、正面から俺らに挑んでも勝てないからって各個撃破する気だな!」


正直、何が何だかわからない説明である。まあ、おそらくはフリークスの敵対組織か何かだろう。それが、金髪パーマたちの存在を知って襲撃を企てた……と言う感じだろうか。ジョックは苦虫を噛み潰したような表情で、ポケットからアメリカンスピリッツを一本取出し、口に加えた。


「火、もらえるか」


「あいよ」


スキンヘッドがガスライターで穂先に火を灯す。肺いっぱいにタールとニコチンで汚れた煙を吸い込み、そして溜息と同時に吐いた。こうしている間にも、幾多もの銃弾が防弾プレートに叩きつけられる。既に店内は廃墟の様相を呈していた。奇跡的に生き残ったラジオがデスメタルを大音響で流している。ジョックはこっそりとカウンターの端から頭を出して様子を窺った。車の陰に隠れた男たちが遮二無二射撃をしている。その姿は銃の発する煙で隠れ、おまけに極度の連射で銃身が焼け付いているのかまともに狙ったところに当たっていないようだった。これならいくらでもつけ入るすきがある。ハンマーを起こしたM27を向け、悪視界のなか慎重に、かつ素早く狙いを定める。発砲。.357の強烈な反動と共にマグナム弾が煙っぽい店内の空気を切り裂いてとんだ。フルメタルジャケットの鉛玉は敵の隠れていた車の外装を容易に貫き、一人の頭をザクロのようにカチ割る。


「やるねえ!」


黒髪が口笛を吹いた。スキンヘッドと金髪パーマが歓声を上げる。反対に、敵側は一瞬射撃が止まる。


「うわあっ!」


いや、一人だけ射撃を止めないやつがいた。正しくは止めないのではなく止められないのである。コックオフと呼ばれる、薬室の過熱でトリガを戻しても弾丸が自然発火して射撃が止まらなくなる現象が彼の銃を襲ったのである。彼は思わず銃を取り落とし、そしていまだ発射され続けている弾丸が足を貫通した。


「グアアアアアアッ!?」


丁度いい隙である。ジョックは引き金を引いた。ダブルアクション故に先ほどよりもずいぶんとトリガが重い。ハンマーがぐっと持ち上がって、そして落ちた。重苦しい銃声。更にひとり、胸に.357を受けて吹っ飛んだ。銃弾が男の命を奪うより先に、既にジョックは新たな敵に狙いを定めている。撃つ。撃つ。撃つ。撃つ。丁度六人いたブルースタルの刺客は、わずか数秒で全滅した。高速連射で白煙を上げる銃口とシリンダー。スイングアウト。エジェクターロッドを押して薬莢を排出。硝煙に濁った空薬莢が石の床材を叩き、乾いた音を立てた。


「す、すげえええええええ!!」


金髪パーマが絶叫めいた声を出した。六人を瞬殺するなど、尋常な腕前ではない。


「まぐれさ」


照れたようにジョックは笑い、立ち上がって金髪に手を差し伸べる。彼ははにかんだように笑いかえし、ジョックの手を握って立ち上がり、そして頭を吹っ飛ばされて死んだ。


「え?」


 ブラムから数百メートル離れた廃屋の屋根。そこには片膝立ちでPSL狙撃銃を構えるナインの姿があった。7.62mm×54Rの強烈な反動によりずれた照準を、機械のような正確さで修正する。空薬莢が屋根の斜面を転がり落ちて行った。


「ヒット」


表情を変えずにそう言い、グリップから離した手を口元に当てる。普段の白手袋はつけておらず、素手だ。その肌は葛城と同じように継ぎはぎだらけである。彼女は指を真っ赤な舌でぺろりと舐めて軽く空に向けた。


「風向南南東。風速1.7m。変化なし」


再びグリップに手を戻し、スコープを覗き込む。そこにはSIG556を構えてブラムの店内にエントリーする葛城の姿があった。おそらく、もう狙撃は必要あるまい。しかし、念には念を入れるべきである。ナインは石像のように微動だにせず、状況の経過を見守った。

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