悪徳の街 第九節

「栂だな。お前は栂辰己だな」


銀髪の男を追って部屋に飛び込んだ葛城が耳にしたのは、そんな言葉だった。葛城はそれには答えず、ゆっくりと周囲を見回す。そこは、背の高い本棚の乱立する大きな書斎だった。まるで小さな図書館のような様相であり。おそらくは二階の面積のほとんどを占めるほどの面積だろう。ゴドーという男は、顔に似合わず愛書家なのかもしれない。


「答えろ」


銃声が響いた。この鋭い音は9mmルガー弾だと葛城はあたりをつけつつ、煙草を床に落として踏み潰し、新しい煙草に火をつける。


「……」


質問に答える気はないらしい。紫煙をゆっくり吐きつつ、葛城は頭を巡らせた。この気配、覚えがある。前々から自分を付け回していたやつだ。昨日のカフェでツェツィと話していた時も感じた気配だと、葛城はふと思い出した。


「答えろと言っているんだッ!」


再び銃声が響き、葛城の立つ場所の近くが銃弾で削れた。敵の姿は見えない。本棚の陰にうまく隠れているのだろう。だが、銃弾の射線は見ることができた。葛城はライフルのセレクターをフルオートに合わせ、敵が潜んでいると思わしき場所にマガジンに残った弾丸を全て吐き出した。


「チッ!」


銀髪の男が舌打ちをしつつ本棚の後ろから飛び出してくる。手には拳銃が握られていた。こういった閉鎖空間では、下手な長物より小回りの利く拳銃の方が役に立つだろう。葛城もそれは理解しているのか、ボルトの下がりきったM4A1を捨て、ホルスターから拳銃を抜く。セイフティも解除されていた。


「……」


「ッ!?」


二人の男は同時に発砲した。二発の9ミリ弾が虚空を切り裂き、無為にその弾頭を散らした。銀髪の男は飛び出した勢いを利用し、葛城は軽く体を逸らし、各々弾丸を回避したのだ。銀髪の男が走った。葛城はその姿を既にサイトに捉えている。二発、三発と銃声が響き渡った。無煙火薬と言う名前からは少し考えにくい量の白煙が銃口から立ち上り、銃弾発射されたものの銀髪はその射撃を予測していたらしい。上手くジグザグに走ることでそのすべてを回避していた。


「俺はケイン・ルギウスだッ! この名前に覚えはあるかッ!」


「ない」


鬱陶しそうに答える葛城に、ケインと名乗った男は表情を歪ませる。


「やはりな」


全て予想済み、といった声音だ。余裕が感じられる。葛城はそんな相手を気にすることもなく紫煙を燻らせていた。薄暗い室内に赤い微かな光が灯る。その灯りに照らされた葛城の表情は、至極冷静であった。


「栂、俺の家族は貴様に殺された。顔を変え名前を変えようとも、俺は貴様をこうして見つけ出した!」


発砲炎が瞬いた。葛城がまたも撃ったのだ。ケインの話には徹頭徹尾興味がないらしい。その射撃もケインは遮蔽物を上手く利用して回避する。また彼の姿が見えなくなった。どうも、姿を隠すのは得意らしい。狭く、そして遮蔽物の多い空間を最大限に利用していた。葛城はそれでも、微かな物音や気配を利用してケインの位置を把握しているらしく、ゆっくり歩きながら射撃を続ける。銃声が鳴り、スライドが後退し、空薬莢が床に落ちる。大きな書斎を、それらの音だけが支配していた。


「遮二無二撃ったところであたりはしないぞ!」


本棚の隙間から銃を突き出して撃ちつつ吼えるケイン。その射撃はしかしむなしく空を切る。攻撃を予想していた葛城は発砲の寸前立ち止まったのだ。素早い動きは一切していない。恐ろしく余裕たっぷりの態度だ。


「チッ」


反撃の銃弾を避けるためにケインは銃を引っ込める。彼の後ろの本の背表紙に一発銃弾がめり込んだ。


「なにっ!?」


その隙を葛城は逃さない。スライドの下がりきった拳銃をホルスターに戻しつつ、走り出した。目標はケイン……ではない。ケインの眼前の本棚だ。それに向かって、葛城は強烈な蹴りを繰り出したのだ。


「糞ッ」


ゆっくりと自分に向かって倒れ始めた本棚を見てケインは吐き捨てる。本棚には限界まで本が詰め込まれており、とても重そうだ。こんなものに押しつぶされればひとたまりもない。ケインは急いでその場から逃げようと走り出したが、その行く先を葛城が遮った。


「お前はッ! お前だけはッ!」


憎しみのこもった瞳で葛城をねめつけたケインは拳銃を向ける。しかし、葛城は怯まなかった。凄まじい速度で踏み込み、ケインが発砲する前にその腕を掴んだのだ。


「うわあああああああッ」


そのまま、葛城は彼を力任せにブン投げた。風切り音すら聞こえる凄まじい速度で飛翔したケインは本棚に衝突して床に落ちる。肺から空気が強制的に絞り出され、情けない声を上げるケイン。歪む視界の中央に葛城が立っていた。薄ぼんやりと光る煙草を咥え、手には銃を持っている。Cz75、ではない。小型のリボルバー拳銃だ。葛城は、リロードの時間を惜しみショルダーホルスターからバックアップ用のM60・リボルバーを抜いたのだ。


「クッ!」


葛城はその銃の引き金を躊躇なく引く。ケインは力を振り絞って身を逸らし、何とかそれを避ける。


「強い……」


思わずケインはそう呟いた。隙が一切ない。このままでは、必ず負ける。激情に支配されそうになる脳を頭を振ることで何とか冷却しつつ、彼は高速で思考する。ひとまずここはいったん引くべきだ。そういう考えに至り、腰のベルトにぶら下がった金属筒を手にとった。スタングレネードだ。力の入らない足腰を無理やり動かして立ち上がりつつ、ソレのピンを抜いて葛城の眼前に放り投げた。これで時間が稼げるはず。そう思いつつ、ケインは走り出した。目的の場所は窓だ。ここを突き破って逃走する腹積もりである。だが、そんな考えはお見通しとばかりに葛城は行動し始めた。まず、足元に転がってきたスタングレネードを真後ろに蹴り飛ばし閃光の影響を無くす。直後の凄まじい音響が葛城を襲うも、彼は顔色一つ変えない。落ち着いた表情でリボルバーの照準を奔るケインに向けた。引き金を引く。狙いは首元だ。しかし、彼が体を逸らしたために狙い通り命中することはなかった。あたったのは背中だ。しかしケインは出血することもなければ、倒れることもない。彼は防弾ベストを着ていたのだ。


「……」


次弾を発射する前にケインは近くの窓を破ってその目的を遂げていた。無感動な瞳でその姿を追っていた葛城だったが、落ちているM4A1を拾ってリロードしてから、踵を返して書斎から出ようとする。そして一瞬立ち止まり、本棚に目をやった。そのなかに興味深いタイトルを見つけ、手に取り懐に入れる。今度こそ、葛城は書斎を出て行った。


「あっ葛城さん、大丈夫でしたか!?」


 緊張した面持ちで短機関銃をゴドーに向けていたエレナが表情を緩めつつ言った。しかし、葛城は答えない。いや、答えられない。至近距離でスタングレネードが炸裂したため、一時的な難聴になっていたのだ。彼はツカツカとゴドーに近寄り、おもむろに蹴り倒した。


「な、何をすッ……!」


ゴドーの言葉に耳を貸さず右腕を体重をかけて踏みつけた。そして、腰のホルスターから拳銃を取り出す。スライドの下がりきったその銃に新たな弾倉を挿入し、スライドストップを解除する。微かな金属音を立てて、一発目が装填された。ゴドーは真っ青な顔でその様子を見ている。葛城は鉛玉の重さが加わったソレをゴドーの親指に向けて引き金を引く。


「ッ!?」


声にならない悲鳴を上げるゴドー。だが、葛城は止まらない。人差し指、中指、薬指、そして小指を順々に撃っていく。そのたびにゴドーはバタバタと暴れたが、長身で筋肉質な葛城の体重のほとんどが乗った足の舌から逃れることはできない。銃声が鳴るたびに、白くぶよぶよした指が部屋のあちこちに吹き飛んで行った。思いっきり葛城が腕を踏むことで血管が圧迫されているため大量出血こそ避けられてものの、骨と脂肪の白いモノと、筋繊維と血の赤いモノが入り混じったその傷口は見るからに痛そうだ。そんな様子を、エレナはなぜか顔を赤くして見ている。不思議と、息も荒かった。葛城は顔に一切の表情を浮かべずエレナを一瞥したのち、銃口をゴドーの手のひらに押し付けた。


「なッなんだお前はッ! 何が望みなんだッ! 金でも情報でも何でもくれてやる、だからこれ以上はッ……!」


行為そのものよりも、無言で拷問を続ける葛城に恐怖を覚えたらしいゴドーが叫ぶ。やっと多少聴覚を取り戻したらしい葛城は、銃口で彼の手のひらをこねくり回しながら聞いた。


「バルコヴァー家の件だ」


酷く冷静な声だった。まるで感情を動かしていないかのように聞こえる冷たく硬い声。普段彼は不機嫌そうな声で話す。しかし今はなぜかいつもと違う声音だった。だがそんなことは初対面のゴドーはもちろん様子のおかしいエレナも気付きはしない。


「バルコヴァー家……ぐっ」


半ば予想していたような顔でゴドーは呻く。


「くそ、ろくでもない。こんな仕事受けるんじゃなかった……ッグ!?」


ゴドーの掌に穴が開く。早く話せ、と言うことだろう。しぶしぶゴドーは口を開いた。


「ああそうさ、バルコヴァー家の連中にちょっかいを出したのは俺だ」


「誰から仕事を受けた」


左手で短くなってしまった煙草を持ち、血まみれのゴドーの手で火を消しながら葛城は聞いた。


「アルトゥルだッ……知ってるだろう……?」


「なるほど、次男の方か」


満足げに葛城は頷く。その様子にゴドーは必死の思いで縋り付いた。彼とて死にたくはない。藁をもすがる思いだった。


「そこの棚に奴から来た書類が隠してある……ッ」


探せ。葛城はエレナにそう言った。エレナははっと我に返った様子で棚を探し始める。葛城は、そんなエレナの様子を無表情に見ていた。やがて目的のモノを彼女は見つけたらしく、何枚かの紙をもって葛城の近くに歩いてきた。歩き方はぎこちなく、息は荒い。明らかに変だった。


「これですね……アルトゥル様の印が押されています。間違いないかと」


「そうか」


挿して興味のなさげな表情で、葛城は頷き銃口をゴドーの心臓に向けた。ゴドーは諦めきったような、疲れたような表情で言う。


「……まあ、こうなるか。せめて楽に逝かせて貰えるとうれしいんだがな」


「ン」


その言葉に葛城はしっかり頷き、引き金を引く。エジェクション・ポートから弾け飛んだ空薬莢が飛び、銃声が空しく響く。胸に大きな穴を開けたゴドーはどぼどぼとその穴から壊れた蛇口の如く血を流しつつ、即死した。


「ツェツィの所に行くぞ」


Cz75の弾倉を新しいものと交換しつつ葛城はそう言った。だが、エレナはそれを止める。


「すみません……あの人、治療してもいいですか?」


エレナが指差した先にいたのは、手足の関節を撃たれて地面に転がる全裸の娼婦だった。エレナが撃ったあの女だ。彼女は既にうめき声を上げる余力もなく床に横たわっているが、まだ何とか息はあるようだ。葛城はその様子を無表情に見つつ、新たな煙草を取出し手の中で一回転させる。そしてジッポで火をつけ、椅子に座りこんだ。


「ありがとうございます」


とても嬉しそうな表情でエレナは鞄から止血帯を取り出した。


「すみません、大丈夫ですか……?」


微かに震える娼婦にそう声をかけつつ手早く手当を始めるエレナ。止血帯で出血を止め、傷口に消毒液をかける。娼婦は苦悶の声を微かにあげたつつも抵抗はしない。いや、するような体力はもう残されていないのだろう。どう見ても手遅れだった。それでもエレナは治療を続ける。傷口を触れるたびに悩ましい吐息を吐き、股をもじもじとさせる。目はうるみ、充血している。どう見ても彼女は興奮していた。そんな様子を葛城はひどく無感情な目で眺めている。


「平気ですよ、すぐよくなりますから……ッ」


娼婦がピクリとも動かなくなってもエレナは手当を続けていた。葛城は音もなく立ち上がり、彼女の背後に立つ。そして、おもむろに娼婦の豊満な胸に銃弾をみまった。


「なっ……!?」


驚くエレナを、葛城は思いっきり蹴り飛ばした。地面を転がる彼女に、さらに葛城は頭のすぐそばを狙ってCz75を撃つ。ビゾンが吹き飛んで、からからとむなしい音を立てていた。


「ひぅっ……」


声にならない悲鳴を上げるエレナ。葛城は無表情な顔と氷のような瞳でエレナを見ていた。彼女のスカートを温かいものが濡らす。エレナは、恐怖のあまり失禁していた。銃弾が怖かったのではない。もちろん、蹴り飛ばされたことが原因でもない。葛城の目だ。彼の瞳には、熱さを通り越して冷たささえ感じるような色があった。目に見えて怒っているわけではない。感情の揺れさえ彼からは感じない。逆にそれがとても恐ろしかった。ヒトの形を模した凶獣、いや、人喰いの怪物とでも言おうか。それほどの非人間的な威圧感を、彼は放っていた。


「お前、あいつを喰いものにしたな」


そんな怪物が口を開いた。いつもと変わらない冷徹な声。


「あっ……」


熱く火照っていた脳がその声で冷却され、正常に動き始めた。それによって彼女は、今自分が何をしていたのかを理解する。理解してしまう。


「わ、わたしは、なんて、ことを」


あの娼婦の苦しみを、痛みを、エレナは自らの快楽にしていた。そのことに思い至り、彼女は顔を真っ青にする。これが初めての出来事では、無かった。


「また、やってしまったの……」


彼女は過去にも、同じようなことを経験していた。苦しむ人間を治療すると称し、さらなる苦痛を与えたあげく死に至らしめる。それがとてもとても気持ちよかったのだ。クスリよりも、性行為よりも。気を付けても直ることはなかった。今回のように、気付けば同じことを繰り返している。人命救助などと言うお題目を唱えて正当化しているあたり、とてもたちが悪い。本能が、意識を、そして理性をだましてしまうのだ。


「なんてことを、わたしは何度も何度も……ッ」


エレナの美しい翡翠色の瞳からぼろぼろと大粒の涙がこぼれる。奇妙な性癖に振り回される自分が情けなく、また恐ろしくもあった。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


娼婦の死骸に縋り付いて、エレナは泣きながら謝り続けた。顔を真っ赤に染め、大声を上げ、まるで肉親の遺体を抱くようにぎゅっと抱きしめながら。しかし、葛城はそんな様子を氷の瞳で見ている。


「自分を正当化するな。見てて……不愉快だ」


「正当化……?」


呆けたような顔でエレナが葛城を見る。


「そうやって謝ったって、何が変わるわけでもない。そいつが苦しみ抜いて死んだという現実も、お前がそれをやったという現実もな」


変わるのは精々、お前の罪悪感が多少薄れる程度だ。紫煙を吐き出しながら、葛城はそう続ける。ブラインドによって締め切られた暗い部屋の中で、煙草の光だけが煌々と輝いていた。


「ああ、あああ……」


涙と鼻水で整った顔をぐしゃぐしゃにしながらエレナは手で頭を押さえて泣き続けた。凄まじい血の臭いと微かな尿の臭いの漂う室内に、幼い嗚咽の声が満ちる。


「……」


葛城はエレナに銃を向けた。彼は、こういった手合いが大っ嫌いだった。いや、違う。今の彼を動かしているモノは、嫌いだなどと言うアクティブな感情ではなかった。もっと消極的で、切羽詰ったモノだ。彼はその感情に従い、彼女に銃を向けていた。しかしその姿に劇場に流されている様子はない。彼はあくまで冷静であった。ただ、異様なまでに静かで冷たい瞳で、エレナを見続けていた。


「殺して、殺してください、わたしを、殺してください」


絞り出すような声音で彼女は言った。救いを求めるような、そんな悲痛な響きだった。


「善し、死ね」


葛城は拳銃を彼女の胸に向けた。白いドットの入ったサイトはまっすぐに彼女の心臓が収まっている場所を捉えている。これで引き金を引けば、彼女は苦しむ間もなく絶命するだろう。葛城はトリガに指をかけ、エレナの目を一瞥する。


「わたしみたいな人間にもなれないケモノは、早く死ぬべきだったんです」


皮肉げな、それでいて悲痛な笑みを浮かべてエレナはそう言う。葛城はその言葉に、ぴくりと銃を動かした。


「ケモノだと」


その瞬間、エレナは葛城が笑ったような気がした。表情は動いていない。しかし、確かに彼は笑っているような声で続ける。


「ニンゲンさ。おれもおまえも、確かにニンゲンだ」


葛城らしくない、ひどく感情のこもった声だった。エレナは目を見開き、首を激しく振る。


「違います!」


「なにが」


葛城は鼻を鳴らして吐き捨てる。


「ニンゲンだろう、どう見てもな」


「違う、違うんです、人間はもっと温かくて、優しくて……」


エレナのどこか確信したかのような声音に、葛城は片眉を跳ね上げた。咥えた煙草から灰が落ちる。


「余裕のあるニンゲンはそう言うのもいるだろう。でも一皮むけばみんな一緒だ。ニンゲンなんて、二足歩行ができるだけの獣なんだ」


「それはあなたが今まで、人の形をしたケモノばかり見てきたからですよ! 本当の人間は、確かにいます」


「お前に何がわかる」


不快感をあらわにして葛城が言った。無表情は変わらない。しかし、声音にはハリネズミのような剣呑さがにじんでいた。短くなってしまった煙草を床に落とし、新しいものを取り出して乱暴に火をつけた。


「わかるわけがない。わかってないから、そういうことが言える」


吐き捨てるように言う葛城に、エレナは痛む体を抑えて立ち上がった。ふらふらとしながらも、その動きに迷いはない。先ほどとは別人のような気迫が、彼女の瞳には宿っていた。


「違います。断じて、断じて人間はケモノなんかじゃありません……!」


エレナは自分に向いた銃口を睨みつけながら言う。その変貌ぶりに、葛城は少し困惑しているようだった。


「なんなんだ、おまえは。ニンゲンを弄んで殺して、自分を殺してくれとのたまい、そのうえ訳の分からないことを言いだす。意味が分からない」


酷く彼は不機嫌な様子だった。煙草の灰を床に落としては深く煙を吸い込み、また灰を床に落として吸う。それを繰り返しているうちに煙草は見る見るうちに短くなっていった。その様子に、エレナは違和感を覚えていた。先ほどの唐突な暴力もしかり、今の反論もしかり。いちいち葛城は過剰反応している。カフェや戦闘中に見せた泰然自若とした姿からは明らかにかけ離れている。


「わたしは知っています。人と人とが助け合って、愛し合って、慈しみあう、そういう世界を知っているんです」


「そんなものはまやかしだ。幻想だ。お前がそう感じたものは、ただ上っ面だけの世界だ」


憎しみさえも籠ったような声で葛城は言う。怨嗟と羨望が混じったような、亡霊を思わせるような声音だ。あくまで無表情なため、とてもとても不気味だった。


「違いますッ!」


「違わない。現にお前は、その汚らしい本性を露わにしてヒト一人を嬲り殺しにしたじゃないか」


「それは……ッ! それは……」


エレナの視線が床に向けられる。よく磨かれたフローリングの床は、暗い室内にもかかわらずエレナの顔を映し出している。しかしその像はあまりにもぼんやりとしすぎて、エレナは今自分がどういう表情を浮かべているのかわからなかった。


「言うだけ言ってこのザマか」


蔑むような声音で葛城は吐き捨てた。そして、銃口をエレナの心臓に向けなおして続ける。


「結局お前は、死にたいのか? 死にたいのなら、痛くないように殺してやる」


生きたいのならば……。葛城はエレナの目を睨みつけるようにしながら、言った。


「俺の前でニンゲンをいたぶって自慰をするのはやめろ。お前がそれをするのは我慢ならない」


まるで別の人間ならば構わないといった口調だった。その言葉に違和感を覚えながらも、エレナは考え込む。生きるべきか、死ぬべきか。葛城に偉そうなことは言ったものの、エレナが自分がどれほどおぞましい行為をしていたのか、理解していた。ましてこれは一度目ではない。自分の業がどれほど根深いのか、彼女自身よくわからなかった。だから、ここで死ぬのが一番いい。そうすれば新しい罪を重ねることなく、哀れな犠牲者もこれ以上増えることはない。これ以上ないハッピーエンドだと、彼女の理性がささやいた。しかし、エレナは自分の足が微かに震えていることに気付く。全身がこわばっていた。疲労や痛みからではない。恐怖だ。死への恐怖が、彼女の体を縛っていた。どれほど理性が叫ぼうが、本能が死を拒絶している。その浅ましさに、彼女は眉をしかめた。


「どうする。選べ」


葛城はそんな彼女をまっすぐ見つめていた。銃を向け、ぎらぎらとした瞳を光らせた彼は、人喰いの化け物ようだった。まさにケモノだ、人間ではない存在だ。エレナはそう思った。無慈悲に人を殺し、絶望の言葉を吐き、ニンゲンが大嫌いな、哀れな怪物。そんな彼に、エレナはふと親近感を覚える。境遇は違えど、状況は違えど、本質は違えど、彼と彼女は、人間ではないという点で一致している。怪物と凶獣。なるほど、確かに似たようなものだ。現実逃避気味にそんなことを考える。煙草の灰が床に落ちる微かな音が聞こえた。痺れを切らした葛城は右手の人差し指に力を入れた。引き金がわずかに後退し、そして……


「おい聞こえるか! 敵の増援だ。二十以上は居る! 俺だけじゃ抑えるどころか障害物にもなりゃしねえ、早く来てくれ、コトはまだ終わってないのか!?」


耳のインカムから、けたたましい銃声とともにジョックの声が聞こえてきた。葛城はとりあえず銃を仕舞い、トランシーバのスイッチを入れる。


「すぐ行く」


そしてエレナを振り向いた吐き捨てた。


「まあいい、この仕事もじきに終わる。死にたければ自分で死ね」


そう言って部屋を立ち去ろうとし、ふとエレナの姿をもう一度見る。瀟洒なメイド服は血と尿に塗れ、人形めいた整った顔は涙だの汗だので凄まじく汚らしい。部屋を見回して、ちょうど良いものを見つけた。小さなテーブルに置かれたミネラルウォーターだ。おそらく、酒を割って飲むときに使ったのだろう。大きなボトルに、結構な量が残っていた。葛城はそのボトルを手に取ると、キャップを開けてエレナの頭に水をぶっかけた。


「えっ……」


「戦闘だ、頭を冷やして行け。下手を撃つようなら殺すぞ」


そう言って彼は背中に背負っていたライフルを手に握り、セレクターをセミオートに合わせた。


「まだ仕事は終わっちゃいない。行くぞ」

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