久しきヒト 第二節

 一週間の間溜まりにたまった泥と垢を、シャワーの冷水が流し去っていく。排水口に向かう水はまるで土砂降りで増水した川のような色をしている。葛城は健常な皮膚を探す方が難しいほどツギハギだらけの身体に泡立てたスポンジをこすり付けて、まるでモノを洗うかのようなぞんざいさで汚れを落としている。針金をねじり合わせたような印象を受ける強靭な筋肉が全身をくまなく覆い、見る者にネコ科大型獣を思わせる俊敏な印象を与えていた。


「……」


やがて葛城はスポンジを絞って壁にかけた籠に放り込み、シャワーを止める。丸い蛍光灯が照らす古臭いシャワールームのガラス戸をあけ、脱衣所に戻った。ここは葛城の自宅だ。気絶したエレナを引きづってハイウェイまで戻った葛城は、事前に待機させてあった自前の車でソルプエルトまで帰還していた。運転手は別に用意していたため、睡眠は車内で十分に取ることができた。葛城はどんなに疲れていても、三時間も寝れば疲労はすべて解消されている。身体のコンディションは良好だった。


「……」


それはさておき、葛城は愛用の野戦服のズボンとインナーだけを着て居間に入ってきた。中央に置かれたガラステーブルには相も変わらず煙草の吸い殻がバベルの塔染みた山ができている。そして常と違うのは、ソファに座って何やら作業をしている黒服の女の存在であった。病的なほど色白なその女は、ガラステーブルで銃を弄っている。見れば、葛城のCz75Bであった。


「軍曹殿、僭越ながら拳銃の整備をしておきました」


そう言って女は銃身を持って葛城にCz75を差し出す。葛城は無言でそれを受け取り、スライドを引いたり実際に構えてみたり、あちこちを弄って見せた。一週間にわたる強行軍ですっかり汚れていたCz75は一部の隙もなく磨きあげられており、しっかりと注油もされている。オイルに泥の粒子が混ざっている、などと言うこともない。文句なしのパーフェクトな状態であった。彼は女に礼を言うこともなく、例の胡乱な目つきで一瞥する。黒いおかっぱ頭。奈落めいた黒く昏い瞳。薄手の真っ黒な夏用コート。真っ白な肌色と白手袋と合わせ、ツートンカラーの強烈な印象を放っている。ナイン・フレッチャーと現在名乗っているその女は、葛城のかつての部下であった。


「報告すべきことはあるか」


葛城はとりあえずCz75をテーブルに置き、ハンガに掛かっていた白の面シャツの上着を羽織り、ボタンを留めはじめた。ナインはそれを見もせずに、長いこと時を刻んでいないゼンマイ時計に目をやった。八時十五分。変らぬ時間を示し続けるその時計は、時代から取り残された死骸めいている。


「ジョニーとか言う男から連絡が。一見の客が接触を求めているとか」


「一見?」


「はい。金払いは悪くない、とかなんとか賜っていたであります」


ハキハキと答えるナイン。葛城は綿シャツの上からナイロン製のショルダーホルスターを装着し、M60リボルバー拳銃をその中へ納めた。更に上から、いつも来ているポケットが大量についた真っ黒いフライトジャケットを羽織った。最後に、これまた黒いコンバットグローブをはめる。これでいつもの葛城の完成だ。彼はそのまま部屋の隅に詰まれているプラスチックコンテナのなかから紙箱をいくつか取出し、ナインの対面のソファに腰かけた。その真横ではエレナがジャングル・サバイバル時そのままの格好で倒れ伏していた。呼吸はしているし、最低限の水分補給などは嫌々ながら葛城がしていたので、まあ死ぬことはあるまい。そして万が一死んでも、葛城もナインも気にすまい。それほどまでに、二人は彼女に一切の関心を示していなかった。


「北京ダック……美味しくない……」


現に、なにやら妙な寝言を念仏めいて呟くエレナを葛城とナインは一瞥もしない。葛城はポーチの中から空の弾倉を取出し、テーブルに投げる。そして紙箱を手に取り開けた。中には9mmルガーのホローポイント弾がぎっしり詰まっている。その鉛剥き出しの陥没した弾頭のうちの一つを摘み、弾倉にねじ込んだ。弾倉に内蔵されたスプリングのテンションは高いはずだが、全く抵抗がないかのようにスムーズに弾丸は挿入されていく。硬質な金属音が連続して室内に響く。


「まあ、それはどうでもいい。街に変わりは?」


「飲み屋と宿が二軒ずつ吹っ飛んで、大規模な銃撃戦が三回起こったであります」


「要するにいつもと変わらないということだな」


「で、ありますか」


沈黙が室内を支配する。微かなカモメの声と、エレナの寝言と、葛城が弾倉に弾を込める音だけが聞こえていた。しばらく葛城もナインも黙っていたが、やがてちらとエレナを見てふと口を開いた。


「このルーキー、どうでありましたか」


「……」


葛城はすべての弾倉に弾丸を込め終わり、ポーチに仕舞った。紙箱を閉じてコンテナへ投げ入れ、ポケットからラッキーストライクの箱を取り出す。その中から一本取出し、口にくわえてジッポで火をつけた。パチンとジッポの蓋が鳴り、無表情に煙を吸った。煙草の先端の火が赤く輝く。そのままゆっくり煙を吐きだし、また吸ってから今度はさっさと煙を吐いた。


「気になるのか」


「正直、全然気にならないであります」


「だろうな」


無言。葛城もナインも何も言わなくなった。葛城は煙草を吸い続ける。短くなったら靴底で火を消し、タワーと化した灰皿に吸い殻を投げつけ、また新しい煙草に火をつける。いつの間にか片手で折り紙を折りはじめていた。赤いカンガルーが見る見るうちに組み上がっていく。煙草を吸いながら、折り紙。その様子は、ナインは背筋を伸ばしてじぃっと見ていた。微動だにもしない。まるで石像だ。葛城も葛城で、そんなナインを一瞥もしない。窓の外では、港から迷い込ん出来たらしいカモメが空を舞っていた。まだ日は中天に達していない。昼食にはまだ早い時間だ。そのまましばし時間が流れ、やがて葛城が煙草の火を消しながら言った。


「久しぶりに森に入ったが、いいリハビリになった」


「昔はジャングルが家みたいなものでありましたからなあ。今みたいに、都市に隠れるなんて夢のまた夢でありましたし」


「たった十年でよくもまあ変わるものだ」


「本当に」


ナインは苦笑を浮かべる。国外生活の長かった彼女は、帰国早々祖国のあまりの変貌ぶりに度肝を抜かれていた。もっとも、驚いたのはずっとこの国に居た葛城も同じことである。戦争が終わり、葛城たちの反乱も鎮圧され、そのあとにやってきたのは凄まじい速度の発展であった。無駄に浪費していた人的資源を全て経済発展に費やした結果、空前の好景気が訪れた。雨後の竹の子のように高層建築がところ構わず生えはじめ、外国資本がナイアガラの滝めいて投入される。気付けば、うらびれた漁港であったソルプエルトは馬鹿でかい悪の坩堝になっていた。麻薬。密輸武器。人間。そこで蠢く悪は、葛城たちが兵隊だった時代に存在していた悪とはまた別の存在である。当時の悪そのものであった葛城たちには、それに違和感を感じてしまうのだ。時代に追い越されていくとは、そう言うことなのである。二人もそれは心得ているようで、ほぼ同時にため息染みた呼気を吐きだした。


「これからどうするんだ、貴様」


「殺して、殺して、それから殺すであります。昔と変わらない日常を過ごさせていただく」


「そうか」


ナインの答えは明確であった。生まれたその時から戦争に巻き込まれた彼女や葛城たちのような人種は、もう戦うことが生きることと同義になってしまっている。葛城もナインも、呼吸をするように人を殺す。呼吸を止めた人間が生きていけないように、他人を殺さずして生きていくことができないのだ。だからこそ、ナインはそう答えた。葛城もそれは予測の範囲内の答えだったようで、当たり前のような顔をして新たな煙草に火をつけるのであった。彼は重度のニコチン中毒であるから、ハイペースで煙草を消費する。完成した四体目のカンガルーが、軽い音を立ててフローリングに落下した。葛城はそれを拾わない。気が向いて掃除するときに、まとめて拾ってゴミ箱に捨てるのである。もっとも、ここ最近はエレナかナインが見つけ次第拾っていた。


「……上手いものでありますな」


拾い上げたカンガルーを日光に透かしつつ、ナインは言う。眩しそうに細めた瞳は黒と言うよりは、赤黒く見えた。やがて満足したらしく、ぽいとゴミ箱に放る。既にゴミ箱は葛城の作品でいっぱいだ。エレナは作品を拾うとどこかに飾っておくのだが、ナインがそれを見つけるとまとめて捨ててしまう。だから、これほどまでにゴミ箱がいっぱいになってしまうのだ。葛城は日に平均して二十ほどの作品を生産する。ただのリハビリ目的なので、作った後どんなぞんざいな扱いをされても文句を言うことはなかった。


「手、相当ひどかったみたいでありますね」


「神経はやられていない。ただ、複雑骨折した後矯正せずに骨がくっついてちゃんと動かなくなっただけだ」


実際、ゲドー医師の天才的な整形手術能力がなくば今でも葛城の手は真っ当に機能しないままだったであろう。顔に傷跡が少ないのも、単純に整形手術で傷跡を消したからだ。他人の顔を作る必要があったため、傷まみれと言うのは実際弊害があった。そしてそれは、ナインも似たようなものなのかもしれない。葛城はナインの手に目をやった。薄く、それでいて色の濃い白手袋に包まれ、素肌を見ることはできない。しかし葛城の知る限り、現役時代のナインは手袋をひどく嫌っていた。微妙な感覚の違いが射撃精度に重大な影響を及ぼす、らしい。しかし現実として今のナインは手袋を嵌めている。まさか伊達や酔狂やファッションでこんなものをつけているわけではあるまい。おそらく、ナインの手も葛城と同じくツギハギまみれだろう。確信めいたものを葛城は抱いていた。もっとも、声に出して言う気はないが。


「実際、どうなのでありますか? ちゃんとパフォーマンスは発揮できているので?」


「悪くない。むしろ良い。ただ、戦闘機会が減ったせいで鈍っている。それが懸念事項だ」


「やはり軍曹殿もでありますか」


それは、両者共通の悩みと言える。現役時代は、毎日のように苛烈な戦闘が繰り広げられていた。一週間のうち六日は殺しあっているというレベルだ。しかし、現在はどうだ。積極的に戦う機会は減り、時々流れてくる依頼をこなすのみ。無論トレーニングで能力の劣化は最低限に抑えてはいるが、それも限界がある。ナインの登山靴に包まれた足が、煩わしげにフローリングを叩いた。彼女としても、それは望ましくない状況なのだ。


「正直、枷がないならどこかの紛争地帯でも行きたい気分なのでありますが」


「そうだな」


「その時は軍曹殿もぜひ一緒に。あのときみたいに殺して殺して殺しまくりましょう」


「……そうだな」


 自分がやや興奮していることに気付いたナインが照れくさそうに苦笑したその瞬間、ガラステーブルに置かれた古めかしいプッシュ式固定電話がけたたましくなり始めた。ナインはあからさまに顔をしかめ、葛城の右手がCz75に伸びた。そしてそのままグリップをゆっくり撫でながら、左手でそっと受話器を取る。エレナは煩わしそうに顔を歪めたが、起きる様子はない。


「葛城か?」


「……どうした」


「やっと繋がった。妙な姉ちゃん残して蒸発しやがって、頭のわりぃ安売女みたく駆け落ちでもしてたのか?」


手配師のジョニーの声だ。葛城が無言でジャングルへ旅立ってしまったため、彼は怒り狂っていた。安請け合いしてしまった葛城用の仕事は強制的にキャンセル。安くない契約違反料をふんだくられてしまったのである。気難しい葛城が仕事を拒否するのはよくある話なのだが、彼の仕事はあくまで紹介。先方に葛城を会わせた時点で仕事は終わっている場合がほとんどだ。故に、今回のような事態はめったに起こらなかったのである。


「……」


無言で葛城は受話器を置いた。そして煙草を吹かす。グリップを撫でる速度が速くなっている。そして、数秒後また電話がかかってきた。受話器を取る。当然、相手はジョニーだ。


「話はそれだけか」


ぼそりと言う葛城に、電話の向こうのジョニーため息を吐いた。深い深い、苦悩に満ちたため息。しかし、どこかわざとらしく、欺瞞が感じられる。葛城の手は既にCz75のグリップを握っていた。


「仕事の相談がしたいってやつが第一埠頭にいる。詳しい地図はメールで送るから、さっさと行ってきてくれ」


「ン」


そのまま電話は切れる。これ以上言うと葛城が殺しにやってくる。ジョニーはそう直感したのである。このような限界のみさだめだけはうまい男であった。葛城は小さく頷きながら受話器を戻す。葛城としても入院期間が長かったため腕名が待ってしまっている。実戦で感覚を取り戻さなければならない。


「いくぞ」

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