羽原紅子の長い長い演説の間に忍び寄っていた佐竹純次の蹴りが唸る。

 母がなく、父からは言い訳のような援助しか受けられなかった孤独と怒り。それを自分の半分のルーツと聞かされた土地から伝わった格闘技にぶつけ続けた十代前半――だがそれは自らの中の歪みを正すことはなく、逆に強固な捻れとなって佐竹純次の人格を形成した。

 ただ鍛え、試合に出ることもなく道場の外で暴力を振るう。窘めた師を蹴り倒して出奔した後も実践で鍛え続け、やがてまだ一〇代の身でありながら反社会的な同胞のグループと付き合うようになる。父親からの援助で普通科の高校に通うも、佐竹純次にとってそれは感謝に値することではない。一度として模範的な生徒として振る舞うことはなく、非行はむしろ自分を不当に虐げた者たちに正当な代償を支払わせるものだった。

 あの子の母親は不法滞在の韓国人、商売女の子、国に帰れ、日本の税金を盗むな――そんな言葉や目線を向けられるたび、別の誰かへ一〇〇倍にして返した。学校という場で他人を従わせるのは簡単だった。誰かひとりにお遊びの憎しみを向けさせるのも。なぜならどうすればいいかを生まれた時から学んでいたから。

 少しだけ正当な理由を与えてやればいいのだ。母親が不法滞在だからと後ろ指差すように、家庭環境をあげつらう。日本人の多くとは違う顔の特徴を笑われたように、容姿の醜さを笑う。日本人社会に紛れ込んだ異物であることを憎まれたように、ノリの悪さや協調性のなさを憎んでいい理由に仕立て上げる。日本人の生徒たちは面白いように乗せられ、佐竹純次が定めた標的を攻撃した。

 教室が変わるたびに目についた誰かひとりを同じように追い詰め、壊していった。それは半ば作業のようなものだった。受けたものを鏡のように反射するだけだった。

 何が変わったわけでもない――憂井道哉に負けても佐竹純次の内にある論理は何ひとつ変化していない。

 正義のヒーローに手を貸す理由も、同胞の犯罪組織に敵対する理由もない。

 だがそれでも身体は動いた。

 動いてしまった時、自分が何者であるかを思い知らされた気がした。

 人を作るのはルーツではなく場所。それは長く身を置いた社会に否応なしに取り込まれているという緩やかな絶望を伴っていた。そんな自分に腹が立った。憎みたいものを守らずにはいられない者の気持ちなど理解されるはずがなかったし、わかられたくもなかった。

 それでいいと内心ほくそ笑んでいるだろう憂井道哉にどうしようもなく苛立った。

 プロテクターで固めていた戦闘員が立ち上がってくる。

 残り三人と張本――張本の拳銃を蹴り飛ばす。

 次のひとりへ右の下段前回し蹴り。膝を崩す。左の上段前回し蹴り。銃でガードされる。だが姿勢が乱れる。追い打ちの右下段前回し蹴り。足元が崩れる。間合いを詰める。気合声とともに左の半月蹴り――その名の通り一八〇度の軌跡を描いて側頭部にまともに的中。

 最初に倒した男がよろめきながら立ち上がり、ヘルメットを取る。一足飛びに接近し後ろ横蹴りの一撃。まともに受けた男は後方へ数メートルほども吹き飛ぶ。

 距離のある二名が銃を向ける。だがそこへ横から突撃するブギーマン・ザ・タンブラー=灰村禎一郎。

 足元に倒れた戦闘員のヘルメットのバイザーをつま先で思い切り蹴る――割れて足が突っ込む感触。

「見覚えがあると思った」と張本が言った。「お前、徳山が引き取ったガキか」

「スヒョンはてめーみたいなのが悪だって言ったよ」

「金は受け取っておいて、酷い言われようだねえ」

「てめーが善人を金で誘惑したんだろうが」

「ものは言い様、捉え様……いつからブギーマンに手を貸していた?」

「たった今から」

「全く。半分はコリアンだろうに」

「俺は誰の子供でもない。この街の子だ」

 会話を叩き切る不意打ちの前蹴り――張本は軽々と躱す。

 だが予想の範疇。張本が格闘術に通じていることは知っていた。そしてその情報源そのものが二の矢となって襲いかかった。

 戦闘員を倒した灰村禎一郎――人の背丈を優に上回る驚異的な跳躍からの空中回し蹴り。ドバト男事件の際にネット上に出回った動画の光景が再演され、振り向いた張本の顔面を不意打ちでまともに捉える。

 よろめいた張本。

 軽くステップして間合いを合わせ、佐竹純次の四肢が躍動する。右上段の飛び回し蹴りティミョトルリョチャギから着地と回転の勢いを殺さず後ろ横蹴りヨプチャチルギに繋ぐ二連撃――かつて憂井道哉に使い、ブギーマンに破られた技だった。

 存分に的中――時代錯誤なツイードで着飾った男の身体が一〇メートル先まで吹き飛んだ。


 扉の開く音――固定翼ドローンの破壊を中断しコンテナに身を潜めるブギーマン。

 抜き身の刀を提げた仮面の男――首狩りゾエル。七色の羽根飾りのついた笑顔の仮面を被り、左手にはサブマシンガン。切先が鉄張りの床に触れて火花を上げる。

 倒れた部下と、破壊されたドローンを一瞥し、ゾエルは声を上げる。

「作業中のこの場所の線量は毎時五〇〇ミリシーベルトに達した。汚染土を飛散させればもっと上がる。潜めば潜むほどお前は死に近づくぞ、ブギーマン」一歩進むごとにブーツの靴音が反響。ゾエルは続ける。「自覚症状が出るのはおよそ一〇〇〇ミリシーベルトと言われている。気分はどうだ? それとも死体に吐き気を催したか。それは被曝の吐き気ではないか?」

 物音。ゾエルは即銃を向けて射撃。コンテナに火花が散り、ガラス器具が砕ける。

「不思議なものだ。気配を感じて銃を向けると」腰を落とす。刀を下段に構える。振り向きざまの斬り上げ――その先に黒い影。鋼と鋼が鋭い音を上げ、オレンジ色の火花が散った。「……お前はいつも反対側にいる」

 奇襲を見破られたブギーマン。笑顔の仮面の下で更に笑う首狩りゾエル。滑刀鉄甲と日本刀が真正面からぶつかり合う。

 鋭角な金属音――間合いが半歩から二歩に。

 サブマシンガンの銃口が上がり無造作な射撃。ブギーマンが前転しながら射線を避ける。ゾエルの腕が左に広がる。直後にブギーマンの手から金属片が放たれる。ひとつはゾエルの顔面を狙うが逸れる。だがもうひとつは銃床の隙間に突き刺さった。

 テルミット反応の火柱――銃を捨てるゾエル。

 その間に接近するブギーマン。黒包帯巻きの腕が、夜間迷彩の野戦服にタクティカルグローブの左腕に絡みつく。関節が極まる寸前にゾエルが身体ごと動く。下段蹴り。膝蹴り。ブギーマンの身体を確かに捉え、組手が解ける。

 ただでは退かないブギーマン――掌底がゾエルの脇腹を打つ。だが浅い。大上段からゾエルが右手の日本刀を振り下ろす。

 軌跡のあらゆるものを断ち切る風切り音。辛うじて躱すブギーマン。返す刀が両手持ちになる。

 だが青眼からの打ち込みは滑刀鉄甲が易々と捌く。太刀筋が逸れ、鉄甲の表面を刃が滑って力が全て外へと受け流される。行き先を失った力のために体勢を乱したゾエルの胴へブギーマンの横蹴りが入った。

 一度間合いを取る――刀を構え直したゾエルが言う。

「腕を上げたな」

「そちらもな」

「面白い防具だ」

「貴様には破れまい」

「どうかな」

 ゾエルの構えが変わった。

 青眼から、上段の霞の構え。前に突き出た切先がブギーマンの黒包帯で覆った顔面を指し示す。

 そこから僅かに切先が下がる――首を狙う。

 包帯装飾のマスクの下、憂井道哉のこめかみに冷や汗が滲む。そして一個の砲弾となったゾエルの突きが道哉とブギーマンを襲った。

 一撃、辛うじて鉄甲で軌跡を左へ逸らす。

 二撃、右の鉄甲で受けつつ腰を落として潜るようにして躱す。

 三撃、今度は中段。力が抜けずに支えられる構えの突き。

 躱せない――受けるしかない。鈍い金属音が船倉に木霊した。

 切先を右の鉄甲で受け、刃を左の鉄甲で下から支えるようにして受ける。その姿勢のままゾエルは刀を押し込み、ブギーマンは真正面から受け続ける。いつ崩れるとも知れない危うい均衡。その時、道哉は右腕に違和感を覚える。

 鉄甲が外れかかっていた。激しい打ち合いで〈バグワーム〉との換装機構が破損したのだ。

 逸れれば刃が突き刺さる。道哉が焦り、ブギーマンの動きが乱れる。その乱れをゾエルが容赦なく読む。

 全く前触れなく、ゾエルが刀から手を離した。

 不意に抗力が消えて足元を乱すブギーマン。刀と共に右腕の鉄甲が外れて落ちる。全く同時にゾエルが右腰の拳銃を抜く。咄嗟に身体を逸らすブギーマン。二発発砲。大雑把な照準だが近距離――一発が左腕を貫く。

 焼けた火箸を突っ込まれたような激痛。構わず逆に間合いを詰める。

 だが三発目はなく、代わりにゾエルは右手の拳銃を投げる。受け取ったのは左手。そして右手は落着寸前の刀を掴む。

 右手に刀、左手に拳銃。隅田川沿いの廃工場では見せられなかった最も得手とする戦闘スタイル。引いた刀にブギーマンの左脹脛外が浅く切り裂かれる。左の拳銃――だが発砲の前に更に内側の間合いに飛び込んでいるブギーマン。左の手刀が喉を打った。

 あの時はここで止まった――だが今度は止まらない。誰も止められない。

 ゾエルは体勢を崩しながら右手の刀を振るう。腰が入っていない打ち込みをブギーマンの左手の鉄甲が容易く払う。右の掌底打ちがゾエルの鳩尾を打つ。呻きながら左手の拳銃を発砲。ブギーマンの右太腿を弾丸が貫く。

 互いに倒れない。

 ゾエルの銃を構えて上げた左腕にブギーマンが絡みつく。脇の下と手首で関節を極める――拳銃が手から落ちる。

 ゾエルが刀を持ったままの右手でブギーマンの顔面を殴る。逆にブギーマンの頭突きで組手が解ける。

 左の鉄甲での裏拳から右の拳の二連撃。太腿の痛みに歯を食いしばりながらの右の後ろ横蹴り。さしもの首狩りゾエルもよろめきながら数歩後退る。

 そして笑顔の仮面が外れて落ちた。

 互いに荒い息。互いに全身にダメージ。互いに倒れる寸前。だが倒れず、敵意の塊となって睨み合う。

 すると、ゾエルの構えがまた変わった。

 八相の鏡写しのような奇妙な構え。そこから左脚を引き、上段へと刀を巡らせる。切先が円弧を描く。ぎらつく刃が満ちては欠ける月のように見える。そして八相から更に下がり脇構えになる。偽りの月が対峙するものを幻像の世界へと誘う。閉じたはずの目を奪われる。

 そして刃が消えた。

 一瞬、それが致命的な隙のように見える。無防備でどうあっても拳が通るように錯覚する。だが違う。これは罠なのだ。刃を消して敵を誘い、必殺の太刀筋で命を狩り取るための。

 その正体――磨き上げた刀身が周囲の景色を写し込み、まるで透明になったかのように見える一瞬の角度で、刃を身体で隠す技。

 ブギーマンが一歩踏み込む。その瞬間、我が意を得たりとゾエルが動く。消えていたはずの刀身が姿を現す。苛烈な打ち込み――手首を返しながら∞字を描くような二連の斬撃。その一撃目は、ブギーマンが左腕に装着した鉄甲が弾く。

 だが、返しての二撃目を、鉄甲が失われたはずの右腕が、捌いた。

 確かに右腕に刃が立ったはずなのに、滑る。

 まるで見えない力場があるかのように、刀が右腕の上を滑っていく。スーツの表面を裂き、固定機構を破壊する。だが肌に刃が達することはない。

 逸れた刃は行き先を失って床のチェッカープレートに突き刺さる。

 ブギーマンが気合声を上げ、左の鉄甲が刺さった刃を叩き折った。

 そしてゾエルの右手首を左手で掴み、右手で顔面を繰り返し殴打する。

 手首が砕け、折れた刀をゾエルが取り落とす。更に左の手刀がゾエルの右肘を強打。肘が逆に曲がる。

 防具など無意味なほどの力で腹部を蹴り上げ、鉄甲の裏拳が側頭部を殴打。なおも倒れないゾエルを低い姿勢からのタックルで倒し、膝十字固めに移行。

 首狩りゾエル/ブギーマン・ザ・フェイスレス――互いに意味を成さない咆哮。

 そして鈍い音とともにゾエルの右膝関節が折れた。

 固めを解いて立ち上がるブギーマン。

「姉妹はどこだ」

 呼吸を荒げ、呻きながらゾエルは応じた。「最上層、特等客室」

 痛みに歩みを乱し、目の前の固定翼ドローンを破壊しつつ、ブギーマンが言った。「ここは線量が高い。お前はもう動けない。即ち遠からず、お前は死ぬ」

「正義の味方が、殺すのか?」

「仮面は人を、人でないものにする。古来、人は仮面によって神を降ろし、人を超えた。お前もそうであるのなら、死なないだろう」

「まやかしだ。フィクションにすぎない」

「俺はまやかしではない」

 拳の一撃――首狩りゾエルの鼻が砕けた。

 そのまま倒れ伏したゾエルを尻目に、ブギーマン・ザ・フェイスレスは歩き始める。

 演出されたまやかしに過ぎないはずの男――傷を受けながらなおも立つ。一歩進む度、現実は書き換えられる。

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