四.茗の海鬼

 随加は、紫瑤から見て西に位置する聖安有数の港町。国内外を行き来する多数の商船・客船が停泊し、古くから国際的な貿易港として知られている。

 国交が悪化したと言っても、茗と聖安の貿易は未だ続けられている。麗蘭たちは密かに商船に潜り込み、茗に入国する積もりであった。

「紫瑤を出てから三日か。思ったより早く着いたな」

 背負っていた弓と矢筒を地面に下ろし、麗蘭が言う。当初蘢の話だと、もう少し時間が掛かるということだった。彼女が少々気張り、速く歩いた所為せいだろう。

 麗蘭たちが立っている丘陵からは、多くの船が横付けされている埠頭や賑わう市場等、街全体を見渡すことが出来る。潮の香りが漂い、山育ちの麗蘭にとっては海の景色と相俟あいまって新鮮に感じられる。

 時刻は甲の刻頃とあって、最も暑い時は過ぎたものの未だ日没までには時間が有った。

「海は珍しい? 見るのは初めて?」

 瞳を輝かせている麗蘭を横目で見て、蘢が尋ねる。

「二度……いや、三度ばかり見たことがある。妖退治の折りだったから、はしゃぐどころではなかったが」

 見下ろす先に、青々とした海と空が果無く続く。耳を澄ませば静かで心地良い波の音と、かもめの声が聴こえくる。

「今日中に茗行きの船を探して、早ければ明日出発出来るようにしよう。僕が波止場の方で探して来るから、君はゆっくりするといい」

 彼の申し出に、麗蘭はがえんじようとしない。

「そういう訳にはいかぬ。私も探す」

「探して来ると言っても、僕自身が探す訳じゃないよ。万一後で調べられた時に、波止場の人たちの記憶に残っていたら困るからね。先日、先に出発させた信頼の置ける部下がいるから、彼らにやらせる積もりだ」

 あくまでも自分たちは用意された船に乗るだけで、必要最小限の乗組員以外には顔を知られぬようにする。部下を一足先に送り込んでおいたこと等、蘢は抜かり無い。

「しかし……」

 不満げな麗蘭に、蘢は微笑みながらも有無を言わせない。

「夕方、宿で落ち合おう。其れまではゆるりと休んでおいて欲しい」

 彼の人の良さそうな顔で言われると、何故か断れない。諦めた麗蘭は苦笑して、彼の厚意に甘えることにした。




「何て広い……!」

 誰も居ない砂浜に立ち尽くし、麗蘭は我を忘れて海原を見入ってしまう。此れまで見てきたどんな青よりも深く、澄み渡っている。

――凄いとしか言いようがないな。優花にも見せてやりたい。

 感激する彼女の反応を想像し、思わず笑みが零れる。二年前出会って以来、離れることの無かった彼女ともう一月以上も会っていないのは、とても寂しく不思議な感じがする。

 一歩ずつ、歩きにくい砂の中を進んで行く。市場等を一通り見て回った後、日が没するのを此処で見たいと思っていたのだ。空は未だ青く、暫く時間が有ったが、特にすることも無いので海の近くに居て時を過ごすことにしていた。

 市場には近海で獲れた海産物の他、麗蘭が見たことの無い形の服や雑貨など、遠い異国の物らしき珍品が多く有った。どれも興味深かったが、彼女の印象により深く残りそうなのは、悠々と広がる海の方。

――此の雄大さを見れば、自分の存在などとてもちっぽけなものに思えてしまう。天帝陛下から授かった此の宿すらも。

 心に浮かんだ思いを、麗蘭は慌てて否定する。自分という存在はともかく、此の世界総てを統治し調和させている天からの使命が『小さい』等と、考えるだけで罪に為りそうだ。

 やがて麗蘭は、数人の人間が此方に向かって近付いていることに気配で気付く。背後を見ると、街の方から刀を持った男たちが歩いて来る。

「娘さん、此処らは危険だから、早く街に戻りなさい。もう直ぐ日が暮れるよ」

 簡単に武装した、屈強な若い男ばかりが五人。不意のことだったので、麗蘭は身構えそうに為ったが、彼らの顔を見て何ら害意が無いと判断し、腰の刀から手を離した。

「危険? 何故ですか?」

――確かに人が少ないとは思っていたが、妖でも出るのだろうか?

 質問が予想外だったらしく、男たちは首を傾げる。

「見ない顔だけど、君は此の街の人じゃないのかな? 近頃此の近海を荒らしている海賊のことは知らないのかい?」

「海賊?」

 彼女の反応で答えは是と受け取ったのか、彼等は納得して話し始める。

「此処数ヶ月、海賊が商船や客船を襲っているんだよ。此の海岸にも現れて人を襲うから、街の若い衆が集められて見回っているんだ」

 其の説明に、今度は麗蘭が首を傾げた。

「数ヶ月もそんな横行が続いているのですか? 軍は……野放しにしていると?」

 麗蘭の記憶に依れば、そうした賊には水軍が送り込まれ、直ぐに討伐されて捕縛される。幾ら開戦前で人手が足りないとはいえ、随加のような主要な貿易港を脅かす賊を放っておくだろうか。

「軍は何度も送られたさ。だが其の度、全滅。お国ももっと有能な隊長を寄越してくれればいいのに、そんな余裕は無いのだろうよ」

 憤りを含んだ男の話に、彼女は信じられないという顔をする。

「海賊に、聖安の軍隊が全滅させられる? そんなことが在り得るのですか?」

 風友の許で、彼女は聖安軍について長年学んできている。軍事大国茗には気圧されるものの、世界的に見ても聖安の軍人は禁軍・地方軍共にかなり優秀なはずだ。訓練されている訳でもなく、統率も取れていないであろう賊に大敗する等想像し難い。

「軍船は一隻も帰って来ていない。皆殺され、沈められた。捕虜に為った人も居るかもしれないが……戻って来た軍人は居ないから、何とも言えない」

 話を飲み込めないでいる麗蘭に、男たちはとにかく早く戻れと強く促す。

「君も剣士なのだろうけど、暗く為って大勢に襲われたら一溜まりもないよ。早く戻りなさい」

 何かがおかしいと思った彼女は、一先ず彼等の言う通り、街へ戻ることにした。

 







 予め決めておいた宿に行き待っていると、約束した通りに蘢もやって来た。麗蘭の部屋に入るなり、早速調査の結果を報告する。

「厄介なことに為っていて、船の手配は出来ないみたいなんだ」

 落胆して言い、蘢は麗蘭の向かいの椅子に腰掛けた。

「ひょっとすると、海賊が原因か?」

 彼女が既に知っているのに驚きながらも、頷いて続ける。

「此の数ヶ月、随加から茗へと向かう海路で海賊が現れて、商船や客船を襲うらしい。随加駐屯の地方軍も何度か出撃するも壊滅。仕方無く、茗行きの船は欠航せざるを得なく為っているそうだ。一寸ちょっと、困ったね」

 困ったと言いながらも、腕を組み考えている彼からは諦めの色が微塵にも感じられない。既に何か、策を考えてあるのだろう。

「しかも、風貌からして茗人の賊らしい。単なる略奪行為だけでなく、我が国の貿易を害する目的も有るのかもしれない」

 特に戦時中、茗が左様な行為を奨励することは広く知られている。

「私掠船のようなものか?」

「うん、近いね。可能性が有るっていう話だけど」

 私掠船のように国家が関わっていないにせよ、茗が聖安の商業を脅かしている事実に変わりはない。

「そもそも何故、都に其の話が伝わらなかったのかということなんだけど。事も有ろうに、此処に駐屯している将校が自分の不甲斐なさを中央に知られたくないがために隠していたそうなんだ。たくさん被害が出ているって言うのに、本当に狂っているよ」

 蘢の言葉には、彼らしからぬ怒りの感情が垣間見えた。麗蘭も全く同感だ。

「僕の部下を、都へ遣いに出した。只、中央が知ったとしても、援軍はすんなり出せないだろうね。人選の問題で、士官以上は一人でも減らしたくないだろうから。出す軍を決めるまでに数週間掛かるかもしれない」

 聖安の軍指揮者不足については、以前にも蘢から聞いて知っている。今回の旅に公主である麗蘭が駆り出される原因の一つと為る程、事態は深刻なのだ。

「茗行きの商船に乗るのを諦めて、小さな船で茗入りするという手も有るけれど、万一失敗して捕まった時の危険が大き過ぎる」

 現在、茗は国が許可した商船等の入国のみを認めている。其れら以外の船舶は厳しく取り締まられており、海岸にて兵士が密入国者を昼夜見張っている。

 だが許可船であれば審査が厳しくないため、其れに乗ってしまえば比較的簡単に入国出来る。蘢が商船に拘るのはそうした理由からだ。

 多少遠回りしたとしても、茗に捕らわれることだけは避ける。其れが蘢と麗蘭の共通認識である。

「では如何すれば良いのだ? 此処にそう長く足止めされている訳にはいかぬし、何より聖安の民に危害を加える茗人を捨て置けぬ。何か方法は無いのか?」

 自分たちの使命の妨げとなることも有るが、彼女の正義感が此の状況を見過ごせない。其れは、軍人である蘢も同様である。

「なるべく早く、海賊を排除する方法。有るには有るけれど」

 麗蘭の予想通り、蘢は対策を話し出した。

「此処からそう遠くない別の港町に、僕の水軍が駐屯している。呼び寄せて、僕自ら指揮するのが一番早い」

 意外な発言に、麗蘭は目を丸くする。

「おまえが? しかし、相手は一筋縄ではいかないのだぞ? おまえのような有能な人材こそ、そう易々と出陣させられないのではないか?」

「いや。僕だからこそ、陛下の許可は貰えると思う。随加のような貿易港で、こんな横暴を此れ以上長く許しておくことは出来ないだろうしね。僕が一番出陣し易い位置に居るのだから、出ると進言すれば出られるよ」

 蘢ならば、此度の海賊討伐にも必ず成功すると信じてもらえるだろうという、自信に満ち溢れた言葉。其れは決して根拠の伴わぬ自信ではないことを、麗蘭は知っている。

 明祥から聞いた話だが、蘢は聖安軍の中でも戦闘能力と指揮能力の両方に優れた、極めて希少価値の高い天才である。若さゆえに上校という一将校に止まっており、都以外での知名度は然程高くないが、行く行くは禁軍七将軍に必ず列せられると目されている。陸軍と水軍の両方を十分に指揮出来る者も、彼を含むほんの数人しか居ないのだ。

 将官以上しか出入りを許されていない内朝に立ち入れるのも、上校でありながら既に将官並みの実力を認められているためであろう。

「話を聞く限りだと、其の海賊が恐ろしく強いのは首領の指揮力の高さゆえだ。新しい首領に変わるまでは、大した規模の海賊ではなかったらしいからね」

「つまり、相手と互角もしくは其れ以上の指揮力を以てすれば、訓練された軍と只の賊では前者に分があるということか?」

 察しの良い麗蘭に、蘢は頷いた。

「勝利を目指さずとも、上手く時間を稼ぎながら首領を叩く。首領さえ倒れれば、後は総崩れになるだろう」

 蘢の声は自信に満ちているが、驕りは何処にも無い。そういう所が、偉大な瑛睡公に似通っている。かつて上将軍に名を連ねた麗蘭の師風友にも似た性質があり、相手を自然と納得させてしまう何かが有る。

「分かった、おまえを信頼する。そして、私も戦わせてもらう」

 麗蘭の突然の発言に、蘢はやや困った顔をする。何となく予想はしていたようで、驚いている様子は無い。

「其の作戦なら、首領を短時間で倒すため少しでも戦力は多い方が良い。私でも、少しは役に立てるはずだ。おまえの隊に混じって戦うのなら、正体も隠し易い。私のことなど何とでも誤魔化せるだろう」

 幾ら蘢が指揮官として優れていると言っても、危険な任務に変わりない。自分だけ安全な場所で待っているなど言語道断だ。一度共に旅立ったのだから、運命を共にすべき仲間同士なのだ。

「麗蘭、其れは……」

 駄目だ、と言う積もりだった。今回蘢は、茗行きの旅とは関係無くあくまで聖安の一軍人として、戦いに赴くのだ。万一失敗して彼が旅を続けられなく為っても、麗蘭は無事。だが、彼女が討伐に加わってしまえば危険が増してしまう。

――麗蘭は分かっていて、言っているのだろうか?

 一瞬疑問に感じるが、蘢は直ぐに否定する。彼女は其処まで鈍くはない。危ういのを承知で、自分も戦わせて欲しいと申し出ているのだろう。

 絶対に連れて行くべきではない。其れなのに、彼女の揺るぎ無く強い強い眼光は、何故か蘢を頷かせてしまう。

「分かった。けれど忘れないで、君には大きな宿が有る。危なく為ったら、決して無理をしてはいけないよ。君を守るためなら、僕は命を賭すると陛下に約したのだから」

 彼の言葉の意味を、麗蘭は未だきちんと理解していなかった。其の言葉の重みを、彼女は未だ知らなかったのだ。

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