悪徳の街 第十五節

寂れた一棟のビルの怪談を、葛城とエレナは疾走していた。ひび割れ、埃だらけになったリノリウムの床を激しく蹴り、ずぐんぐんと加速していく。ここは街外れの廃墟街の一角、ツェツィらが潜伏しているという五階建ての廃ビルだ。永いこと放置され、荒れ放題になったビルだったが、エントランスには最近の物と思われる、多数の足跡がついていた。既にドミニクの私兵はこのビルへと突入しているのだろう。上層階からは、微かに銃声が聞こえてきていた。まだ戦闘は終わっていないのだ。


「まだなんとか……はぁ、はぁ……間に合いそうですね……」


息も絶え絶えのエレナが言う。彼女とは反対に全く息を乱していない葛城は、その言葉にこたえることなく立ち止まる。


「どうし……ムグッ」


しゃべろうとするエレナの口を、葛城は手で無理やり閉じさせた。遠くから微かに足音が聞こえる。こちらに近づいてくるようだった。おそらくは、敵だろう。葛城の脱走が伝わり、下層階に戦力を配置して挟撃を防ぐ腹積もりなのか。葛城は現在の武装の状況について一瞬思考を巡らす。Cz75Bには十六、予備弾倉は十六発入りのものが三つ。M60は六発入りで、スピードローダーを二つ持っている。後は、各種ナイフと暗器類だ。敵はおそらく手練れを揃え、武装も自動小銃や短機関銃などの強力なものを装備しているだろう。実に不利な状況だ。しかし、絶望的ではない。この程度ならば修羅場にもならないと葛城は思いながら、Cz75を抜いた。既にセイフティは解除済みで、ハンマーもフルコック。臨戦態勢だ。


「向こうに非常階段がある」


葛城が小さな声で言った。指差した先には、ひび割れまみれのガラス戸があった。


「アレを上って行けば、屋上につく。行け」


「か、葛城さんは?」


「おれはここで敵を迎撃する」


敵戦力の一極集中を防ぐには、それが一番だと葛城は言う。確かに、その通りだ。しかし葛城がいくら強いとは言っても重傷の身。一人で大丈夫なのかと、エレナは葛城を窺い見る。


「手前は他人を心配できるほど強くはないだろうが。手前が居たって戦力が上がるわけじゃない。邪魔だからさっさと行け」


照れ隠しなどではない。これは葛城の本心だった。中途半端に味方が居たところで、連携が取れるわけでもない。せいぜい弾除けくらいにしかならないのだ。むしろ、射線や流れ弾などに注意を払わないといけないぶんじゃまだともいえる。エレナが居ない方が、葛城としてはのびのびと戦えていいのである。


「……わかりました」


そんな彼の考えは、エレナにも理解できた。ならば、自分のやるべきことはいち早く主のもとに駆けつけ、助力することだろう。エレナは、スカートの中からM1903を取り出した。.32ACPを八発装填することのできるこの古い自動拳銃は、彼女の心のよりどころだ。初めて人を殺した時も、この銃を使ったのである。設計から百年以上経過したアンティークモノだが、その性能は現在でも十分に通用する。マイルドな反動からくる精密射撃は、低威力の弾丸と言う短所を補って余りあるとエレナ考えていた。


「死なないでくださいね」


エレナはM1903に初弾を装填しながら言った。葛城はふんと鼻を鳴らし、答える。


「約束はできないが、まあ善処する」


葛城らしい言い方だと、エレナは笑った。生存を確約しないのは、確実に生き残れる戦場など存在しないと知っているからだろう。下手に口先だけで『必ず生き残る』なんて言うより、よほど誠実な態度……なのかもしれない。


「では、行ってまいります」


「ン」


返答は簡潔だった。エレナはそんな葛城を一瞥もせず走り出す。目標はもちろん、非常階段だ。蝶番が錆びて開かなくなったガラス戸を力づくで開く。南洋の暑い風がメイド少女の頬を撫でる。既に空は茜色に染まりはじめていた。錆びてボロボロになった鉄製の階段がビルの上に伸びている。踏み外さないように気を付けて、出来うる限り急いで階段を上りはじめるエレナ。その足取りに、迷いはない。判断が下れば、後は行動するだけだ。行動を起こしている途中で迷うなんてことは、あってはならないのだ。迷いは隙を生む。今のエレナができるのは、自分と葛城の判断を信じ行動することだけだった。


「……」


しかし、迷いがないなんて言うことは、あくまでも表面上の話だ。いくら戦闘訓練を受けていようが、彼女はあくまでも十四歳の少女にすぎないのだ。頭の中では、ぐるぐるといろいろなことが渦巻いていた。主であるツェツィのこと。葛城のこと。自分のこと……。もしかしたら、ツェツィも自分も葛城も、明日の日の出を拝むことはできないかもしれない。全員死んでしまうかもしれないのだ。エレナには、それが怖くて怖くてたまらなかった。


「ああ、嫌だ嫌だ」


一人になると、不安になるようなことばかり考えてしまう。彼女は一人が嫌いだった。周りに誰もいないと、自分が空っぽな人間であると嫌でも自覚してしまう。流されるまま行き、たまに自分の意志で行動したかと思えば、十中八九それは性癖に引っ張られての行動だ。自分の意志で何かをするということが、彼女はとても苦手だった。なんといっても、自分の本能を抑えられない程度には意志薄弱なのだから。


「なんで、こうなっちゃったんだろう……」


思考の深みにはまりかけるエレナ。しかし、それは途中で強制的に止まる羽目になった。非常階段の段が錆びつき、足を踏み出せば鉄板を踏み抜いてしまいそうな状態になっていたのだ。これでは、進むことはできない。目的地の屋上はすぐそこだ。


「いったん降りて五階から行こうかな……」


ツェツィがどこに潜伏しているのかはわからないのだ。それが賢明だとエレナは考え、踵を返そうとする。だが、彼女の耳が誰かの声を捉えた。


「……おまえ……たよ。…………杜撰……」


風に流されてよく聞こえないが、これは間違いなくツェツィの声だとエレナは確信する。出所は間違いなく屋上だ。どうも、誰かと話しているらしい。それも好ましくない相手とだ。もちろん、そんな相手などドミニクしかいないだろう。きっと、ツェツィは屋上に追い詰められているのだ。わざわざ下から迂回する余裕など無いようだった。エレナは意を決し、ホルスターに銃をしまうと錆びてボロボロになった手すりを見た。見た目はひどいものだが、仲間で腐食しているわけではないようだ。これならば、自分の軽い体ならば支えられるだろう。そこまで考えるや、エレナは手すりに飛び乗った。腕の力を頼りに、体を無理やり引き上げては編み上げブーツに包まれた足で体を固定し、また高いところに登って行く。強風が体を揺すり落ちそうになるが、あらんかぎりの力を振り絞って上り続ける。ツェツィには、大恩があるのだ。ただでさえ自分の自己満足のためにこのビルへの到着を遅らせてしまっているのである。間に合わなかった、なんて事態になれば死んでも死にきれない。


「こっ……のおッ!」


 全身全霊の力を尽くし、エレナは何とか屋上に到達した。昇り切った拍子に気が抜けて手を放してしまい、ゴロゴロとコンクリートの床を転がる羽目になる。


「エレナかッ!」


叫んだのはツェツィだった。いつもの服を着て、いつもの不遜げな表情を浮かべている。怪我などもしていないようだった。エレナはほっと安堵のため息をついて立ち上がり、M1903を抜いて辺りを見回す。ジョックと楊に守られたツェツィと、黒いBDUを纏った兵士四人に護衛されたドミニクが対峙している。兵士は戦闘服の上から重そうな防弾ベストを身にまとっている。形状から見るに、小銃の弾丸も防げるセラミックプート入りの防弾ベストだろう。武装も新鋭のアサルトライフル、レミントン・ACRだ。相当装備の充実した相手である。


「くッ…」


しかも、突然現れたエレナに全く動揺していない。落ち着いた、泰然自若とした態度だ。そこらのチンピラや軍人崩れよりもよほどイイ訓練を受けた連中に違いない。おそらくは、元特殊部隊員。とてもではないが、油断できる相手ではないだろう。


「おやおや、エレナさんではありませんか」


そんな圧倒的有利な状況であるせいか、ドミニクはひどく不遜な態度で言った。


「葛城さんはどうしましたか? 死にました?」


「まさか」


皮肉げな笑みでエレナは返す。


「ピンピンしてますよ。きっと今頃、貴方のその御大層な部下たちを鏖にしています」


「ふふふ……」


そんな精いっぱいの強がりも、ドミニクには意味をなさなかった。引き攣ったような醜悪な笑みを浮かべ、心底馬鹿にしきった表情で吐き捨てる。


「こいつらは米軍や英軍の退役兵から集めた精鋭ですよ。そして下に向かわせたのは十一人。いかな葛城さんとはいえ、生き残ることなどできません」


自慢げにそう言うドミニクに、黒い兵士たちは下卑た笑みで追従した。銃をわざとガチャガチャと鳴らして見せ、レイルに取り付けられたレーザーサイトの光をエレナに浴びせかけて威圧する。エレナは反論できない。葛城の強さは知っている。しかし、状況が悪すぎるのだ。葛城はあちこちに重傷を負っていた。エレナの見る限り、肺などの重要な臓器すら傷ついているようだったのだ。さっさと病院で適切な治療をしなければ、銃弾ではなく怪我が原因で死んでしまうかもしれない。それほどの怪我だ。


「……でも」


葛城は、それでもこうしてこのビルにやってきた。それはきっと、勝機があってのことに違いない。葛城は馬鹿正直に勝てない勝負に乗るような男ではないはずだ。エレナはそう信じてドミニクに銃を向けるしかなかった。


「ふん、小物の物言いだな」


勝利を確信したような態度のドミニクを心底馬鹿にしたような顔でツェツィが言う。


「断言するがね、そういう態度をとる人間は十中八九、一転攻勢されると弱いんだ。泣いて詫びながら、赦しを乞う羽目になる」


ツェツィの顔に、追い詰められたような色はなかった。あくまで自分が一番偉いのだ、という態度を崩さない。まさに王者の風格だった。少なくとも、四人の手練れに銃を向けられた若い女性の態度ではない。


「くそ、お前のそう言うところが、俺は大っ嫌いなんだ」


ドミニクの口調が崩れた。彼は、心底嫌そうな顔でツェツィをねめつける。


「いっつもいっつも、上から見てきやがって。殺したくなる」


「では殺せばいいだろう。今のお前にはそれができるはずだよ」


「……クソがッ!」


ドミニクはそう吐き捨てるが、部下に命令を出すことはない。


「あえてそれをやらない、ということはだ。お前の計画には、まだ私が必要なんだろうな」


「何もかも見通し、とでもいう気か? 馬鹿らしい。この状況ならだれでも気付くことだ。偉そうな顔をするのはやめろ」


要するに、ドミニクはツェツィと結婚してバルコヴァー家の実権を握る気なのだ。そのことは、ドミニクが真犯人であると薄々感づき始めたころから想像できた。


「こういう細かな作業はお前の得意分野だと思っていたのだがな。途中からあまりにも計画が杜撰になりすぎていた。お前が犯人だと、自供しているようなものだったぞあれは」


「ふん」


ドミニクは鼻を鳴らす。もちろん、アルトゥルの拘束云々という話の時だ。あんなに都合よく証拠が挙がってきたというのでは、アルトゥルは犯人ではないと言いふらしているようなものだろうとツェツィは笑う。


「もともとここまで性急にコトを進めるつもりはなかったんだよ。お前の妹がもうちょっと馬鹿なら、こんな穴だらけの状態で実行に移さなくても済んだ」


なるほどな、とツェツィはさびしそうに笑った。彼女の妹、ヘルミーナは聡明だった。ドミニクのクーデター計画に気付きかけ、ドミニクは慌ててヘルミーナを殺し不完全なままクーデターを実行したということだろう。


「相変わらずアドリブには弱いな、お前は」


せせら笑うツェツィにドミニクは青筋を浮かべる。


「お前は殺せなくても、そこの餓鬼や野郎どもならいつでも殺せるんだぞ? 言葉を慎んだらどうだ」


「勝てる勝負でわざわざ譲渡する馬鹿はいない。そうだろう?」


ふふんとツェツィは自慢げに言う。エレナはすっかり顔色を悪くしていた。なぜ自分の主は、この状況でドミニクを煽るのか。ちらと男衆の方に目をやると、ジョックも同様の渋い顔をしている。楊に至っては完全に頭を抱えていた。


「気でも狂ったのか?」


ドミニクは苦虫を噛み潰したような表情をしながら吐き捨てる。


「いついかなる時でも、自分が上位者であるという態度を崩さない。嫌な女だ、本当に」


「ま、自覚はしているよ」


肩をすくめるツェツィ。あくまでも、余裕の表情だった。自分の敗北など考えられない、という傲慢な態度。


「本当に腹の立つ奴だ」


憎しみのこもった眼で、ドミニクはツェツィを睨みつけた。


「気が変わった。お前は殺す」


「ほう?」


ツェツィは面白そうに笑い、襟を静かに撫でた。そんな彼女に、ドミニクは懐から銃を取り出してスライドを引き、構える。


「構うものか。お前が死んだってやりようはいくらでもあるんだ」


銃を構えるその姿に躊躇は見られない。もともとツェツィを殺す予定はなかったものの、周到なドミニクはツェツィが死んだ場合のプランも用意していた。


「這い蹲れ。そして命乞いをしろ。そうすれば、許してやる。これが最後の警告だぞ」


「ふふ」


ドミニクの言葉にツェツィが笑う。馬鹿にしたような、憐憫すら混じった傲慢な笑みだった。


「潮時だな。やれ」


「何を、言って……」


次の瞬間、ドミニクの胸に銃弾が突き刺さった。ジョックや楊が撃ったわけではない。もちろんエレナもだ。ドミニクが血を吹きだしながら倒れるのと同時に遅れて銃声が聞こえてきた。遠距離狙撃だ。それを理解するよりも早く、エレナは引き金を引いていた。狙うは黒服ども。いくら重防御をしていても、、関節部はカバーしきれない。銃口を黒服の肩に向け、一瞬躊躇するも照準を調整し、発砲。.32ACP弾が黒服の一人の首元を抉った。同じようにジョックと楊も銃を撃っていた。数でも武装でも劣る自分たちの勝機は、クライアントが突然死亡したことで生まれたこの隙しかないのである。そして、そのことを理解しないような盆暗はこの場にはいなかったのだ。


「……よし」


兵士たちの最後の一人が全身をジョックが放った5.56mm弾で撃ちすえられ倒れ伏すのを確認したのち、エレナは頷きながら駆けだした。葛城を早く助けなければならない。エレナは必至だった。

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