白基調の、オフィスビルのような建物を口を開けて見上げ、灰村禎一郎は「すげえ」と呟いた。

 都内にある城南大学理工学部のキャンパス。広大な敷地はよく整備された緑に溢れ、周辺地域の住民にも開放されている。行き交う人々も、学生やランニングする男性、犬を連れた主婦、腰の曲がった老人など様々だった。それでもさすがに、制服を着た男子高校生は浮いていた。

 一応、アポイントを取り、学校は適当な理由をつけて欠席した。

 大学という場所に足を踏み入れるのは、生まれて初めてだった。

 周りでも気が早い同級生らは、オープンキャンパスに足を運んだり予備校の講習に通ったりと、将来を見据えて動いていた。そんなに焦ることはないと思っていたし、まだ大丈夫、まだ大丈夫と自分に言い聞かせていた。いつ自分が少数派になるのかという怖さに、常に背中から追いかけられていた。

 禎一郎が訪ねたのは、理工学部の原子核工学科。

 ここに、禎一郎の旧友が所属する研究室があるのだ。

 エレベータで六階へ。すると、すぐ正面の、飲料自販機とテーブル等が並ぶ休憩スペースのような場所に、懐かしい顔があった。

 会うのは小学生の頃以来。だが彼の笑顔を見た瞬間、時間は吹き飛んだ。

「禎一郎?」

「ハカセ先輩」

「ハカセはやめろって」照れ臭そうに笑い、メタルフレームの眼鏡を直して旧友は応じる。「まだ博士号は取ってない」

 佐久間博史。城南大学大学院原子核工学研究科博士課程所属。細身の身体も色白な顔も、姿勢が悪いところもいやに鋭い目つきも、記憶の中にあるものと同じだった。変わったのは、髪が伸び放題なことと、汚れた白衣を着ていること。

「ひっさしぶりだなあ。今、高校?」

「高一。年度明けから高二だぜ」

「そっかー。あの禎一郎が高校生かあ」

「おっさん臭えよ」思わず苦笑いになる禎一郎。「ていうか、俺、先輩が東京にいると思わなかった」

 僕だって、と応じつつ、周りの目が気になったのか、博史は禎一郎を手招きした。

 導かれたのは、ごく小さな台所とダイニングテーブルがある、ちょっとした居間のような部屋だった。学生が飲み食いした後らしき食器やゴミが目につく。

 壁には福島第一原発の遠景写真。放射線量の最新のモニタリング数値。目移りしていると、マグカップのインスタントコーヒーが置かれた。来客用、というほど小綺麗なカップではなかった。博史の振る舞いも、公共の場所のような緊張感はなく、むしろ自宅に予期しない来客を招き入れたかのように解れていた。

 自宅の外に自宅のようなスペースを持つ感覚は、禎一郎の知らないものだった。博史はどこか誇らしげな雰囲気だった。なんだか旧友が遠くへ行ってしまったようで、禎一郎は一抹の寂しさを覚えた。

「それじゃあ禎一郎、今は親戚の家に?」

「まーね。茨城の家に居づらくなっちゃったし」博史が目を伏せたのを見て、禎一郎は慌てて続ける。「いや、先輩のせいじゃねーって。今は今でそれなりにやってるし」

 そっか、と呟いた博史の表情が少しだけ明るくなる。「映像見たよ。楽しそうでよかった」

「映像って」心臓が跳ねた。まさか、と内心冷や汗をかきつつ禎一郎は言った。「なんの映像?」

「ほら、仮装して走ってるやつ」

「ええと。ハロウィンの?」

「そうそう。渋谷の。パルクールっていうのか? あれ、すごいねえ。禎一郎、昔から運動神経はよかったけど……」

「俺なんて、まだまだだよ。初めて三年だし。先輩はもっとすごくて」

「じゃあ東京に引っ越してから?」

 まあね、と応じておく。結局どちらなのかよくわからない。

「俺のことはいいからさ。先輩は? ノーベル賞?」

「いやいや、まだまだ」と謙遜しながらも、博史は誇らしげだった。こういう顔ができるようになりたいと思った。「原発廃炉技術の研究開発だよ。うちの教授、放射性核種、特にトリチウムの分離については第一人者なんだ」

 後半は何を言っているのかわからなかった。前半だけはわかった。

「じゃ、夢、叶えたんだ」と禎一郎は言った。

 禎一郎が、茨城県水戸市の親類の家に身を寄せていた頃、原発被害を被った地域の生まれであることを理由に学校でいじめを受けたことがあった。藤下稜に話した除染事件は、数多くの仕打ちのうちのひとつに過ぎず、中には心を病んだ母親を中傷するようなものもあった。

 子供の裏には親がいて、心無い言葉をぶつける子の裏には「あそこの家は」「灰村くんの親は」「避難者は皆」と噂し笑う大人たちがいることは目に見えていた。だから同級生や上級生らに怒りをぶつけても意味がないのだと本能的に理解していた。だが、それで苦しみが減ることはなかった。多くの人が持つうっすらとした悪意はそれを一身に受けた禎一郎の中で色濃くなり、振り払えない呪いへと姿を変えようとしていた。

 代わりに怒ったのが佐久間博史だった。

 禎一郎を引き取っていた親戚と佐久間家は、ご近所で家族ぐるみの付き合いをしていたことや、ともに福島から避難した親戚を受け入れていたことから結び付きが強く、禎一郎も博史を兄貴分のように慕っていた。

 かつて、まだ今ほど原発事故が風化していなかった頃、同じような悪意に晒された経験が博史にはあった。幼いころは耐えるだけだった博史だったが、当時もう高校生。世の中を利用することを既に学んでいた少年・佐久間博史は、マスコミや新聞社にいじめの事実をリーク。同時にSNSで、禎一郎への仕打ちの具体的な内容を生々しく発信し、興味がある人間が調べれば学校を特定できるよう仕向けることで、炎上へと導いた。

 結果、学校は謝罪。禎一郎へのいじめも収まった。

 だがそれでも、同じ共同体の中に留まり続けることは禎一郎にとって苦痛であり、お前がいなくなれ、という無言の圧力には抗し難かった。そして禎一郎は、中学への進学を機に東京の親類の元へと居を移したのである。

 その別れの日、佐久間博史は、僕には夢があるんだ、と言っていた。

「廃炉の仕事したいって言ってじゃん」

「まあ、確かに……」

「俺、高校生になったけど、先輩みたいにやりたい仕事とかないし」

「そんなんじゃないよ。興味があることをやってるだけで」照れ隠しのように言うと、博史はコーヒーが冷める間もなく立ち上がった。「トリチウムの分離は極めて困難と言われてきた。だからその他の放射性核種を除去した後のトリチウム含有汚染水は、海に流すしかなかった。大量で低濃度の汚染水からトリチウムを除く技術はコスト面で難がある。少量スケールでできることと、生産スケールでできることは全く違うんだ。せっかくだから見ていってよ。僕の研究」

「いいの?」

「ていうか、せっかくの機会だから、自慢させて欲しい」博史は得意気に笑った。知っている表情だった。何か、自分だけが知っていることを披露するときの、彼の癖だった。大学院生になった彼は記憶の中にいる高校生の彼とは少し違っていたが、その瞬間は、時間が巻き戻ったように錯覚した。間違いなく同じ人なんだという安心感から禎一郎も頬が緩み、立ち上がった。

 短い人生だが、節目節目で人間関係をリセットしてきた禎一郎にとって、佐久間博史という人は特別な存在だった。過去を知る人。過去を証してくれる人。

 過去のうち、振り返りたい唯一のもの。

 居室から数枚の扉をまたいで実験スペースへ向かう。その中でもさらに隔離されたスペースがあり、ショーケースのようないかにも実験室然としたガラス張りの装置に数人の学生が手を突っ込んで、何かを調整している様子が見て取れた。

「あんなのでも放射性物質だから、ドラフトチャンバーの中でも鉛でちゃんと遮蔽して扱うんだよ」

 入るのは駄目ね、と博史。彼は自分だけ部屋へ入ると、程なくして五〇〇ミリリットルの缶ジュースほどの大きさの筒を持って戻ってきた。

「これは?」

「一般的なシリカの多層体に酸化マンガンを精密に混合して成形し、三次構造に一部ランダムコイルを作って水素化の程度をコントロールできるようにしたものだ。僕たちは〈TSシリカ〉と呼んでる。大量、低濃度の汚染水からトリチウムを含むあらゆる放射性核種をほぼ一〇〇パーセント吸着、除去できる。生産スケールでの重合条件出しにかなり難儀したが、今年からF1で多核種吸着塔の一部をこれに換えての稼働が始まった。以前から実証試験は行っていたが、本格稼働はこれが初だ」

「へえ……これがねえ」しげしげと眺めてみる。軽石か何かのような灰色の粉末が充填された、ただの筒にしか見えない。

「再利用が容易なのもこれの革新的なところだ。分離が容易で環境負荷も小さい少量の溶媒で、吸着した放射性核種の九九.九九九九パーセントを除去して再利用可能だ。そうやって凝縮したら厳重に遮蔽して廃棄施設に封印することを検討してる」

 しばしその〈TSシリカ〉のボトルを眺めてから禎一郎は言った。「これ、ハカセが作ったの?」

「手を動かしたのは僕だけど……塚原先生の指導があってのことだ」

「先生?」

「この研究室のボス」

 へええ、と声を上げる禎一郎。

 後ろを、生真面目そうな男子学生が「お疲れ様でーす」と声をかけつつ通り過ぎていく。

 塚原清志。城南大学理工学部教授。ここを訪ねるにあたって、ひと通りの下調べは済ませていた。

 塚原の名で検索すると、福島第一原発の廃炉についてのインタビュー記事や研究内容の紹介などが多くヒットする。放射能リスクに関する考え方を記したポピュラー・サイエンス本なども著しており、テレビ等のメディアへの出演も豊富だった。

 一方で、福島で実際に除染・廃炉作業にあたっているらしき業者の名も検索結果の上位にあった。いずれも、塚原研究室との共同研究、塚原研究室学生らの見学受け入れ等々、誠意ある仕事に基づく信頼関係あっての結びつきが見て取れた。

 そのような多彩な関係と自分の顔面が大きいことをかけて、「文字通り顔が広い」などというジョークをしばしば飛ばす。五〇代半ばの、白髪が目立つ年齢を感じさせない精力的な活動には驚かされた。この世の人々を凄い人とそうでもない人に二分するなら、塚原は間違いなく凄い人の部類に入る人間だった。

 コーヒーが冷めたテーブルに戻ると、博史が口を開いた。

「先生は、決して忘れないんだ」

「忘れない?」

「そう。世間がどんなに原発被害のことを忘れ、苦しんだ人がいることを忘れ、今も目に見えない恐怖を振り払おうと昼夜戦う人々がいることを忘れても、先生は忘れない。メディアに露出して本を書いて、技術開発もして、僕らみたいな後進も育てて、忘れてはいけない痛みを忘れさせないように全力を尽くしておられる」

「忘れるって」違和感を覚え、禎一郎は思わず抗弁する。「そんな風に言わなくたって」

「なぜ?」

「いや、なんつーか……俺は、そういうのが忘れられていくのって、悪いことばっかじゃないって思うっつーか」

 すると博史は、恐る恐るの禎一郎を励ますように笑った。「禎一郎は人間ができてるな」

「どゆこと?」

「僕は怒りを感じる。ふた言目にはコストコスト。あの時は国難だったし今も国難であることに変わりはないのに、誰もがコストを引き合いに全力を尽くすことを否定する。むしろあの頃が懐かしいくらいだよ。津波の映像が毎日のようにテレビのニュースで流れ、日本中が恐怖の力で連帯していたあの頃がさ」そこまで一気に言い切って、博史は相好を崩した。「ごめんね。禎一郎が、物心つく前の話だ」

 禎一郎の背中を嫌な汗が伝った。

 お前は何も知らないのだ、と責められているような心地だったのだ。

「やっぱり俺って、幸せなのかな。幸せだから、わからないっていうか。俺が何かしようとしたって、基本的には余計なお世話っていうか」

「そうは言ってないよ。でもね、禎一郎」目を逸らし、博史は続けた。「上の世代が忘れられないことを、忘れられる世代に生を受けた君を、僕は羨ましいと思うよ」そこまで言うと、話は終わりとばかりに博史は立ち上がった。「ごめん。データ取りがあるから今日はこれで。先生には話通しておくから、好きに見学していってよ」

「いや、帰るわ。……久々に話せて嬉しかった」

「また来てよ。禎一郎なら、いつでも大歓迎だから」

 じゃあまた来る、と応じ、禎一郎は塚原研究室を辞した。

 エレベータを下り、建物を出て、キャンパスから街へ出てようやく深呼吸する。

 まだ暖かさには程遠い気温にもかかわらず、全力疾走した後のように全身に汗をかいていた。

 禎一郎が佐久間博史を訪ねたのは、隅田川沿いの廃工場に姿を見せた〈ファンタズマ〉の技術者らの中に、彼によく似た顔を見かけたからだった。当然、チーム・ブギーマンの誰にも告げていない。旧友である佐久間博史という人が本当に〈ファンタズマ〉に加担しているのか、それとも単なる見間違いなのか、まず自分の目で確かめるつもりだった。

 再会した博史はかつてと同じく、真摯で情熱に満ちた優秀な人間だった。彼がテロ組織に加担することなどありえないと再確認できて、安心したはずだった。

 雑踏の中、禎一郎は呟く。

「〈ファンタズマ〉は忘れない」

 忘れないんだ、と博史は言った。

 クラクションを鳴らされ、我に返った。気づけば赤信号の横断歩道の真ん中で立ち尽くしていた。

 禎一郎は走り出した。

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