「つまり、このステッカーを追いかけたら〈ファンタズマ〉を名乗る謎の武装組織が出てきて、仮面で日本刀を振り回す東南アジア人とゴスロリで双子の美少女が出てきた」白ハゲPのステッカーを指先で摘んだ片瀬怜奈は、不愉快そのものの様子だった。「いつから冗談が上手くなったの?」

「労いとかないのかよ」

「いつもお疲れ様」

「おう」道哉は思わず仰け反って応じた。

 昼休みの図書室の、図書委員が陣取るカウンターの後ろにある司書室。片瀬怜奈はいつの間にかそこを半ば私室のように占拠していたらしく、本来は生徒の学びのために図書館機能を整備する中枢になるはずの部屋は、彼女の趣味を色濃く反映した奇妙な空間へと成り果てていた。

 壁には海外ドラマのポスター――抽選で一名の難関を突破して入手したキャストサイン入り。

 棚には大量のモードファッション雑誌のバックナンバー――近所の図書館が蔵書を整理する際に手に入れたもので、リサイクル図書と書かれたシールが貼られている。

 積み上げられた展示会の図録――西洋美術から科学展まで多種多様。

 そしてハンガーラックに他校の女子の制服、制服、制服――どこかで見たような。あるいはターミナル駅などでそれを着た他校の女子とすれ違っていたのかもしれない。少なくとも一種は、道哉にも見覚えがあった。連続強姦魔ドバト男事件のときに、被害女性と接触した怜奈が変装目的で着ていた、セーラー服だ。

「いつの間にこんな場所を」

「使ってくださいって言うから」

「誰が」

「図書委員の子たちが」怜奈は、部屋の扉を目で示す。

 丸窓に張りつくようにして室内の様子を窺う女子生徒が三人いた。一年生のようだった。全員、一見して怜奈を真似したとわかるストレートロングの黒髪。怒りによく似た全く違う感情を浴びせられている気がして、道哉は思わず目を逸らした。

「なんだあれ。ファンか」

「さあ……」白々しく首を傾げる怜奈。「羽原さんは、なんて言ってるの?」

「今夜集合だって」

「どんな様子?」

「自信を失くしてたよ」

「一大事だね」

 無理もないだろ、と道哉は応じた。

 ドローンのコントロールを奪われ、追跡を看破された。WIREの覗き見も知られており、切り札のひとつであった、ブギーマンがふたり一組であることも向こうに知れた。それだけの犠牲を払っても、手に入れられた情報は敵組織の名前と、双子の美少女が指導者であるという浮世離れした事実だけ。警察の介入で決着は持ち越しになったものの、羽原紅子にしてみれば、今回は完敗に近いのだ。

 もっとも、道哉にとっても似たようなものだ。

 ほぼ一対一の状況を作りながら、首狩りゾエルを倒せなかった。それどころか、あのまま戦い続けていては、ゾエルを倒せても引き換えに致命傷を負っていたに違いない。自分と同じか、ともすれば自分より強いかもしれない相手と立ち会ったのは、榑林一真という規格外かつ例外の男を除けば、初めてだった。

「やっぱり攻めるとしたら張本だと思う」ノートPCの画面をじっと見ながら怜奈は言った。「社会にコミットしている人間なら、端末を次々捨てるなんてできない。身近な人との連絡用というか、表の顔のための端末があるんだと思う」

「追跡を警戒しているんだろ? どうやって」

「〈リトル・サポート〉から攻めるしかない」怜奈はハンガーラックの制服に目を向けた。「羽原さんはたぶんそう考える。あんたは反対するだろうけど」

「決まってるだろ。少なくとも、張本は〈ファンタズマ〉の幹部格だ。灰村は柔道を遣うとも言ってた。危険すぎる」

「あんたは自分の心配だけしてなよ。負けたんでしょ」

「負けてはいない。勝てなかっただけだ」

「負けてんじゃん」

「そう単純じゃ……」言いかけて、道哉は言葉を変えた。「勝てなければ、負けだ。俺たちは」

 怜奈は意外そうに眉をひそめた。「負けたの?」

「強かった」

「銃で武装した連中? それとも、日本刀の男?」

「日本刀だ。妖しげな技を遣った」怪訝な顔になる怜奈に構わず、道哉は続けた。「目を閉じた世界は俺だけのものなはずだった。やつはそこに入ってきた。あいつは、俺の敵だ。俺が倒さなくちゃならない敵だ」

「やめたら?」

「なぜ」

「あたしだって、あんたが心配だから」

「そうはいくかよ。俺は……」

 すると、部屋の扉がノックされる。

 身構える道哉だが、入ってきたのは図書委員の下級生だった。鬼気迫る様子で「片瀬先輩!」と叫ぶように言う彼女。

「なあに?」

「エアコンの温度、どうですかっ!?」

「ちょうどいいわ、ありがとう」

 怜奈の微笑みを全身に浴びた後輩の女子は、途端に顔を真赤にする。何度も詰まりながらなんとか「失礼します」と言って部屋を出た。

 一連の顛末を見守っていた道哉は思わず引きつった笑みになる。「なんだ今の」

「さあ……」また怜奈は白々しく首を傾げる。「なんの話だっけ」

「続きは今晩にしよう。……そうだ、怜奈」

「何、改まって」

「昨日、俺が欠席したことで何か訊かれた?」

「あ、そのこと。訊かれたよ。そっちのクラスの松井くんと藤下さんに」

「どう答えた?」

「昨晩激しくしすぎたって」

「あああ……」

 頭を抱える道哉に、怜奈はやや申し訳なさそうに言った。「いや、冗談だからね?」


「〈ファンタズマ〉め。この私を愚弄したことを後悔させてやる」

 地下室の羽原紅子は、端的に言って荒れていた。

 いつもの倍の回転数で椅子が回る。倍の速度でキーボードの上を指が走る。倍の数のウィンドウがモニタに並び、倍速で喋り始める。

「まずは〈リトル・サポート〉を当たる」大型モニタに〈リトル・サポート〉のウェブサイトが表示される。「怜奈くん。君には貧困問題に興味を持ちAO入試のための実績作り狙いでNPO法人の活動に参加しようとする生真面目でしたたかな女子高生を演じてもらう。制服は年上に受けるように着ろ。スカート丈は程々にな。プロフィールは……」履歴書のような書類を一瞬だけ表示させ、すぐに隠す。「後で渡す。目的は、張本銀治の身辺調査。入江明が、商材としての子供のリスト化とその輸送手段の確保のためにその手の組織を隠れ蓑として利用したように、張本が〈リトル・サポート〉に参加したのも、〈ファンタズマ〉の目的に連なる何かの意図があるはずだ。それを探る。可能なら彼の日頃の行動や関係のある組織、人物を調べ上げる」

「わかった」と怜奈は応じ、髪に手櫛を通す。「そういうキャラならポニーテールにしようかな」

「次、葛西。お前には搦手から調べて欲しいことがあってな。土橋の件で、続報があった」指名に驚いたらしい葛西が虚勢を張るように腕を組み、紅子はそれを一瞥もせずモニタの表示を切り替える。ふたつのニュース記事だった。「土橋の体内から薬物反応が出たとの報道だ。詳細は分析中とのことだが、警察がどこまで掴んでいるのかはわからん。私は、この事件との関連を疑っている。今年の正月早々、愛知でハイブリッド型イスラム武装組織〈神の水滴〉と、他の何らかの武装グループとの間で衝突があり、〈神の水滴〉側の主要メンバーが拷問の跡がある死体となって発見されたという一件だ」

 煤で汚れた手で黒縁眼鏡を直す葛西。「これ、何か関係が?」

「〈神の水滴〉のリーダーだがな、首を斬られていた」吐き捨てるように言う紅子。「イスラム原理主義過激派の、主にタリバン的な神学に染まった連中は斬首の刑などをよくするそうだが、今回の〈神の水滴〉は斬首される側だった。違和感があったのだが……敵対する謎の武装グループが〈ファンタズマ〉で、首狩りゾエルがいたとすれば、筋が通る」

 話が見えた、と葛西。「〈神の水滴〉は敵対都市に独自の薬物を流通させることで有名だ。つまり〈ファンタズマ〉がそれを奪ったと考えているんだね?」

「憂井が現場で見つけた注射器もある。解析の手筈は?」

「学生時代の知人に大学に残って有機化学系に進んだ人がいるから、彼に頼んだ。数日中にデータを受け取れると思う」

「大丈夫なのか?」

「大丈夫大丈夫、ザル管理だから。運転記録は手書きだし。なにせ出力がMOなんだよ、このご時世に」

「我が国のアカデミズムの行末が心配になってきたよ」

「でも羽原さん、薬は手段だよ。〈神の水滴〉にとってはイスラムの敵に対する聖戦の。〈ファンタズマ〉にとっては、何の手段なんだろう」

「土橋に投与して、薬物を報酬に服従を強いていたのかもしれないが……その目的だ。お前の調査がそこへ迫れることを期待する」

「了解」

「灰村は白ハゲPだ。やはりあれが気になる」

 身を乗り出す禎一郎。「何か手がかりが?」

「いや……すまん」今までの勢いが嘘のように歯切れ悪く、紅子は応じた。「こればかりはわからん。売られているものを〈ファンタズマ〉が利用したのか、それとも何らかの目的があって〈ファンタズマ〉があれを流通させたのか。雲を掴むような調査になるが、君なら道を見出だせるだろう」

 禎一郎は釈然としない様子だった。「でも、そもそもなんでPなんでしょうね。ファンタズマって、Fじゃんっすか」

「イタリア語で亡霊なら、頭文字はFだね」と怜奈が口を挟んだ。「でも、ファンタスマゴリアなら、頭文字はPになる」

「僕ら的には小山田圭吾のアルバムだねえ」と葛西。

「黙ってろ、昭和生まれのクソメガネ」

「一応平成なんだけどねえ……」

 詠んでる、と道哉は心中呟く。

「世代を言うなら」紅子はひとつ息をつく。「今回拉致されかけた労働者、土橋をはじめ、恐らくみな失われた世代ロスト・ジェネレーションの人間たちだな。第一次年越し派遣村の頃には、まだなんとかなる年齢だった人々だ。氷河期の就職活動を潜り抜け、生きる術を勝ち取り、ゆえに自ら勝ち取れない人々を甘えと責め、卑屈な割に他の世代に厳しく、顧みられず切り捨てられ。まあ、五〇過ぎまでスキルを高めることもできず、端的に言って使えない人々が多い。救済しようにも手遅れだ。それで犯罪組織に労働力として利用されていては、是非もない」

「身も蓋もない……」

「私は怒っているんだ」口を挟んだ怜奈が気圧されるほどの語気で、紅子は言った。「弱者を食い物にするやつらに。目的が利益追求にしろ、それ以外であるにしろ、自分のために弱者を濫用する連中に、私は腹が立って仕方ない」

「あなたはひとりでなんでもできるから」

「できるよう、努力している。そのための手段だって、現代には揃っている。必要なものは……」

「意志だ」道哉は後を継いで言った。「善意か、あるいは悪意だ」

「憂井よ。一説によれば、怒りという感情は六秒でピークを迎え、持続時間は二七〇秒、消滅までは二時間なのだそうだ。つまり同じことに二時間以上怒っているなら、それは狂気と変わらない」

「知ってるよ。始めたときからずっと」

 ずっと怒っていた。

 最初は、かつて友達だった野崎悠介という男を死に至らしめた、佐竹純次とその一味に。

 そしてひとりの人間への怒りは次第に別の大きなものへの怒りとなり、気づけば組織犯罪集団を向こうに回して戦っている。

 怒りが途切れない限りは戦えると思っていたし、顔のない男の怒りを時代が求めているような気もしていた。

 なら、この時代の何が、顔のない男の怒りを必要としたのか。

 道哉は顔を上げた。

「羽原。悪いが、しばらくここへは来ない」

「……ほう?」

「鍛え直す。今のままの俺じゃ、首狩りゾエルに勝てない」

「かなりの修羅場を潜ってきた男のようだ。調べる限り、ミンダナオ島のIS系イスラム武装組織掃討作戦時に、連中の斬首への報復として、首には首をで生首を往来に並べた一件がヒットした。それが最初というわけでも、ないのだろうが……」紅子は画面に走らせていた目線を上げて言った。「ま、好きにしたまえよ。そちらの話は私にはさっぱりだ」

 すると禎一郎が手を挙げる。「すいません、俺も」

「あら、灰村くんも特訓?」と怜奈が珍しく愉快そうに言った。

「そうじゃないんすけど……どうしても、気になることがあるんです」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る