東京の天気予報は夜から大荒れだった。

 〈ファンタズマ〉が最後通告として提示した時間から品川埠頭の係船施設使用状況を調べたところ、一致するフィジー船籍の貨客船を発見。〈黄金の太陽〉号という船名が、羽原紅子の疑念を確信へと変えた。かの国の神格化された国家指導者の名に由来すると推測したのだ。

 果たして埠頭周辺の監視カメラに写った人物やドローンを飛ばして撮影した顔写真の中に〈ファンタズマ〉の関係者を発見。あろうことか通関業者の中にも〈ファンタズマ〉、あるいは北朝鮮工作員と思われる人間の浸透が確認された。

 作戦は流動的にならざるを得ないが、埠頭内部に地下通路の出入口が一箇所。道哉のすることはシンプルだった。

 紅子の号令を待ち、忍び寄り、殲滅する。

 その紅子は、電動超静音ステルスバイクの脇に座り込み、LANケーブルを繋いで調整の真っ最中だった。佐竹純次は椅子の上で船を漕いでいた。

「小森め、部品が全部一品物なのはともかく、汎用ソフトウェアと部品の対応が全く取れていないのはどうにかならんのか。わかりにくくて仕方ない」

「何をしてる?」

自爆機構をな」

「マジかよ」

「ごく小規模だ。基盤を焼くだけの。同時に作動からモータのリミッターが切れて、焼けつくまで回せるようになる」

「回すとどうなる?」

「焼ける」

「そりゃそうか」

「機密保持のためにな。経緯が経緯だ。ほぼハンドメイドだから、そうそう足がつくことはないと思うが……」

「備えるに越したことはないってことか」

 そういうことだ、と応じて紅子は立ち上がった。「スタートスイッチの下にスイッチを増やした。使う時はこれを押し込め」

 赤い、誤押下防止カバーのついた、いかにも危なげなスイッチ。指先でひと撫でして道哉は応じた。「了解」

 紅子は満足気に続ける。「黄金の太陽号の出港は〇時だ。問題は……」

「皇居侵攻組を連中が回収するつもりか」

「そうだ。撤退するつもりがあるのか、捨て身なのか。それによって、我々も二手に別れるか否かが決まるわけで……」

「同時展開で特攻だろうな。つまり……」

「皇居組を倒してから船を攻めたのでは間に合わない。……不安か?」

「まあな。お前は地下で灰村のサポートに回ってくれ。船の方は俺でなんとかする」

「なんとかってな……サポートなしでは危険だろう」

「問題ない」

「いいや、追える限りは追わせてもらう。君をひとりにするわけにはいかない」

「前線には出ないくせに、よく言う」

「テクノロジーは距離を越えるのさ」

 ものは言い様とはこのこと。紅子相手に理屈を捏ねようとしてもひっくり返されるだけだ。道哉は、サポートについては納得することにして言った。

「トラップは?」

「八割方敷設完了している」紅子はスマートフォン片手に応じた。「葛西と怜奈くんが頑張ってくれてる。おかげで私はひと休みだ」

 道哉は腕時計に目を落とした。「間に合うのか?」

「一〇〇パーセントは間に合わないな。もうすぐ撤退させる」紅子はPCの画面を横目で見遣る。「万が一にも、ふたりが〈ファンタズマ〉と鉢合わせたら事だ」

「戦闘が始まったら、彼らは退避させろよ」

「葛西は自分で爆破すると言って聞かないし、怜奈くんにしても聞く気はなさそうだ」

「どいつもこいつも……」

「君のことが大事なんだよ」

「灰村は?」

「そろそろ来ると連絡があった。君も着替えろ」

「了解」

 道哉――テーブルの上に置かれたマネキンの生首から顔面を全て覆う包帯装飾のマスクを取る。


 かつて地下銀行といえば長く土地に浸透した食料品店や雑貨店がその役割を担うことが多く、かの三星会も、食品メーカー、食肉加工業としての表の顔を持つ有限会社高千穂興産を利用していた。だが現在は、個人がこの役割を担うことが多い。金に困った外国人がSNS等で送金請負と称して客を募るのだ。その外国人自体は、技能実習生や経済連携協定に基づき、正規のルートで入国して確かな身分を持つ。だが、そんな善良で優秀な若者が、経済的な困窮から悪の出先機関へと染められる。

 ベトナム国籍のホァン・ドン・ギャブもまた、そんな若者のひとりだった。

 母国への送金のためだ、という朝鮮人に口座を貸したのが最初。ホァンはその朝鮮人の男から受け取った金を自分の銀行口座に入れ、ベトナムで男の仲間が金を引き出す。ホァンは手数料を受け取る。最初は一万円程度のものが、次第次第に額が大きくなり、数十万単位の取引が月に数度も発生する。当然、ホァンが手にする手数料の額も大きくなる。だが同時に不安になる。これは故郷への仕送りなどではなく、何か全く別のものなのではないかと。

 事実、それは〈ファンタズマ〉による武器や戸籍、口座、通信回線、偽装在留カードの取引の一端だった。〈ファンタズマ〉はホァンや、ホァンのような若者たちの口座を通じて他の非合法組織へ送金し、船上の瀬取りや偽装コンテナで使い捨ての装備を次々受け取った。ある意味でそれは資金洗浄だった。ヴァーミリオンの転売や〈I文書〉の力で半自動化したサイバー犯罪、特殊詐欺によって得た資金を、〈ファンタズマ〉は次々と戦闘のための物資へと変えていった。日本人の金であることが重要だった。日本人から騙し取った金が身分証となって彼らを守り、弾丸となって彼らの行く道を切り開く。

 そして雨の降り頻るその日、ホァンの自宅アパートに招かれざる客があった。

 呼び鈴を鳴らす少女は、場違いな過剰装飾の黒いドレス。黒インクに浸した絹糸のような長い髪。白墨で塗り込めたような白い肌。無警戒に扉を開けたホァンの額に、少女が手にした消音器つきの拳銃が突きつけられる。

 神に祈る間も与えず発砲――その場に崩折れるホァン。広がる血溜まりを背に、少女、入江いりえまぼろは鼻歌交じりにその場を後にする。

 その夜、都内各地で多数の〈ファンタズマ〉関係者が、ホァン同様に殺害された。その多くは、無自覚だった。知らぬ間にテロ組織に加担し、理由もわからず銃を向けられて死んだ。いずれの事件も、初動捜査の適切、不適切にかかわらず、実行犯の行方は杳として知れなかった。まるで煙か、雨の夜の幻像のように消えたのだ。

 彼らは一斉に地下に潜った。東京のあらゆる場所に偏在する入口から。それはこの世の悪があらゆる場所に口を広げて無垢なる人々を待ち受けている様に似ていた。何も知らない市民が暮らす眠らない街の底深くで、幻像の名を頂く者たちが蠢く。やがて彼らは、地下に開けたある空洞へと集結する。地上に出れば、品川駅にほど近い倉庫のひとつ。彼らは無言のまま新たな――最後の装備を受け取り、ある者は埠頭へ、ある者は都心へと進む。

 都心組――先頭を行く四〇年台風のツイードにフェドラハットの男。なぜか絶え間ない笑顔で軽やかなステップを踏む、張本銀治。地下で通信が行えるよう手配された無線に向けて言う。

「いい夜だ。天も喝采している。ねえ、お嬢」

「帽子の下は空っぽなのかしら」

 応じた入江幻――すがたを伴って埠頭へ向かう。

 天王洲を経由し首都高速1号――一九六二年、東京オリンピックに先んじて開通した、羽田空港から東京を結ぶルートの地下へと進軍。まるで誰かがそこを通ることを待ち侘びていたかのように隧道トンネルが走る。バブル期の再開発の喧騒を息を潜めてやり過ごして三〇年余り。今、地上に広がるウォーターフロントの絢爛を、湿ってひび割れたコンクリートがせせら笑う。どこかから、恐らくは違法に引かれた電線を利用して先遣部隊が点々と照明を敷設し、露払いが済んだ道を肩を寄せて双子の姉妹が歩く。エナメルが砂を噛み、フリルが影の花を咲かせる。

 やがて彼らを光が包む。

 港湾施設の一角に停められた2トントラックと積み上げられた小型コンテナの隙間にあるマンホールの蓋が開き、〈ファンタズマ〉の男が顔を出す。待ち受けていた仲間が手を伸ばして引き上げる。目の前には〈黄金の太陽〉号。遅れて地上に引き上げられた黒の少女、入江幻は、鼻につく潮風に顔をしかめた。そして続けて姿を見せた白の少女、入江像は、髪を風に遊ばせ、広がる景色に歓声を上げた。部下の男が少女たちに傘を差し出そうとするが、ふたりとも、濡れることが運命であるかのように断り、水溜りの中へ歩みを進め、光の方へとふたり並んで手を伸ばす。

 首都高速11号と臨港道路、新交通システムゆりかもめが一体となった風光明媚な観光名所、東京港連絡橋――またの名をレインボーブリッジ。その名の通りの虹色にライトアップされたそれは、何もかもを暗闇の中に繋ぎ留める東京の悪徳から、無限に広がる自由の世界へ通じる架け橋のようにも見えた。

 出港準備を進める男たちが手を止め、その場で直立。全員が一糸乱れず、彼らの指導者――〈幻像姉妹スペクター・ツインズ〉に敬礼する。多くは食品輸入業者の作業服姿。フィジー船籍の貨客船〈黄金の太陽〉号の表向きの貨物は食料品なのだ。かつて三星会の出先機関として機能した高千穂興産の関連会社のひとつが、今またダミーとして機能し入国管理局を騙す。

 一方の都心組――桜田通りの地下を跨ぎ、都営三田線の保線設備を掠め、首都高速2号目黒線に添って走る大規模な地下道へと出る。オートバイどころか四輪車の通行も可能なほどの広さ。

 張本が帽子を取って掲げると、並んだ構成員らが鏃型に陣形を変える。そのまま前進すること五分ほど。あらかじめ車両を搬入してあった地点へ到達する。

 数人が先刻受け取った装備を解き、オートバイへの固定を試みる。二〇〇〇製造された汚染土爆弾のひとつ――目的地へ到達したら自爆攻撃を行う予定だった。

 だが、直後に違和感。方々から同じような声が上がる。その理由は明らかだった。

 タイヤが一本残らず何者かの手によって切り裂かれていた。

 何も忘れない〈ファンタズマ〉の進撃。

 その裏で静かに爪を研ぐ何も見逃さない者たち。

 モーションセンサに連動した赤外線カメラがシャッタを切り、災害用に整備された大深度地下でも通信可能なデータ通信回線を介して匿名のクラウドサーバに画像がアップロードされる。ほぼリアルタイムでそれを確認した羽原紅子が、回転椅子を回してほくそ笑んだ。

「見つけたぞ」

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