⑧
週明け、教室の道哉は憂鬱そのものだった。
道哉と紅子が作り上げた仮面を騙り、外国人排斥を訴えるデモ隊へ突っ込んでいった人々。
彼らは、都内の大学生らを中心とした政治活動団体『SHADOW』であることが翌日からの報道で明らかになった。インターネットを積極的に活用する世代である彼らは、思想的にはリベラル、前政権を支持し難民政策の段階的縮小を行う現政権には否定的。リベラル勢力の結集を訴え、右傾化を憂い自分たちこそが自由と立憲民主主義の代弁者であると叫ぶ。街頭に立つ共産党員のような闇雲な非難、独裁者呼ばわり、戦争の恐怖を煽るようなことはせず、一線を画した態度を崩さない。
そんなクレバーな人々が、シンボルを得た。
覆面と黒いフードは、SHADOWらによって、まるでガイ・フォークスの仮面のように扱われていた。
SHADOWの共同代表である澤村という男は、「これは匿名の市民たちによる真実の声である」というコメントを公式ウェブサイトに発表した。
自分たちはどこにでもいる市民である、これは名もない市民たちの主張であるという体を取った活動が元来目立っており、以前からグラフィティ化した澤村や幹部の写真が公式ウェブサイトを飾っていた。アンディ・ウォーホルのキャンベル缶スープのように、ありふれた、どこにでもあるものにこそ現代の真実が強く投影されているという主張である。
そして彼らは、ネットを通じて、LAPネットワークのデモを、我々の象徴である黒いフードと覆面を着けて妨害しようと支持者らに呼びかけていたのだ。
紅子は、彼らの呼びかけに気づいていた。
「ジョーク以上のものにはならんだろうと油断していた。すまない。馬鹿学生だと思って甘く見た」と彼女は言った。
ブギーマンという存在が世間に波及していく様子を手の限りを尽くしてモニタリングし、時に煽り伝説をでっち上げもした紅子だ。気づかないはずはない。だが、まさか本当に、フラッシュモブのようにして右翼系団体のデモ行進に突っ込んでいく人々が出るとは思っていなかった。現場で警察に拘束された人々の中には、SHADOWのメンバーだけでなく、彼らに共感した一般人も含まれていた。
当然その姿は報道の電波に乗る。そして日本中の人々が知る。フードに覆面を被った謎の男の存在を。
もはやそれは、ネットの一部や同じ学校の生徒だけが知る都市伝説ではなくなった。
社会活動のシンボルにもなりうる、より大きな存在へと、変貌を遂げたのだ。
午前の授業が終わり、昼休みになった。騒がしくなる教室で、誰にも聞こえない声で「違うな」と道哉は呟いた。
シンボルになったのではない。
シンボルとして利用されたのだ。
両手を広げて抱えきれるだけが世界ではない。それを知っているつもりで、何もわかっていなかったのかもしれない。
彼らの独善に力を与えるために命がけで戦ったわけではない。むしろSHADOWに所属する学生らが無意識に虐げてきたような人々にこそ、顔のない男の助けが要る。顔の包帯は傷跡だ。傷つけられた誰かのためにある。世を憂い正義を気取り訳知り顔で誰かを傷つけるようなやつらのためでは、決してない。
道哉は、教室の入口を見た。
誰もいない。誰でもない人しかいない。
しばらく考えてから、立ち上がり、隣の教室へ向かった。
やはり昼休みは賑わっている。その中に、よく見知った横顔を見つける。彼女は、朱に交わらない赤のように、お弁当を広げる生徒たちの中で、ひとり本のページに目を落としていた。同級生に声をかけられて、それをうるさそうにいなす姿に、どうしてか少し安心した。
「あれ、憂井じゃん。1組の。どしたの?」
通りすがりの生徒に声をかけられ、取り次ぎを頼んだ。ぱたぱたと駆けていったその女子生徒が「片瀬さん、友達来てるよ」と道哉を指差した。
窓際の片瀬怜奈は、顔を上げ、道哉の姿を認めると、丁寧に文庫本を片づけて、眼鏡を外して席を立った。
道哉と差し向かった怜奈は、不満気な顔だった。
「……何?」
「お昼食べた?」
「ひとりのときは二日に一度。今日は食べない方」
「悪い。じゃあ、いいわ」
立ち去りかけた道哉のシャツの袖を、怜奈の手が掴んだ。
「どうして?」
「食べないんじゃないの?」
「1+1は2じゃないの?」
「2だ」
「でしょ」
思わずきょとんとする道哉をよそに、怜奈は一旦席に戻り、財布を手に戻ってくる。
一ヶ月先の気温を先取りしたと天気予報が言う、肌寒い日だった。
怜奈は制服の上からベージュのカーディガン、道哉はグレーのセーターを着ていた。上着は、着なければならないまで着ないことにしていた。
「秋だね」と怜奈が言った。
「あったかいもの食べたいね」
「あたしお蕎麦食べたいな」
「また?」
「この間はざる蕎麦だったじゃん」
そう言う怜奈に押し切られ、結局ふたりで蕎麦屋へ足を運ぶ。
店内は空いていて、もちろん高校生はひとりもいない。昼間から日本酒を飲む老人が数人いるだけだった。
揃って温かい蕎麦を注文する。
「あの、怜奈」
彼女は長い髪を括りながら応じる。「何? 畏まってさ」
「普通だなと思って」
「何が?」
あのことにわざわざ言及するのも躊躇われ、道哉は何も言えなくなった。
互いに無言で携帯電話をいじっていると、蕎麦が給仕された。客の少ない店らしく、いやに早かった。
味はいいからね、と店の味方に立つ怜奈。彼女に従い、箸を取る。道哉は、それを口に運ぶ前に言った。
「何がっていうか、その……普通に接してくれることが嬉しくて。怜奈が」
怜奈は一瞬硬直して、何事もなかったかのように応じた。「そういうこと言わないの」
「はあ? 俺だって、あんな……」
「一花ちゃんに聞いたよ」怜奈は遮って言った。「最近、家に帰ってないんだって?」
「何だその家出人みたいな。帰ってるよ」
「憂井の家の方にでしょ」
「いや……まあ、そうだけど」
彼女は黙って箸を動かしていた。
しばらく互いに食事に専念する。蕎麦屋に備え付けのテレビからニュースが流れている。渋谷のLAPネットワークによるデモ。ブギーマンの仮装でその妨害を試みたSHADOWメンバーとその支持者。
どちらが正しいのかわからない。そして往々にして、どちらが正しいのかわからないときは、どちらも正しくない。ならば何が正しいのか。その答えを求めてさまよい続けているような気がする。
蓄えた怒りをぶつける先はどこだ。
本当に許してはならないものは何だ。
ニュースは終わり、可愛い動物の投稿映像に切り替わる。猫が二本足で歩いている。
怜奈がふいに口を開いた。
「ねえ、道哉。あんたの家って、結局どっちなの?」
「藪から棒だな」
「いいから。答えて」
「どうして」
「気になるの。駄目?」
「駄目じゃないけど」怪訝に思いながらも道哉は応じる。「わからない」
「ふぅん」
「家族がいるところだけど、家っていうか、防空壕みたいな感じ。俺にとって」
世界が戦場だったとして、ひとまず砲火から守ってくれる場所。
榑林道場は、道哉にとってはそういう場所だった。
会話の間合いを無視して怜奈は鴨南蕎麦を啜り、一度幸せそうな顔になってから、無表情に戻った。「家って、帰るところだよ。逃げ込むところじゃなくて」
「何だよ、説教か?」
「違う。ちょっとした推理」
「推理?」
「どこにも帰ってないってことは、あんたは今、旅の途中なの」怜奈はまた、蕎麦にひとしきり舌鼓を打ち、ごちそうさまと呟いてから続けた。「目的地はどこ?」
「さあな」
「あんた自身もわかってないんだろうね。……もうひとつ訊いてもいい?」
「どうぞ」道哉も箸を置いた。
「あんた、うちのクラスの羽原さんと、何してるの?」
怜奈は、後ろで括った髪を解いた。
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