悪徳の街 第十三節

腐肉の臭い。ぶちまけられた臓腑の臭い。乾いた血の臭い。落ち着く臭いだ、葛城はそう思った。この臭いをかぐと、とても落ち着く。葛城にとって死は忌むべきものではなく、幼いころから慣れ親しんできた竹馬の友だった。今更死の臭いを嗅いだところで、嫌悪感を抱くことはない。


「いい加減に吐け、栂」


葛城の目の前にいるのは例の銀髪の青年、ケインだった。彼は焼けた火箸を片手に、壁に拘束された葛城をねめつける。あの後目隠しをされた葛城が次に見たのは、このレンガ造りの牢屋の鉄格子だった。鎖と鉄の手枷で、かれは拘束されている。


「ツェツィーリエが姿を消して既に半日、街中を捜索したが見当たらない。お前が隠れ家を提供したんだろう?」


「……」


葛城は答えない。常と変らぬ茫洋とした瞳で、天井を睨みつけている。視線の先にある赤さびた換気口は全く機能していないようで、よどんだ空気は一向に消えることはない。そんな彼の様子に業を煮やしたケインが葛城の腹に焼け火箸を押し付けた。シャツをはぎ取られ露わになった逞しい腹部に、ひどいやけどが上書きされる。生々しい傷跡に覆われた体には、既に幾多もの新しい傷が刻まれていた。部屋に人肉が焼ける臭いが広がった。ケインは自分がやったことであるにもかかわらず、その悪臭に思わず顔をしかめた。


「……」


しかし葛城は声一つ上げず、表情も変わらない。何も感じていないような様子だった。


「くそ、痛みには慣れているのか? 厄介な」


ケインが憎悪に歪んだ表情でそう吐き捨てる。火箸を床に投げ出し、部屋の真ん中に置かれたパイプ椅子にどっかと座りこんだ。豊かな頭髪に覆われた頭皮を乱暴にガリガリと掻きながら葛城に向かって言う。


「俺はな、お前が何も言わなくったって別にかまいやしないんだ。ドミニクとは所詮その程度の付き合いだ。一日二日一緒に仕事しただけの男にはなんの義理も感じやしないからな」


鼻を鳴らしながらそう言うケインからは、確かにドミニクに対する敬意など欠片も感じることはできない。


「俺はお前が殺せればそれでいい。なんなら、拷問中の事故ってこと片付けたっていいんだ。でもな、流石にさっくりと殺しちまうのは不味い。出来るだけ苦しませてからじゃなきゃあの男は納得しない」


「……」


「だから早くあの女の居場所を吐いた方がいい。苦しんでから死ぬのと楽に死ぬのじゃ、楽に死んだ方がましだろう、なあ?」


葛城は答えない。ただ例の真っ黒な目で、どこか遠くを見続けている。いや、もしかしたらなにも見ていないのかもしれない。どちらにしても、ケインの言葉を聞いていないのは確かだった。


「何とか言えよ、おいッ!」


ケインが激高し、ホルスターから銃を抜く。スライドが削られバレルが露出した独特の外観を持つその拳銃を葛城はちらりと一瞥し、また視線を逸らす。ケインは力いっぱい歯を噛みしめ、反射的に引き金を引いた。銃声が二回鳴り響く。葛城の身体が着弾の衝撃で震えた。腹に二つ、9ミリ弾による銃創ができていた。傷口から血が流れ出す。


「……」


それでも、葛城は無言だった。かといって、絶対に吐くものかという気概が見えるかと言えば、見えなかった。ひどくどうでも良さそうな、投げやりな姿勢。葛城はケインが何をしようが、別にかまわないという雰囲気を纏っていた。ひどく退廃的で無気力な瞳。ケインはそんな彼の目に体を震わせる。ひどい悪寒を感じていた。


「畜生ッ!」


椅子から乱暴に立ち上がり、葛城の胸を思いっきり蹴る。軍用ブーツの強固なつま先と、下手な軍人よりもよほど鍛えているケインのキック力の組み合わせは十分人間を殺傷できる威力があるだろうに、葛城は咳き込むだけで何の反応も返さなかった。しかし、つま先が胸に当たった時の音は尋常なものではなかった。きっと、骨の一本や二本は折れているだろう。咳の様子もおかしい。もしかしたら、肺も痛めたのかもしれなかった。


「あの、ケインさん、そのくらいにしておいた方が……」


後方で控えていた一人の男がケインを止めた。葛城がチラリとその男を一瞥する。記憶にある男だ。ダウンタウンの警察官の一人が、こんな男だった。なるほど、ここはダウンタウンの警察署らしい。人に言えないようなことをするにはぴったりの場所だ。この街の警察署など、マフィアのアジトとなんら変わらない。金と欲望の渦巻く、汚れた悪人共の巣窟であった。


「ああ?」


ケインが凄む。そこらのチンピラならば即逃げ出すであろう鬼の形相だったが、そこはこの街の警察官。その程度の威圧など慣れっこだ。怯むことはない。


「こいつの恨み、俺は買いたくないんです。勘弁してください」


「恨みを買いたくないだぁ? こいつはこれから死ぬんだ。そんなことが関係あるか」


「……死んだところで、何とかなるとは思えないんですよ」


目を逸らしながらそういう警官に、ケインは詰め寄った。薄暗い牢屋の中で、警官は明らかに青ざめている。足は軽く震え、明らかに様子がおかしい。


「どういうことだよ、そりゃ」


「こいつはブギーマンだ。人喰いの化物なんだ。殺したところですぐに戻ってくるに決まってる」


「何を訳の分からないことを言ってる。こいつが人間の心も持ってない似非人なのは知ってる。だがな、それでも体は人間なんだ。殺せば死ぬに決まってる」


「こいつが人間?」


警官は葛城を一瞥する。畏れのこもった眼だ。


「冗談を。こいつは魑魅魍魎の類です。こんなのが俺と同じ人間だなんて思いたくもない」


ひどい言いぐさだったが、さりとて冗談でこんなことを言いだしたわけではないようだった。確かにこの警官は、葛城を化物の仲間だと思っているらしい。この時代に何を中世じみたことを、と呆れ顔を浮かべるケインであったが、ふと表情を改めて警官に言った。


「ならお前は出て行って構わない。むしろ出て行け」


「えっ、でもドミニクの旦那から……」


「構わん。俺から言っておく」


 ケインがそう言うと警官は明らかにほっとした表情を浮かべた。ケインに礼を言い、鉄格子のドアを開けて部屋から出て行った。金属の戸が閉まる甲高い音がして、また部屋に静寂が戻る。周囲からは、さっきの警官の足音と、ケインの荒々しい息遣いしか聞こえない。そのほかには何もない。まるで死に絶えたような空間だ。おそらくこの牢は、警察にとって都合の悪い人間を殺したり拷問したりする場所なのだろう。死の臭いが濃厚なのは、ここで何人もの人間が死んで放置されているからに違いない。ひどく不気味な場所で、ケインは落ち着きなく体を揺らしていたが、対する葛城はひどく落ち着いている。普段の険のある表情もいくぶん和らいでいるようだった。


「……ふん」


鼻を鳴らしながら、ケインはそんな葛城を眺める。ひどく不愉快そうな表情だった。


「バタヤ村を知っているか」


「知らん」


意を決したような表情で言うケイン。葛城は初めて答えたが、しかしそれは短く簡潔な否定の言葉だった。ケインは首を振り、ため息をつく。


「この国の、山岳部にあった村だ。お前たちに皆殺しにされて消えた、沢山の村々の一つ」


「……」


軽くせき込みながら、葛城は脳内を探ってみる。バタヤ村。いくら思い出そうとしても駄目だった。心当たりがないからではない。心当たりが多すぎるのだ。


「……お前たち、特殊対応部隊……STFがかつての反政府軍内で結成されたのが、十数年前だったか」


「十五年前だ」


掠れた声で言う葛城に、ケインは頷いた。内心、釣れたと快声を上げる。暴力ではなく、過去から締め上げるべきだったのだ。自分はこの男の恥ずべき過去を知っている。死ぬ思いをして調べたのだから当然だ、とケインは思っていた。ドミニクが葛城の過去の名前を知っていたのも、ケインの入れ知恵である。

 葛城は多くの欺瞞を抱えた男だった。名前も経歴も、そして顔さえも全て偽物。そんな彼の真実の過去を知っているのがケインだった。彼は昔、一度だけ葛城に会ったことがある。


「反政府軍を裏から操っていた米国……いや、CIAの手引きでSTFは生まれた。当初の任務は後方攪乱や人質救出など、あくまで真っ当な任務を扱う部署だった。この時点ではまあ、まだ公式文書にある普通の特殊部隊という扱いだった」


だが、とケインはつづける。彼の眼はすっと細くなり、葛城の変化を見逃すまいと今までになく真剣な目つきになっていた。しかし、いまだ葛城の様子に変化はない。その余裕もこれまでだとケインは切り札を切ることにする。


「だが、国民の間で厭戦感情が蔓延りはじめたのが、お前たちの任務の性質が変わりはじめるきっかけとなった」


「……」


葛城は答えない。無言で虚空を睨みつけ、時折急き込んでいるだけだった。身じろぎをするたびに、古びた金属製の拘束具がキィと音を立てる。


「国民を政府軍のふりをして、出来るだけ残虐な方法で殺す。これで国民の反政府感情を煽ったんだ。その目論みは見事に当たった。当然だ」


ケインは一瞬目を逸らす。まるで、自分の傷口を自ら抉り出すような様子で、ケインは再び葛城の目を見据えた。そして、絞り出すような声で続ける。


「あ、あんなひどい殺し方をしたんだ。そして偽装も完璧だ。俺だって、最初はすっかり騙されちまった。この目であの惨劇を目にしたにもかかわらず、な」


自嘲するかのように、ケインは笑みを浮かべた。無理やり浮かべたような引き攣った笑み。悲壮さすら感じる表情だ。


「時には味方部隊すら毒牙にかけつつ、お前たちは成果を上げて行った。何人殺したのか、自分たちでも覚えていないだろう? わずか百人の部隊に、何千人もの罪のない人々が殺されたんだ」


「……」


葛城は何の反応も返さない。ただただ無言だった。しかし、何かを考えているようでもある。ケインは話を続けることにした。


「その甲斐あって、国民感情はどんどん反政府側に傾いて行った。逆に政府軍への批判は凄まじく、欧米諸国をはじめとした先進国からさえ文句をつけられる始末。……その中心となったのは米国だったな。おおもとの指示をだしたのはあいつらだろうに、面の皮があついことだ……ッ!」


畢竟、反政府軍はアメリカの手先でしかなかったのだ。あの腰抜けの司令部にこんな大胆な作戦を立案・実行するような度胸はなかっただろうとケインは考えていたし。それは限りなく事実に近しい推理であった。


「そして、長い長い内戦が終わった。反政府軍の勝利でな……だが、お前たちは止まらなかった」


葛城の目をじっと見ながらケインは言う。しかし、その瞳の色に何ら変化はない。流石にケインは不安になってきていた。葛城の心を揺さぶれないかもしれない、という危機感からではない。そんなこと、ケインにとっては最初から二の次だ。ケインの恐れとは即ち、自分の味わった絶望が、その原因たる葛城にとっては取るに足らない出来事でしかないかもしれないという現実だった。ケインがそう考えてしまうほどに、葛城の反応は薄い。


「お前たちSTFは停戦命令も聞かず、民間人を、そして味方を虐殺し続けた……なぜだ?」


「……わからない」


「わからないだと?」


ケインが片眉を跳ね上げる。この葛城と名乗る男が、その実かの味方殺し部隊STFの隊員の一人である栂辰己と同一人物なのは、確かな現実なのだ。それがわからないという理由がわからなかった。彼らは、彼らこそが当事者であるのだから。


「人を殺し続けないと……精神の安定が保てないやつがいた。このまま歴史の闇に葬られるくらいなら最後に大暴れ……ッごほっ……しようとした奴もいた。状況をそもそも理解できる脳みそすらなくした……やつもいた。みんな、事情は違った」


苦しそうな声とは裏腹に、葛城の表情は平坦だった。顔色も変えてはいない。ただ単純にダメージを食らっているだけ。身体の傷の深さと当人の様子に、あまりに溝がありすぎる。植物を思わせる無反応っぷりだった。


「……要するにろくでもない連中しか残ってなかったってことだろう」


ケインは自分の首筋をさすりながらそう言い放つ。牢屋に冷房などついているはずもなく、室内はひどく蒸し暑い。汗が無節操に出ては鼻筋を伝って床に落ちるほどだった。しかし、なぜかケインは寒気を感じていた。STFは、葛城たちは、きっと全員狂ってしまっていたのだ。だから、常人には理解できないようなことを平気でやらかす。それが怖くて仕方なかった。


「……」


葛城は答えない。否定もしなかった。


「俺の妹はな、お前たちに殺された被害者の一人だ。いや、妹だけじゃない。親父も、お袋も、優しくしてくれた隣のおじさんも、みんなみんなお前たちに殺された……ッ!」


底なし沼のようにどろりとした怨嗟の声。底の見えない、憎悪と憤怒に染まった声。恐怖で後ずさりしそうになる体を、憎しみだけを頼りにケインは奮起させた。目の前には鎖につながれた憎い仇が居る。そう、拘束されているのだ、奴に体の自由はない。何を恐れることがあるというのか。ケインは過去の惨状を脳裏に浮かべる。血に染まった忌むべき過去を。


「妹は、全身に釘が刺さった状態で木に磔にされていた……覚えはあるか?」


「ない」


葛城は即座に否定する。事実、彼には覚えはなかった。磔など、もっとも多く行った殺人のパターンだ。いちいち各個の被害者を覚えているはずもなかった。憎しみを煽るためには、出来るだけ残虐な殺し方をする必要があったのだ。


「右手だけ切り取られて、どこを探しても見当たらなかった。……どうだ?」


「……ああ」


なるほどと葛城は頷く。恐る恐る、と言った様子でケインは葛城を見た。仇である葛城が、まったく自分の罪を自覚していないというのはあまりにも殺された妹が報われ無さすぎる。ケインはただその思いだけで葛城に対して妹のことを聞いていた。しかし……。


「若い女の右手にしか興奮しないやつが、居た。……そいつが"使えなくなるまで使って"そのあと捨てたんだろう。あいつは、死ぬ寸前まで死体の手を犯すことばかり考えてるような奴だった」


「……ッ!」


ケインは思わず葛城の腹を蹴った。葛城は血の混じった唾を吐きながらせき込む。ケインはなおも葛城を蹴り続けた。ただひたすらに、腹を蹴り続ける。鍛えられた腹筋に守られているとはいえ、あくまで生身の体。葛城は血を吐き、はぁはぁと浅く荒い息をつく。蹴られた箇所が真っ赤に内出血していた。


「このッ! この悪魔がッ! 許さねえ、お前だけは、お前たちだけはッ!!」


一体何に使ったのかなど考えたくもなかったし、考えなくてもある程度察することができた。できてしまった。だからこそ、ケインは我を忘れるほどの激情に身を任せる。このままこの男は殺すべきだ。その方が絶対に良い。復讐心と正義感。二つの感情にケインは突き動かされていた。


「……」


葛城はしかし、それほどの暴行を受けてもなお表情を変えなかった。荒い息を吐きながら葛城を睨みつけるケインをしり目に、口内の血を吐きだしてぼんやりと中空を見つめる。この程度の暴力など日常の範疇とでも言わんばかりの態度だった。ここまで来ると不気味を通り越して気持ちが悪い。ケインはカカシでも相手にしているかのような気分になっていた。


「畜生、なんでお前みたいなのがシャバに出てきてるんだ、一度は捕まったんだろうが!」


ケインの言うとおり、葛城は数年前まで政府に拘束されていた。新政府軍の初仕事は暴走した葛城たちの鎮圧であり、STF残党のほとんどはこの鎮圧作戦で死亡した。しかし、ごくわずかながら生き残った者もいる。その一人が、葛城だった。その他の生存者については、葛城も知らない。


「……」


「どうせ、政府の汚い仕事でも任されてるんだろう、クソが」


葛城は答えない。だが、否定もしなかった。戦意高揚のために味方や民間人を殺す部隊。そんなものが公になれば、いまだ歴史の浅い新政府などあっという間に支持を失い転覆するだろう。しかし、事実としてこの国は内戦終結後、着実に経済成長を続けその勢いに陰りは見えない。新政府軍に殲滅され、恨み骨髄に徹しているはずの葛城がこうして釈放され、この国でのうのうと生活しているからには、何らかの取引があったというのは確かなことなのだろう。


「何が葛城圭だ。お前は栂辰己だ、名前を変えたからって罪が消えるわけじゃないんだぞ、ええッ!」


「罪?」


葛城はそこでふと、ケインの方を見た。その表情からは何の感情も読み取ることはできない。不機嫌顔と言う名のポーカーフェイス。これが意識してモノなのか天然なのか、それはケインには理解の埒外にあることだった。


「罪、罪か。ふん」


そう言って首を微かに動かす。あふれてきたらしい血をまた床に吐きだし、鼻を鳴らした。


「口数の多い奴だ。さっさとおれを殺せば楽になれるだろうに」


そう言ってまた視線を天井に向ける葛城に、ケインは頭を抱えた。強がりや、皮肉を言っている様子はない。事実を事実として述べているような、そんな他人事めいた言い方だった。この男は死ぬのが怖くないのだろうか。痛めつけられるのが怖くないのだろうか。きっと、きっと怖くないに違いない。ケインは葛城の身体に目をやった。ケロイド状の火傷跡。縫い跡。打撲痕。どうやってつけたのかすらわからない傷跡の数々。ケインによって新たな傷を上書きされてなお目立つほど、葛城の身体は傷跡だらけだった。


「それ、収容所でやられたのか」


「ああ」


収容所に収監されたSTF残党はひどい虐待を受けた……と、STF残党の行方について調べていたケインは聞いていた。当然だ。彼らに肉親や友人。恋人を殺された者は数多くいる。そうでなくても、彼らの行った数々の非人道的な行為は国民の間に知れ渡っているのだ。看守たちが義憤に駆られ、虐待を行ったとしても不思議ではない。傷跡を見る限り、想像を絶するような苦痛を味合わされたのは確からしかった。なるほど、ケイン如きのにわか仕込みの拷問では彼は気にならないらしい。実に腹立たしい事実だった。


「クソッタレ……」


ケインはどうしようもなくなって座り込んでしまった。今すぐ殺すという手もあるが、ここまで肉親を冒涜したような奴を楽に死なせてやるような気は、すっかり失せてしまっていた。しかし、だからといって現状打つ手はないのだ。これ以上葛城に暴力を振るえば、流石の彼も死んでしまうかもしれない。いままで拷問などやったことのないケインには加減などわからないのだ。


「ケインさん!」


 バタバタと乱暴な足音と共に先ほどの警官が入ってくる。ケインは慌てて立ち上がり、彼の方へ振り向いた。表情は既に平静なものに戻っている。


「ツェツィーリエの居場所がわかりました、街外れの廃墟に潜んでいるそうです! ドミニクの旦那が応援を寄越せと……」


「ちっ」


ケインは葛城を一瞥する。どうするべきか一瞬悩んだ。しかし、今はどうすることもできない。


「仕方ない、行くか。こいつを手当てしておいてくれ。まだ死なれちゃ困る」


「は、はあ……」


内臓や骨はともかく、銃創の方は早々に何とかしておかないと失血死しかねない。警官は頷くと、備え付けの救急箱から包帯や消毒薬などを取り出し始めた。尋問中の相手をそうやすやすと死なさせないために、わざわざ置いてあるのだろう。ケインはそれを一瞥したのち、小走りで牢から出て行く。


「すんません、痛いでしょうが恨まないでくださいよ……」


警官はそんなことを言いながら手慣れた様子で傷口を消毒して包帯を巻いていく。葛城は抵抗することもなくなされるがままになっていた。やがて、あっという間に応急処置は終わった。満足げに包帯がずれていないか触ってたしかめる警官。意外と几帳面なそんな彼を、チクリと小さな痛みが襲う。


「えっ……」


頬だ。頬にひっかき傷ができていた。


「やっとか」


鼻を鳴らす葛城の指には銀色の指輪がはまっている。よく見ればなんと、その指輪から小さな針が伸びていた。


「この針には毒が塗ってある。解毒剤を飲まなければ、数時間と立たずに全身に発疹が現れ、凄まじくかゆくなってくる」


呆然とする警官に、葛城は淡々と語り始めた。最初からこれを狙っていたのだろう。鎖が軋み、不愉快な音を立てた。警官の顔色はどんどんと悪くなってくる。


「そうなれば後はあっという間だ。全身を掻きむしってお前は死ぬことになる。解毒薬は貴重なもので、早々手に入らない。俺から直接貰わなければな」


下手に死ぬよりよほど恐ろしい効果の毒薬だった。全身を掻きむしって死ぬ。警官は聞くだけで怖気が走った。


「さっさとこの拘束を解け」


既に攻守は反転していた。命令する側が葛城で、従うのは警官だ。拒否権はないだろう。警官は慌ててポケットから鍵を取出し、手枷を外した。


「よし」


葛城は頷き、天井に目をやる。その瞬間、換気口がけたたましい音とともに蹴破られ、中からロープと共に一人の少女が落ちてきた。エレナだ。


「なにッ!?」


目を剥いてホルスターに手を伸ばす警官だが、遅い。葛城の蹴りが彼の胴体に突き刺さった。けが人の一撃とは思えないほどの威力。警官は鉄格子まで吹き飛ばされ、頭を打ったらしく目を回す。葛城は落ちていた包帯を拾い、警官のもとに歩み寄ると首を包帯で絞めた。警官はバタバタと暴れるが、じきに静かになる。気管閉塞ではなく、動脈閉塞による死だ。窒息よりもよほど早く死ぬ。


「て、手早いですね」


「……」


葛城は答えず、ちらとエレナに視線を向ける。彼女はなぜか葛城のジャケットを羽織っていた。


「とりあえず、葛城さんの所持品らしきものは全部回収しておきました」


そう言って差し出したのはホルスターに収まった自動拳銃だ。回収の手間が省けたと葛城は言いつつ、受け取ってベルトに固定する。更にジャケットも奪い取ってさっさと羽織った。自分のものではない香りと体温。葛城は不快そうに顔をしかめる。幸い、ポケットの中身には手を付けられていない。葛城は煙草を取出し、火をつけて煙を思いっきり吸い込んだ。ニコチンとタールが肺を通して体を巡る。幾分、顔色がましになったようだった。


「……お嬢様、見つかっちゃったみたいですし、早く脱出しましょう」


葛城は静かに頷いた。視線の先にはロープ。一応仕事として頼まれたことは終わったが、ここで放置すればドミニクやケインにまたちょっかいをかけられるかもしれない。面倒事を避けるためにも、早々にカタを付けたほうがいいだろう。葛城はCz75のスライドを少し引いて装弾を確かめた。初弾はしっかりと装填されている。


「よし、面倒が省けた。助かる」


更に受け取ったポーチを腰に固定しながら、葛城は頷いた。エレナが助けに来なければ、あるいは気が利いていなければ自分で回収する気でいたのだ。珍しく葛城が人に感謝していた。まさか葛城がこんなことを言いだすとは思っていなかったらしいエレナは目を丸くしたが、葛城は気にしない。


「行くぞ」

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