五.惑う男
――あの女が、居ない。
日が落ち夜が始まった頃、男が寝所で目覚めると、隣で寝ていたはずの女の姿が見えなく為っていた。
重い身体を起こし、眠ってしまうまでの記憶を呼び覚ます。昨晩からあの女と此処に籠もり、朝起きると其のまま昼までずっと
彼は海賊が根城としている小島に家を構え、茗から連れて来た数人の従僕と共に滞在していた。
「おい、誰か来い」
男の苛ついた低い声を聞き付け、下男が入って来て跪く。
「瑠璃は如何した?」
赤墨色の髪を掻き上げると、左頬から耳の付け根にかけて走る傷跡が見える。十数年前の戦で負った、恥辱の刀傷である。
「えっ? 居らっしゃらないのですか? 御主人様と共に此方に入られて以来見ておりませぬが……ひいいいい!」
老いた下男の間抜けな声で余計に腹立たしくなり、男は突然側に在った鉄の燭台を思い切り投げ付けた。顔に直撃するのを何とか避けると、何度も何度も頭を床に擦り付けて謝り続ける。
「申し訳ございません! 申し訳ございません! しかし、朝からずっと見ていましたが誰も戸口からは出ていません!」
忌々しげに舌打ちし、男は寝台から抜け出て歩き出す。這い
――瑠璃を抱きたい。
彼女が現れてから一週間。陸地に連れて来て決して外へ出さず、飽きること無く抱き続けた。自分は一体如何してしまったのか不思議に思う程、彼女の色香に捕らわれてしまったようだ。
あれ程麗しく、神々しくも淫らな女は居ない。過去にも未来にも、
此の腕に抱き自ら快楽を与えている間だけは、確かに瑠璃を支配していられる。男が彼女を抱きたいと思うのは、自分の劣情を満たすためではなく、彼女を自分の手の中に留めておきたいからだと言っても、過言ではない。
「御主人様、お客人がお見えです」
着物を着始めると、別の下僕が恭しく告げる。
「誰だ?」
此処を尋ねてくる者等滅多にない。本国の者にさえ、居場所を知らせていないのだから。相手によっては会わずに追い返し、瑠璃を探しに行こうと思っていた。
「
其の名を聞いた途端、男の顔色が変わる。不愉快そうに再び舌打ちすると、応接間へと通すように命じる。
「朱雀か。言われてみれば
独言して着替えを再開する。客人が彼女となれば、一応邪険には出来まい。適当に相手をして、早く帰すのが得策だと踏んだのだ。
「機嫌が悪そうだな、玄武」
卓を挟んで玄武と向かい合った朱雀は開口一番、素直な感想を述べた。
「何用だ? 早く用件を言え。旧知とはいえ、親しく近況を伝え合う仲でもないだろう?」
朱雀は何時も身に纏っている戦闘時の装束ではなく、普通の女らしい色鮮やかな着物を着ている。
ぶっきらぼうに言った玄武に溜息を吐くと、用件を話し出した。
「陛下の勅命が下りた」
懐にしまっていた勅書を、彼の前に差し出す。玄武は数秒其れを見詰めてから、何も言わずに両手で受け取った。
巻かれた文書を開き一渡り目を通すと、手から滑らせるようにして卓の上に落とす。
「玄武、もっと慎重に扱え」
「何だ、此れは?」
勅命の内容が気に入らないらしい玄武は、首を捻り言い捨てた。
「見ての通りだ。聖安の第一公主が現れる。見付け次第、捕らえて陛下の御前に献上せよ。但し極力害してはならぬ……」
彼女の言に益々気分を悪くしたのか、玄武は卓を殴り付けるように叩いて遮断する。
「違う。俺が聞きたいのは、此れを本当に陛下が下されたのかということだ」
朱雀を睨み凄む玄武は、他の者からすればかなり恐ろしく見えるだろう。しかし朱雀は威嚇に全く動じず、一つ頷いただけで事実を答える。
「本当だ。此れを
――相変わらず癪に障る女だ。
目の前の女は可愛げも無く、分かり切った事実を淡々と告げてくる。
「第一公主というのは、前々から陛下が存在を疑っていた恵帝の隠し子のことだろう? 其の娘を捕まえるために、如何しておまえと青竜の奴までもが駆り出されている?」
玄武を苛々させているのは、勅命の内容。久し振りに朱雀自ら彼を訪れ、直に手渡す勅書であるからにはもっと重要な命令を想像したのだが、見事に期待を裏切られた。彼が待ち侘びているのは、聖安の姫を如何のこうのという詰まらぬ命令ではない。「開戦するので帰国せよ」という刺激的な勅令のみだ。
「只の一の姫ではない。どうやら『光龍』らしいのだ」
「『光龍』……?」
「陛下は神巫女を手に入れたいとお考えで、此の命を出された。聖安だけでなく、其の娘も奪い天の力を我が物とするお積もりだ」
険しい顔で朱雀の言葉を聞いていた玄武は、突如一転して愉快そうに笑い出す。
「くく、神の力ね。陛下はそんな怪しげなものに気を取られ、未だに開戦しないと言うか」
珠帝を侮るような言動に、朱雀が静かに憤りを見せる。
「玄武、其の物言いは無礼ぞ」
「朱雀、嘆かわしくはないか? 陛下のお望みは一にも二にも先ず、人界統一だったはずだ。其の前人未踏の領域に踏み入る夢を、俺たちにも見させてくれた。其れをそっちのけで、神の力等という不確かなものを求めるとは」
確かに彼の言うことは正しく、朱雀も認めざるを得ない。だが珠玉が決めた道ならば、其れを否定する積もりは毛頭無い。
「私は陛下を信じ、従うのみ。あの方に間違いはない」
迷いの無い朱雀は、玄武が思った通りの反応を示す。彼は不服そうな顔をしたままで、扉の方を指し示す。
「話は終わりだ。勅令は確かに受け取ったから、おまえは仕事を続けるが良い」
暫し無言で玄武を直視した後、立ち上がって部屋を出ようとする。其の途中でぴたりと止まり、もう一つの主の命を伝えようと振り返った。
「玄武、おまえの望み通り開戦は近い。其れまで面倒は起こすなとの、陛下のお言葉だ」
彼が一応頷いたのを確認すると、朱雀は部屋を出て行く。立ち上がった玄武は、先程まで朱雀が座っていた椅子を蹴飛ばして倒す。そんなことをしてみても、腹の虫は到底収まりそうにない。
「
背後から、突然女の声が聴こえた。玄武は驚いて振り返り、狐につままれたような顔をする。
「瑠璃。おまえ、何時から其処にいた?」
つい先刻朱雀が出て行った戸口に、彼の探し求めていた女が立っている。怒りで気を取られていたとはいえ、玄武程の武人が直ぐ後ろの女に気付かぬはずがないというのに。
唖然とする玄武に笑い掛け、彼の腕に摺り寄ると、耳元で囁くように言う。
「つい、先程からですわ。あの方……美しい人でしたわね?」
そう、確かに朱雀は美しい。彼女のことを気に入らない玄武も、其れは否定しない。
――だが、此の瑠璃に比べれば。
瑠璃の腰に手を回し、ぐいと抱き寄せる。此の女を見ると、ついこうして腕の中に収めたく為るのだ。
「ねえ。貴方は、あの名高い大将軍でいらっしゃったのね」
彼を見上げ、瑠璃は感嘆の声を上げた。
「話を聞いていたのか」
玄武はますます怪訝そうな顔をした。部屋の直ぐ外で立ち聞きしていたということに為ろうが、朱雀も瑠璃に気付かなかったのだろうか。
「瑠璃、おまえは肌の色や顔の造りからして聖安人だろう? 俺は先の戦で、何百人もの聖安人を殺した。戦争が再開されれば、また幾らでも殺す積もりだ」
言いながら、彼女の指触りの良い黒髪を撫でる。
「俺が怖いか? 憎いか?」
――俺は、此の女にこんなことを言って……一体どんな言葉を望んでいるのだ?
不思議そうな顔をして、瑠璃は首を傾げてみせる。
「また、幾らでも殺す? 貴方に、そんな機会は有るのかしら?」
彼女の問いは予想外過ぎた。眉を寄せ、玄武は次の言葉を待つ。
「もう一年もの間、こんな異国の地に追いやられて、開戦が近いというのに呼び戻されもしない。一年? いえ、もっとですわね。此処何年も、貴方が戦に呼ばれることは滅多に無い。そうでなくて?」
腕の中の女は目を細め、容赦なく言い放つ。耳を疑う発言に、玄武は怒るべきところを呆然とし言葉を失っていた。
「戦に出ないがゆえに、かつては称賛された貴方の武力も衰え……溜まる一方の不満を、たかが聖安の地方軍を打ち破った程度の詰まらない功績で晴らそうとして……」
自分を貶め傷を抉り出すような言葉の数々が、世にも美しい女の唇から出てゆく。しかし彼の耳に残ったのは、衝撃的なたった一言だけだ。
「俺の力が、衰えているだと?」
突然瑠璃の腕を掴んで歩き出し、部屋に在った長椅子に押し倒して、乱暴に組み伏せる。だが彼女は怯えるどころか、艶美な笑みを浮かべ続けて玄武を見上げている。
「貴方の神人としての能力も、剣の腕も、兵を指揮する力も、衰えている。其れなのに、貴方の野心や荒い気性は其のままで……だからこそ、珠帝に遠ざけられた」
「陛下のことを軽々しく口にするな」
彼の声に、あからさまな苛立たしさは含まれない。代わりに仄見えたのは、静かで冷たい怒りの感情だ。
「流石、茗の四神。珠帝に余程の忠誠を誓ってらっしゃるのね」
――此の女は、俺を煽って如何しようという?
部屋の隅に在る刀を一瞥した玄武に、瑠璃は怖じ気付くどころか更に畳み掛ける。
「私を手打ちになさるの? 其れも……良くってよ。貴方が思い通りに出来るのは、私のような弱い女子だけなのでしょう?」
玄武は舌打ちして、再び瑠璃に視線を戻す。瑠璃を殺すのを止めたのは彼女の言葉のためではない。此処まで侮辱されて尚、自分は此の女を手元に置いておきたいのだ。
「では、おまえも自分の身を嘆くが良い。おまえが言う弱い男に、おまえは此れからも為すがままにされるのだから」
そう言って、玄武は瑠璃の柔らかい唇を食み、彼女は悦んで受け入れ身を任す。溶け合ってしまえば、彼は彼女に対して覚えた憎悪を全て忘れてしまう。気位が高く自分を侮る者を許さない彼が、自分を散々侮蔑した瑠璃に与えたのは、悦楽だった。
既に、彼が彼女を支配しているのではない。玄武を翻弄しているのは瑠璃の方で、彼自身、其れを受容していたのである。
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