「灰村!」

 東京タワー地下二階の巨大空洞に羽原紅子の声が響いた。

 その灰村禎一郎――糸が切れたようにその場に倒れる。駆け寄る紅子。面倒くさそうな目でそれを見下ろす佐竹純次。彼は倒れた戦闘員に蹴りを入れて回っていた。

「おい灰村、返事しろ」

「大丈夫っす」力なく応じる禎一郎。「ちょっと、疲れたっていうか……」

「見る限り、打撲と浅い切り傷だ」佐竹が口を挟んだ。「無理な運動したからだろ。寝かせときゃ治る」

「すまんな。医療は全く専門外だ」

「ちゃんと止血して、定期的に包帯換えて、快適な場所で寝かせるのが第一だぜ」

「……それなら伝手がある」紅子はインカムに触れ、通信先を切り替えて言った。「ああ怜奈くんか。灰村の知人の女、なんと言ったか。連絡を取ってくれないか。憂井の同級生の彼女だ。憂井の屋敷へ灰村を運ぶから、彼女に来るよう伝えてくれ。頼む」

 通信が終わると、じっと聞き耳を立てていた佐竹が言った。「いいのか? 他の人間を関わらせて」

「どうせバレている相手だ。使えるものは全て使う」

「ああ、そう……。あれはいいのか」

 佐竹が親指で示す先――驚くべきことに立ち上がり、覚束ない足取りでトンネルの方へと逃走する張本銀治。

 紅子はスマートフォン片手に応じる。

「構わん。最寄りの出口はわかっている。手配済みだ」

「手配? 何をだ」

「知らない方がいい」

 ああ、そうと興味薄そうに応じる佐竹。

 すると禎一郎が親指を立てた拳を上げた。

「いやあ、ナイス作戦でしたね。羽原さんが囮で、時間稼いで注意引いて背後から……」

「何を言ってる」紅子はにべもなく応じる。「私が姿を晒したのは、別にお前を守るためじゃないぞ」

 え、と禎一郎。引きつった笑みの佐竹。

 紅子は胸を張る。

「私は既に完全な勝利を確信していたからだ。張本が吠え面かくところが見たかったのさ」

「時間稼ぎの演説は……」

「私は一方的に喋るのが好きで好きで仕方ないんだ。知らなかったか」

「あ、もう駄目、具合悪くなってきたっす……」禎一郎の腕がぱたりと倒れた。

 そして、歯を食いしばって立ち上がる。

「待て、安静にしろ。今人手を……」

「ハカセは」禎一郎は、仰向けに倒れたままの佐久間博史を見ていた。「ハカセは、生きてますよね。大丈夫ですよね」

「こいつか?」佐竹が、倒れた身体を確認して無感動に言った。「んなわけねえだろ。頭撃たれてんぞ」

「そんな」

「落ち着け灰村」

「嘘だ。嘘だろ」暴れる禎一郎――だが紅子でも抑えられるほど、その力は弱々しかった。「あんた、あんた俺の最初のヒーローだったのに、何死んでんだよ!」


 腕と足をきつく縛り、船倉を出て階段を登る。幸い弾は主要な血管を避けたらしく、出血はそう多くない。それでも一歩ごとに激痛が走る。ここが敵地でなかったら今すぐ倒れてしまうだろうほどの痛み。学校が始まるのはいつからだったか、どう言い訳をしようかとふと思う。

 登りきったところで戦闘員と遭遇。手榴弾で破られた扉の残骸を吹き飛ばしながら組みつく。そのまま勢い任せに外周通路の手すりに叩きつけ、渾身の力で船外へと放り出す。

 敵の数は少ない。ほぼ遭遇することなく更に階段を登り、展望甲板へ出てその理由に気づいた。

 戦闘員の一部が救命ボートで脱出を図っていたのだ。

 意外な光景――だが納得も覚える。ゾエルが退避を命じたに違いなかった。

 だが、ボートに一番肝心な気配はない。〈ファンタズマ〉の首魁たる少女たちだ。

 そして遠くに接近する船舶の明かり。

 急がなければならない――船内へ戻り階段を上がる。

 ブリッジ直下の最上層にたどり着くと、内装が豪奢になる。赤を基調として金刺繍が目立つ、どことなく朝鮮王室を彷彿とさせる調度品の数々。緑がかかり、何かの植物が描かれた朝鮮青磁の花瓶や幻想の動物を象った置物が並ぶ。特等客室が元々こうなのか、それとも主の趣味に合わせたのかは判然としなかった。

 最奥に扉がひとつ。そこを目指せばいいことはなんとなくわかった。そして他に複数の気配。

 廊下に並んだ複数の扉が左右から一斉に開く。現れたのはいずれも女性の戦闘員――手には倭刀やナイフの類。その数四名。舌打ちしつつブギーマンが構える。

 交錯は一瞬だった。

 倭刀が叩き折られナイフは壁に突き刺さり、棍棒は折れて回転式拳銃は持ち主の手を離れて解体される。全員が急所を強かに打たれて戦闘不能――立ち上がることもままならず。

 呻く女たちを乗り越えてブギーマンが進み、扉を開いた。

 途端に漂う薔薇の香り。左右対称の室内。広々とした空間に天蓋付きベッドが左右にふたつ。その真ん中に王侯貴族が座るような豪奢なふたり掛けのソファがあった。シルク張りの輝き。機械織りでは作れない複雑な文様の刺繍。床には暗赤色の絨毯――まるで血の色のよう。

 ソファで寄り添うふたりの少女が、黒い乱入者に目線を向けた。

「待っていたわ、ブギーマン」超然と微笑む黒いドレスの少女――入江まぼろ

「どうして来ちゃったんですかあっ!」涙目で訴える白いドレスの少女――入江すがた

 〈幻像姉妹スペクター・ツインズ〉――逃げ出す素振りもなし。むしろこうなることを待ち望んでいたかのようだった。

「地の果てまでも追い詰めると言ったはずだ」

「私にそう言ったのは、ブギーマンじゃないわ」

「隠さないでください」像――祈るように手を組んで哀願。「どうかお顔を見せて」

 舌打ちしつつ発火金属片を投擲。姉妹の背後でシルクのカーテンに覆い隠されたものに的中――隙間から盗撮していたカメラ。

 発火機構が故障したのか、火柱が上がらなかった。最後のひとつだった。

「よく気づいたわね」と幻。

「お前たちに性根がよく似たやつと付き合いがあってな。クッションの下のマイクを出せ」

 怯え声を上げ、像がマイクを引っ張り出す。「お姉さまぁ……だからやめようって言ったのにぃ」

「俺は何も見逃さない」

 幻の方がマイクを受け取り、サイドテーブルから大振りな鋏を取り出すと、ケーブルを切断した。

「ありとあらゆる通信を第六感が察知しているのかしら。興味深いわ」

「お前が意識を向けている方もわかる。その鋏は凶器としては囮だ。枕の下にお前の意識が奪われている。拳銃だな」

 幻――観念したように鋏をテーブルの上に置く。

 対するブギーマン――フードを取り、マスクを外す。

「質問がある」

「マスクを外したのは、誠意のつもり?」

「どう思おうとお前の自由だ」

「それで、ご質問は?」

「拉致した労働者たちを拷問したのは、お前たちか」

「そうよ」悪びれる様子もない幻。「〈ヴァーミリオン〉を投与したのも私たち。ゾエルにも手伝ってもらったけど」

「アポロ君島もか?」

「ええ。彼にはかなり手を焼いたわ。打ちすぎて壊れちゃったみたい」

「だって、だって、怖かったんですっ!」

 目を潤ませる像。そんな像の頬を撫で、指先で涙を拭う幻。

 船倉で見た指の欠けた労働者たちの遺体と、片瀬怜奈の姿に明らかに過剰に怯えたアポロ君島。弱った労働者らはともかく、決して惰弱ではない精神と肉体の持ち主だった君島の心身を完全に破壊した少女たちの無邪気なじゃれ合いに目眩を覚える。善悪や倫理観と言葉にされる、正常な人間の感覚が、少女たちからは欠落していた。

 若くして人の冷たさや醜さを知った人特有の酷薄さ。湘南の伯父、榑林一夫の言葉を思い出した。

「もうひとつ、訊くことがある」

「何かしら?」誘うように足を組む像。

「お前たちの正体」道哉は一歩歩み出る。「お前たちは入江あきらの遺児。入江は福岡で現地に定着するため結婚し、三人の子を儲けた。その後入江は日本を離れることを余儀なくされ、お前たちは〈I文書〉の断片を持たされて放り出された」

「その通りよ。光と私、像に一片ずつ。他は日本国内のサイバー犯罪者の手に渡ったわ。それらを私たちは順に回収した」

 どうやって――訊きたい気持ちを堪えた。

 ただの子供が他人に取り入り、騙し、〈I文書〉の力を駆使して資金や組織などの具体的な力を得、断片を集めていく。恐らくこの世で一番の残酷さに満ちているだろうその過程など、知りたくはなかった。

 道哉はひと呼吸置いてから続ける。

「その力ゆえに命を狙われた。長男の入江ひかるは身の危険を感じて断片を他の犯罪者に渡し、前後してイスラム武装組織〈神の水滴〉によって殺害された。再入国していた入江明とは接触したのか?」

「まだですよ?」像が首を傾げる。「だって、あなたたちが最後の断片を渡してくれないから」

「何を言ってる? 入江明は……」

「パパは言ってたの。〈I文書〉を七つ集めれば奇跡が起きるって。どんなことでも、人が想像できることは必ず実現できるって。!」

「ふざけるな。それはアイデアや理論と実際の間を繋ぐ技術があってのことだ。いくら〈I文書〉が万能の方法発見機だとしても、死んだ人間は……」

「やめなさい」幻が鋭く口を挟み、像を両手で抱き締める。そして道哉を睨んで言った。「質問は何?」

 不満気に何か言い続ける像。そんな彼女をきつく抱きながら道哉を睨み続ける幻。

 問うべきではないし、その必要も感じなかった。本当に訊くべきことは他にあった。

 道哉は左腕を軽く押さえてから言った。

「ずっと考えていた。入江明とは一体何者なのかを。母親が日本国が認知していない拉致被害者なのはいい。信じるとしよう。なら、父親は一体誰なのか。そして〈白ハゲP〉のエンブレムは一体何を意味するのか。朝鮮人の血が流れている俺の知人が、ある推測をした。そしてその推測ならば、お前たちの行動の幾つかに辻褄が合うこともわかった」

 父親、という言葉の瞬間、幻がぴくりと身を震わせた。

 それである程度察しがついた。だが確かめずにはいられなかった。

「Pは白頭山ペクトゥサンの頭文字。朝鮮民族の霊峰と言われる山だ。白い禿頭。白頭。ちょっとした駄洒落のようなものだ。そして白頭山は、日本人にとっての富士山のような信仰の対象であるとともに、抗日戦争の象徴でもあった。現独裁政権を築いた金日成キム・イルソンは、息子の金正日キム・ジョンイルが、抗日戦争の折に白頭山に築いた陣地の中で生まれたと設定した。自分たちの一族を神話の登場人物として演出したのさ。つまり」道哉は船倉のコンテナから剥がしてきたステッカーを絨毯の上に放り出した。「このエンブレムは〈ファンタズマ〉の指導者が抗日戦争の継承者にして神話の住人らの正統な後継者であることを示している。即ち、入江明の父親は、キム一族の誰かだ。そして〈ファンタズマ〉の張本や部下たちは、その孫であるお前たちこそ王権の正統であると考え、現政権に反発する立場にある」

 道哉は一度言葉を切る。〈スペクター・ツインズ〉は共に黙ったままだった。

 幻が目を伏せた。道哉は続ける。

「お前たちが日本に単なる打撃を与えるのではなく、憂井うれい宗達そうたつが書き残したような再起不能の打撃、福島第一原発の放射性物質を用いた三種の神器の放射能汚染に拘ったのは、これが抗日戦争の続きだからだ。戦果を上げ、国家権力と神話を継ぐものとして祖国に凱旋するんだ。血の半分は日本人ではないのに日本に置き去りにされ、故郷を持たないお前たちが、正しい立場へと復帰する。同じく故郷を追われた立場である首狩りはそれに共感した。だが」軽い目眩を覚える。失血か――それとも首狩りゾエルが言っていたような被曝のためか。区別がつかなかった。構わずに続けた。「露見すれば国際問題だ。日本で活動するテロ組織の首魁が金一族に連なる者と知れれば、現政権との関係如何によらず、お前たちの国は焼かれることになるだろう。独裁国家への国際的な非難は高まり、融和・対話路線は影を潜める。ともすれば日米安保が適用されるかもしれない。あるいは、米国による先制攻撃の口実になるかもしれない。だからお前たちは、すべての証拠を海に沈めることができるよう、この船にも爆薬を仕掛けている」

「随分と想像力豊かなようね」と幻が応じた。

 言葉とは裏腹に、目は伏せたままだった。

「お前たちのような少女が武装組織を率いているのも、忠実なしもべを従えているのも、プリンセスだからだ。怪物だからだと最初は考えていたが、それだけでは辻褄が合わないことが多すぎた。姫君だとすれば通りがいい。亡国の姫と騎士たち。違うか?」

 数秒の沈黙。抱き合ったままの姉妹のうち、また幻の方が応じた。

「その通りと答えたら、あなたはどうするの。憂井道哉」

「船倉の爆弾の起爆スイッチを渡せ。今すぐに」

「あなたも死ぬわよ」

「何もしなければ、もっと多くの人が傷つく。黙って行かせれば三種の神器が破壊されていた。だが警察に取り締まらせていたら、やがてお前たちの正体が知れてしまう。何もかもを闇に葬るしかない。お前たちだって、同胞を傷つけたくはないだろう。既に他の船舶が接近している。恐らくは海保の巡視船だ。もう時間がない」

 抱き合っていた姉妹が離れた。

 互いに目線を交わし合う。言葉なしに何かを伝え合う、幻像の名を持つふたり。

 そしてまた幻の方が言った。

「そうね。あなたの言うことは正しい」

「なら今すぐ……」

「でも幕引きはあなたの役目ではないわ」

 少女たちが同時に動いた。

 身を引く幻。ドレスのスカートをたくし上げる像。白いドレスから剥き出しになった白い太腿にバンドで固定されたホルスターと黒光りする小型拳銃――像の方の意識を読み損ねたと悟る道哉。

 銃声――この上なく正確な照準で弾丸が放たれる。

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