ブギーマンと目された男、装束以外の証拠は見つからず、コリアン・マフィアとの銃撃戦で用いたと思われる爆発物の入手経路についても解明進まず――。

 有沢についてそんなニュースが報じられはしたが、注目度は日増しに下がっていた。たとえ仮面のヴィジランテといえど、一ヶ月も話題を持たせることはできない。日々起こる様々な事件に人々の関心は押し流され、昨日の関心も忘れていく。

 グーグルは何も忘れないが、グーグルに検索ワードを打ち込む人が忘れていくのだ。急上昇ワードにブギーマンの名が上がったのも、最初の一週間だけだった。

 週明けの学校。道哉はいつも通りの日常を過ごしていた。隣のクラスからは時々島田がやってくる。同じクラスにも友達が増えた。松井広海と、藤下稜。彼らの友達とも言葉を交わすようになった。憂井くんって話してみると普通だね、などという言葉をしばしば聞くようになった。

 地に足の着いた生活。

 それは自警活動のスリルだけでない、人間が本来持ち合わせているべき大切な何かを失った結果であるように思えてならなかった。

 周りの皆は持っておらず、自分だけが持っていて、そして仮面を脱いだ時から失った何か。

 普通だね、と言われた時の、嬉しいようで嬉しくない気持ち。

 浮世離れしているな、と言われた時の、嬉しくないようで嬉しい気持ち。

 要するに自分が特別な人間だと信じていたいのだとわかっていても、気持ちに整理をつけるのは容易いことではなかった。

 盗聴器の存在に気づいたのは、バイク事故の怪我から復帰した数日後のことだった。久しぶりに榑林邸の離れに戻り、心機一転、部屋の模様替えでもしようかと思い立ったのだ。そして、手っ取り早く目線の向く方向を変えようと、壁掛け時計に手をかけて、気づいた。

 入院中に設置されたのかとも考えたが、積もっていた埃は数日や一週間ではなく、少なくとも一ヶ月程度の時間の流れを感じさせた。羽原紅子以外にこんなことをする人間の心当たりはなかったし、日本家屋である榑林邸が本質的に不用心であることは間違いない。道哉も、敷地内であることに安心して、離れの扉に鍵をかけずに外出することもしばしばあった。

 結局、守られていた。

 親を亡くしてからというもの、誰にも守られていないことは道哉にとって、誇りのようなものだった。榑林の人々も、世話になっているという恩義こそあれ、守られているとは思っていなかった。どの家も、年長者も、寄港地でこそあれ、母港ではなかった。

 周りは皆、最後には、ひとりではない。

 でも自分は、最後には、ひとりである。

 それが誇りだった。誇りとして生きなければ、親を亡くした時の悲しみと孤独に絶えられなかった。

 誰かに守られなければ、今ここにいられないという事実が、どうしても受け入れられなかった。

 まだ大人ではない、子供であると、認められなかったのだ。

 藤下稜から相談を受けたのは、そんなある日の休み時間だった。

「憂井。ちょっと、いい?」と声をかけられたのは教室だった。

「何? また松井が鬱陶しいって話?」

「それはいつもだけど、別の話。あの……」長身の稜が、ほとんど床に膝をつくようにして、着座したままの道哉に耳元に顔を寄せた。「あんまり周りに聞かれたくない」

 何の冗談だろうと顔色を伺うも、稜は至っていつも通りの、長い眠りから目覚めた直後のような無表情だった。だが、目だけは真っ直ぐ道哉を見ていた。

 連れ立って特殊教室へ繋がる渡り廊下へ出た。化学室の失火から工事業者が入っており、生徒の通行は稀だった。

 稜はこう切り出した。

「憂井ってさ、喧嘩強い?」

「はあ……?」

「強いよね。あの佐竹とか十人くらいをひとりで倒したって聞いたし」

「確かに、腕に覚えが、ないわけじゃあ」

「だから強いんだよね。頼みがある」稜は渡り廊下の鉄柵に背中を預けて続けた。「私の友達に、力を貸して欲しいんだ」

「友達? もしかして、例の」

「そう。パルクールのドクロ」

 風のように街を疾走する仮装の三人組。その中でも一際切れ味の鋭い動きで見るものを魅了していた、ドクロの少年の姿を、道哉は思い出した。目に焼きついて離れないほどの躍動感。忘れたくても忘れられるものではない。

 確か、稜が名前を呼んでいた。

「灰村禎一郎っていう。私の幼馴染」

「その灰村が、何か危険なことに巻き込まれてるのか?」

「最近、渋谷のカラーギャングの仲間になったみたいなんだ」

 渋谷のカラーギャング、と繰り返し、道哉は目を逸らした。

 片瀬怜奈も同じことを言っていた。縁があるのか。逃げたくても逃げられないということなのか。

「まさか、黒のやつとか、言わねえよな」

「そのまさかだね」稜は、最近ふたりで撮ったという写真を示した。

 撮影者は稜自身らしい。私服の灰村禎一郎と稜が互いに肩を寄せてはにかんでいる。稜もこういう写真を撮るのか、こういう相手がいるのかと思うと、不思議な気分だった。彼女としても自覚はあるらしく、「言うなよ」と釘を刺す。

 言わないよ、と道哉は応じる。

 灰村禎一郎。稜とは対象的な、軽そうだが快活な笑顔。上げ気味にセットしたコーヒー色の髪とぱっちりした二重瞼。幼さと同時に、素直で一本気な性格を感じさせた。

 だが、禎一郎の右親指の爪には、黒いマニキュアが塗られていた。

 ブラック・ネイルズのトレードマーク。そして怜奈から聞いた話が正しいなら、彼らは今、渋谷の数ある非行少年グループの頂点に立とうとしている。

「……具体的にはどうするんだ? 俺はこいつを、ぶん殴って更生とか?」

「それで済めばよかったんだけど」

「どういうことだ?」

「あいつはブギーマンの真似事をしようとしている」

 その一言に、道哉は言葉を失った。

 稜は別の写真を表示させた。パルクールの時とはまったく別の仮装をした灰村禎一郎の姿だった。

 黒いスウェットパンツにハイカットのスニーカー。ノースリーブのパーカーは銀のファスナーがアクセントになっている。口元を黒い布で覆って隠し、同じように黒い布を前腕に巻いている。

 黒ずくめでフードにマスクということ以外共通点は何もない。マスコミに公表されている有沢のスーツの写真を特に参考にしたわけでもないらしい。そもそも軽業が得意であるならプロテクターは動きを妨げてしまうだろう。

 以前、監視カメラに映ったもうひとりのブギーマンについて、紅子は「調べるぞ」と言っていた。あれも灰村禎一郎だったのだろうか。そして羽原紅子らは、灰村禎一郎に辿り着いているのだろうか。

 稜は携帯電話をポケットにしまった。

「……あいつは、ブラック・ネイルズに侵入して、末端として活動しながらグループの全貌を探ってる」

「潜入? 目についたやつを殴り倒すとかじゃ」

「込み入った事情があって……」

 するとまた稜は携帯電話を取り出す。「何日か前に、渋谷でカラーギャングの集団に高校生が暴行を受ける事件があったの知ってるか?」

「ごめん、知らない。でもその手の事件って毎日のように起きてる印象はあるけど」

「だからいちいちテレビで報道はされない。もっと報じるべきことがあるから。殴られた人の正体も気にしない」

「思わせぶりだな」

「ごめん。誰かに何かを説明するのとか、苦手で」咳払いして稜は続ける。「とにかく、私が調べた範囲では、ネットにこのニュースが掲載されただけだった」

 稜が示したのは、大手新聞社のウェブ版に掲載されたごく短い記事だった。高校生がカラーギャングに暴行された、本当にそれだけを伝えている。一応ブラック・ネイルズの名は挙げられている。

「それで、この事件が?」

「実はね、ここで殴られた高校生、『サカグチ』なんだ。知ってる? この間見た子供のやつとか……」

「知ってる。あれから俺もちょっと調べたし」

 意外な名前だった。調べはしたが、まさか繋がるとは思いもよらなかった。

 いや、そもそもARグラフィティ・アーティストのサカグチのことを調べたのは、稜や松井と遊びに行ったことがきっかけだ。彼女はカラーギャングの話もしていた。

 そして怜奈も、現在の捜査対象としてブラック・ネイルズに言及した。

 他でもない怜奈が何気なく発した言葉を不意に思い出した。

 振りかかるのが運命なら、追いかけてくるのが宿命。

 仮面と拳の誘惑が再び背中に迫っているように思えて道哉は身震いする。

 そしてさらに稜は続ける。

「このサカグチが、彼の友達なんだ」

「彼って……灰村禎一郎?」

 稜はこくりと頷く。「そう。だから……」

「殴られた友達の復讐」

 合点がいった。

 灰村禎一郎とサカグチは友達。サカグチはブラック・ネイルズと何らかのトラブルを起こし、集団暴行を受けた。そして灰村禎一郎はブラック・ネイルズへの復讐を決意し、仮面を被った。

 目眩を覚える。その動機は、あまりにも数カ月前の道哉自身と同じだった。

 加えてブラック・ネイルズは、レッド・ラビットとの全面抗争に備えて戦力の拡充を目論んでいる。意志があれば潜り込むのは容易いだろう。

「仕掛けるのは主犯がわかってからって言ってるんだけど」

「俺は、どうすればいい?」

「助けて欲しい」

「その……灰村を?」

「うん」

 道哉はしばし黙考して応じた。「どっちだ。稜は、俺に、灰村の戦いに加勢して欲しいの? それとも、灰村がそんな馬鹿なことをするのを止めて欲しいの?」

 それは、とだけ応じて稜は言葉を消え入らせた。

 ややあって、「ごめん、わかんない」と稜は言った。

 道哉にもわからなかった。

 愚かしいヴィジランティズムに加担することは、もうやめた。だが、ヴィジランティズムに足を踏み入れようとしている人間に、どんな態度で臨めばいいのか、すぐには決めかねるのだ。

 自分がまだ迷っているから、そんな馬鹿げたことはやめろと言い切ることができない。

 稜の肩が震えていた。息遣いが乱れていた。

「稜……?」

「どうして、男の子って、負けるとわかってるのにやめてくれないの」

 俯いた稜の横顔に、思い出すものがあった。

 私は君を失うわけにはいかない――そう言って行く手に立ち塞がった、羽原紅子の姿だった。

 稜は指先で目頭を拭った。「ごめんね。大して仲良くもないのにこんなこと頼んで」

 道哉は稜の肩に手を置いた。そのまま二、三度叩いてみる。

 ひとの慰め方など知らなかった。

 稜が落ち着くまで待って、道哉は口を開いた。

「伝手はある。何とかする。その代わりに、どうするか、俺に預けてくれるか」

「どうするか?」

「止めるか、手を貸すか」

 肩に置いたままの手に、稜の手が重なった。「さんきゅ、憂井。任せる」

「道哉でいいよ」

「じゃあ道哉」稜の手に力がこもった。「頼む。禎一郎の力になってくれ」


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