久しきヒト

久しきヒト 第一節

 真っ暗い森の中を、エレナは重い足取りで歩いていた。足は棒のように自由が利かず、体は鉛のように思い。怪鳥の鳴き声と、虫の鳴き声と、風の音と、そして自らの足音が混然一体となった不快なサウンドが疲れ切った脳に追い打ちをかける。エレナを取り囲む大樹は熱帯性の巨大なものばかりで、方向感覚を容易に喪失させる。空気は息をするのも嫌になるほど暑く、湿っている。財閥・パルコヴァー家の使用人エレナが無法者葛城に弟子入りして早一か月半。葛城は先の事件の負傷から回復するや否やエレナを伴ってソルプエルトを飛び出し、最低限のサバイバルキットと銃のみを持って原生林に飛び込んだ。理由は聞かされていない。葛城との会話は一日に一言二言程度だ。そんな明日をも知れぬ状況で七日間が経過した。彼女の踏破した距離は既に三百キロメートルを超えている。日々の食料や水を調達しつつ、毎日フルマラソン以上の距離を歩いている計算だ。多少鍛えているとはいえ、十四歳の少女の身にはあまりにも過酷な旅程である。


「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ……」


そんな状況でも彼女が必死に食らいついている理由はただ一つ。遅れれば置いて行かれるからだ。一度意識が遠のき転んだことがあったのだが、葛城は顧みずにそのまま進んでいった。彼はご丁寧にも自らの痕跡を消しつつ進んでいるため、逸れれば合流することなど不可能だ。そして、現在位置を知るすべを持たぬエレナに待っているのは餓死、あるいは猛獣に喰われる未来だけである……。


「ッ!?」


 突然、葛城が腿のホルスターから目にもとまらぬ速度で拳銃を抜き、発砲した。銃声はしない。微かにボルトが往復する金属音が聞こえるだけだ。それもそのはず、この銃はいつものCz75Bではない。スタームルガー・MKⅢと呼ばれる.22口径ピストルにサプレッサーを取り付けたものだ。Cz75Bの9mmルガー弾は強力だが、銃声が大きい。様々な危険の潜むジャングルで自らの位置を喧伝するのは自殺行為でしかない。そこで銃声の小さい.22口径の出番と言うわけだ。おまけに、このルガーは銃身がサプレッサー内蔵の物と交換されていた。発砲音はほぼ無しと言っていい。


「ど、毒蛇」


ルガーの銃口の先に居たのは、地味な色合いの蛇だった。見た目は大人しそうだが、ひと噛みで成人男性を殺しうる強力な毒を持っている。葛城はこれに気付き、無言で撃ったのだ。蛇は脳天を打ち砕かれ悶え苦しんでいる。じきに死ぬだろう。


「……あの、まだ目的地に着かないんですか」


「……」


葛城はエレナに顔を向けた。への字に結んだ口元。悪鬼めいた眼光。胡乱げな表情。常と変らぬ様子だ。疲労の色は一切ない。この無法者はエレナの問いに答えず、無言で背中に背負った荷物の位置を直した。彼の背中には巨大なバックパックめいた物体が背負われている。これはサバイバル用品を満載したバックパック……などではない。ただの砂袋だ。驚くべきことに葛城は、この過酷な旅路に更なる負荷をかけるためのウェイトを持ち込んでいた。その重量なんと四十キログラム。エレナは初めてそれを聞いた時、思わず『馬鹿じゃないですか』と言ってしまった。それに対し葛城は何の反応も示さず、無言で歩を進めた。ちょうど今と同じように。


「待ってくださいよぅ」


「……」


エレナは木偶人形のように言うことを聞かなくなった体に鞭を打ち、無理やりに歩き始めた。地面は下草こそ生えていないものの、厚い腐葉土と縦横無尽に張り巡らされた木の根のせいで歩きにくいことこの上ない。普段の皮靴ではなく登山靴を用意したのは幸いだったと、エレナは何度目になるかもわからない感想を抱く。ちなみに彼女の服装は普段のヴィクトリアン・タイプのメイド服ではなくOD色の野戦服だ。流石にあんな格好でジャングルに挑むほどエレナはおろかではない。もっとも、小柄な彼女に合うサイズの野戦服が見つからず、ややサイズの大きなものを着用しているのはご愛嬌と言ったところか。


「はあ、はあ、はあ……」


 しかし、この行程はいつまで続くのかとエレナは朦朧とした脳内に疑問を浮かべる。七日間で終わると聞いているが、実際救援など来るはずもないのでこのジャングルは自らの脚だけで踏破せねばならない。ジャングルの切れ目まで自力でたどり着かない限り、この旅は終わらないのである。想定していた通りの速度で進み森の終わりは近いのか、あるいは想定以上に遅くなりまだまだ歩かなければならないのか。それは葛城にしかわからない。しかも肝心の葛城は地図すら持ち込んでいない始末だ。コンパスだけで、何ができるというのか。あるいは葛城自身とっくに道に迷っており、二人そろって遭難しているのではないかという疑いすらある。


「ぐっ……」 


そう思うと、ますますエレナの足は重くなっていった。進めども進めども変化を見せない森の情景が、未熟な少女の精神を蝕んでいく。スリングで背中に背負ったビゾン・サブマシンガンが重くてたまらない。さっさと捨ててしまいたいが、捨てれば殺すと葛城に厳命されているためそこらに放り出すわけにもいかないのだ。汗でべっとりと濡れた額を拭い、水筒の水でのどを潤す。どぶ川の水を浄化剤で消毒しただけの不潔極まりない水だが、飲めるだけましだ。それに、のどの渇ききったエレナにとっては泥臭い水も甘露であった。軽く喉を湿らせるだけのつもりが、ついごくごくと喉を鳴らして飲んでしまう。気付けば水筒の水は半分以下に減ってしまっていた。ああ、しまったと思うより早く、彼女は水筒に栓をしてベルトに取り付けたホルダに戻していた。後悔後先に立たず。いまさらどうこう言うのも体力の無駄だ。またエレナは無心で足を前に進め始める……。


「はっ、はっ、はっ……」


 それから数時間後のことである。エレナの眼前に、それまでの緑の地獄とは正反対の、赤茶けた大地が姿を現した。伐採で荒れ果てた荒野が、赤道直下の強烈極まりない太陽光を乱反射して輝いている。遠くに見えるのはハイウェイだろう。大型トラックの大群や色とりどりの乗用車が盛んに行き交っている。一週間の間完全に存在しなかった、確かな文明の息吹。ここにはいつの間にか寄ってくる毒虫も、気が狂いそうなほどうるさい鳥の鳴き声も、全身を苛む汚泥も存在しない。乾ききった大地。エレナは膝をつき、大きく息を吐いた。涙が滲み、やがて滝のように流れ始める。涙は拭っても拭っても尽きることはなく、鼻水と合わせてエレナの人形めいて整った顔をぐしゃぐしゃに汚した。


「あ、あれ、わたし、なんで泣いてるんだろう……あはは、あは……」


顔には満面の笑み。全身を包む悪魔的な疲労感も、達成感によって上書きされ心地よく感じる。やっと終わった。彼女の脳内にはその言葉しか浮かんでいなかった。ぐしゃぐしゃの泣き笑いを浮かべつつ、エレナはハイウェイを見続けている。


「気が変わった」


「え」


 そんなエレナに水を差したのは葛城の一言だった。彼は腰のCz75Bとルガーの位置を直しつつ、常と変らぬ仏頂面で言った。


「もう一セットだ。いくぞ」


「は?」


それだけ言うと、葛城はエレナを一瞥もせず歩き始めた。もちろんハイウェイにではない。元居た鬱蒼としたジャングルへだ。エレナは呆然とそれを見ていたが、葛城がホルスターからCz75を抜くに至ってばね仕掛けの玩具のように立ち上がった。撃たれてはかなわない。この男が人を殺すのに何の躊躇もしない類の人間であることはエレナもよく知ってた。ぐずぐずしていては、間違いなく撃ち殺される。


「ひゅー、ひゅー、ひゅー」


 それからまた数時間。既にジャングルは真っ暗になっていた。極度に発達した樹冠は日光を通さない。夕暮れの時刻になればもう、夜と変わらない。葛城が持ったマグライトの白い光だけを標に、二人は歩いていた。葛城の歩調が出発時から一切変化していないのに比べ、エレナの歩く速度は明らかに遅くなっていた。ナメクジを思わせる力ない歩き方。もはや彼女の体力は限界に達していたのだ。やがてエレナは、唐突に白目を剥いて倒れ伏した。運悪く急な坂の中腹にいたため、そのまま足を滑らせ平坦な場所まで落ちる。そのまま動きをとめた。体はピクリとも動かない。


「この程度か」


葛城は振り向いてそう言う。表情からは一切の感情が窺えない。彼は足音もなく泥まみれになって倒れるエレナに近づくと、その腕をむんずと掴んだ。そして荷物のようにエレナの身体を引きづりながら歩行を再開する。その行く先は、いままでとは逆方向である。即ち、ジャングルの切れ目へ向かい始めたのである。

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