⑮
翌日の昼下がり。
『これはさすがに犯罪なんじゃ……』
『そんなことを言ったら当局への申請なしにドローンを飛ばした時点で私は既に航空法違反を犯している。気にするな』
道哉らの最寄りから数駅先にあるターミナル駅にほど近い喫茶店の一席。学校用でない眼鏡で髪を下ろし、オーバーオール姿の紅子は、いつもとまるで別人に見える。一方の道哉は似合わない野球帽を目深に被り首を竦めている。
喫茶店も、三方を囲ったコンパートメントのような席が並んでいるタイプが最近随分と増えた。経済評論家曰く、いわゆるシアトル系に代表されるカッコいいコーヒーに疲れた人々による、古式ゆかしい純喫茶への回帰なのだという。ふたりが渋い顔でテーブルを囲んでいる店も、そんな業態のひとつだった。
そして、パーティションをひとつ隔てた反対側には、葛西翔平がいた。
ひとりだ。コーヒーを注文してから、もうかなり時間が経っている。
道哉は携帯電話の画面に目を落とす。目の前に座っているはずの紅子からWIREでメッセージが飛んでくる。
『ひと通りのメールやメッセージアプリのアカウントとパスワードは盗み取れたぞ。あとは見咎められずに撤退するだけだ』
『一体どうやったんだ……』
『邪悪な
それから紅子が滔々と繰り出す解説であっという間に画面が埋まった。
紅子の手元にはノートPCと、モバイルWi-fiルータがある。解説に従って、道哉も自分の端末で、店内に飛んでいる無線ネットワークを検索した。すると、店の名前が入ったネットワークが、ふたつある。アンダーバー2と末尾についたものの方が、電波強度が高い。
実は、店が飛ばしているのは強度の低い、末尾に何もついていないほうである。アンダーバー2がついているアクセスポイントの発信源は、紅子なのだ。
葛西は化学教師で、理科系の男。携帯電話の料金にも敏感で、自分で調べられるタイプであるためか、端末と紐付いていない低価格SIMを使っていた。そして、そのような契約は得てしてデータ通信量に制限があり、利用者は喫茶店や公共施設などで無料のネットワークが提供されていれば積極的に使う。昨今は観光客の増加による需要を踏まえ、各所で積極的にフリーWi-fiの敷設が進められていた。
葛西は、隣に悪意を持った生徒がいるとも知らず、紅子が放った偽のアクセスポイントに繋いだ。これで、紅子は葛西の端末がネットワークを介してやり取りする情報を監視できる状態になる。あとは根気の勝負である。
そうしてメールを覗き見た紅子は、『いいものがあったぞ。恋文だ』とメッセージし、ノートPCの画面を対面に座る道哉へ向けた。
発信者は何と、野々宮ゆかり。
画面を戻すと紅子からメッセージ。ご丁寧にスクリーンショットが添えられている。『おい憂井、このメールを見ろ。逢引きだぞ逢引き。君の勘は正しかったようだな』
見るのが恥ずかしくなるほどの睦言が並んでいて、道哉は思わず苦笑いになりながら目を逸らした。
画面に目を戻すと、紅子のメッセージが続いている。
『今度ドローンを飛ばしてホテルに入るところでも上空から撮影してやろう。航続距離が心配だが。まあ葛西のナニよりは私のドローンの方が丈夫で長持ちだがな!』
ひと呼吸開けてから返す。
『航空法と不正アクセス禁止法違反で捕まっちまえ』
『何を言うか、向こうは淫行だぞ』
再び苦笑いになる道哉。目線を送ると、紅子は何を勘違いしたのかいつにも増して得意満面の笑みを浮かべた。
気を取り直して、道哉は文を打ち込む。向こうはキーボードとはいえ、紅子の入力の速さにはついていけそうになかった。
『葛西先生、誰かを待ってるのか?』
『知らん』
『知らんって……』
『葛西は日常のメモにWIREを使っていた。備忘録代わりに。そこに、この喫茶店の名と日時が書かれていた』
『なら待ち合わせじゃないのか?』
『だとしたら向こうはえらく不義理だな。早く来てくれないものか。こちらもそろそろコーヒー一杯で粘るのが辛くなってきた』
『ケチだな。ドローンは山ほど持ってるくせに』
『半数は部活の備品だよ。君だってコーヒー一杯じゃないか』
『それはそうだけど』
『ヴィジランテ活動で金欠なのは確かだ。私は両親が甘いが、君は両親の遺産が親戚に管理されているのだったな』
『ヴィジランテ?』
聞き慣れない言葉だった。
紅子はGoogle検索のURLを飛ばしてくる。
ヴィジランテ、無理に日本語へ訳すなら自警団。だがあまり適切な訳語はないらしく、カタカナのまま使われることも多いらしい。
それは、司法手続きによらない実力行使で共同体の利益を損なう者や犯罪者と戦い、共同体の権利を守る存在のことを指す。
つまり、弱きを助け強きをくじく、正義の味方。
『君のことだよ』と紅子の言葉は続いていた。
不覚にも、赤面する。何もかも紅子のサポートあってのことで、誇るようなことではないと思っていたが、言われてみると誇らしい。
誰にもできないことをしている。この世で自分にしかできないことをしている。その実感が、急に押し寄せてくる。
『次は勝つ』と四文字で返した。
『何のことだ』
クラシックフレームの眼鏡の下から、紅子が怪訝そうな目を向ける。
妖怪は人の心の機微には弱いんだな、と打ち込んだ、その時だった。
「いやあ、葛西さん。お待たせしました」
その声に、道哉の身が凍った。
立ち上がれば胸の高さほどの据え付けパーティションに仕切られた向こう側。葛西教諭の待ち人がついに姿を表した。顔は見えない。だが、顔を見るまでもない。
忘れもしない声だった。
「新井です。うちの山川が、お世話になったようで。いや、驚かれたでしょう。すみませんね、急にお電話差し上げちゃって」
「いえ……」
聞くからに萎縮した葛西と、慇懃な新井。道哉と紅子は、顔を見合わせる。
もはや邪悪な双子は用済みだった。
葛西がおずおずと口を開く。「あの……山川さんは」
「あ、あれですか。あれは顔を潰されてしまいました」
「顔を……?」
「ほんの冗談です。ははは……」
どういうことだ、という紅子のメッセージが道哉の携帯電話に踊る。
わからないが、運が向いてきたことだけは確かだ。
それからしばらく、山川をダシにした世間話が続いた。新井がほとんど一方的に喋り、葛西教諭は時々相槌を打つだけだった。
注文したコーヒーが運ばれ、店員が遠ざかったのを見計らったように、新井が言った。
「さて、仕事のことなんですがね」彼は何かのジェスチャーをして、一拍置いて続ける。「これだけ、作って欲しい。お盆前に」
「無茶だ……!」
「そう言われましてもね。こちらだってカツカツなんですわ。新規の取引先を開拓するのは骨が折れることでしてね。まずは与信調査が必要なんですわ。このビジネスに、どれだけ本気かを見極めさせてもらわなきゃならない。葛西さんね、葛西さんのお話は、確かに我々には魅力的です。こうもアジャイルな供給が行えるルートはこれまで存在しなかった。我々のコアコンピタンスとして、コモディティ化したこの業界に風穴を開ける可能性を、あなたは持っている。でもね」勢いよくカップを置く。ソーサーと触れ合う音。空気が弾けるような威圧感が、隣のブースに座っている道哉の肌まで焦がした。「ビジネスなんですわ。おたくが、コミットした業務を完遂できるか。そのビジネスモデルはファクトベースなのか」
「すみません、よく……」
「難しいですか、先生」新井は先生、の二音にやけに強勢を置いた。
「僕の方法は、スケールアップに時間が必要なんだ。時間さえあればスケールアップできるが……」
「先生、ちょっと腹割って話しましょうや」物音がした。新井は身を乗り出したようだった。「私もね、正直しんどいんです。先生の力が欲しい。喉から手が出るほど欲しい。そちらもしんどいのは同じでしょう。あくどい元妻に可愛くもない息子。あんな連中のために毎月毎月。同情しますよ、先生」
「なぜ、それを……」
葛西の驚愕を無視して、新井は店員を呼び止め食事を注文した。
携帯電話の画面が更新される。紅子からのメッセージ。『こいつはビンゴだ』と書かれている。
新井は何事もなかったかのように続ける。「ですからね、互いにひと頑張りしましょうじゃありませんか。私は私で。先生は先生で」
しばし押し黙ってから、葛西は独語するように言った。「できない、ことはない。稼働時間を確保すれば。そうです。できないことは、ないです」
「やっていただけますか」
「はい」
「おお、ありがとうございます!」肌と肌が立てる小気味いい音。勢い込んで握手したようだった。「いやあ、これで私も安心だ。近頃周りに妙なのがうろついていたりで、悩みの種が絶えなかったんですよ」
「妙なの?」
「いえいえ、こちらの話で」こちら、に強勢を置く新井。「それで……先日もお願いした通り、稼働中の設備を見学させて欲しい。初回出荷前に、最低一度」
「それは……」
「正直に申し上げてね、我々も半信半疑なんですよ。ですからね、どうしても現場を確認させていただきたい。これなしでは、受け入れは無理だ。明後日とか、いかがでしょう。その場で金額の相談などもさせていただきたく」
「しかし、それは……」
「ああ、それともお忙しいですか。……もしかしてデートですか、例の眼鏡のカノジョと」
道哉と紅子はまた顔を見合わせる。
新井は、葛西の何もかもを調べ上げている。
驚愕は葛西も同じだったようで、応じる言葉はしどろもどろだった。
新井は相好を崩して続ける。「聞きましたよ。大きな声じゃ言えないけど……教え子なんでしょう。やりますねえ、先生」
直後、新井の懐で携帯電話が鳴った。
二言三言話すと、新井は席を立った。「すみません、上に呼ばれてしまって。来たばかりで申し訳ないが、ここで失礼します」
「あ……いえ、こちらこそ、不慣れで……」
「明後日の件、検討よろしくお願いしますよ」
「明後日……は、はい。大丈夫です。明後日ですね。ですが、生産は夜で……」
「本当ですか。時間はいつでも構いませんよ。私と他数名で、お邪魔させていただきます」
「はい。ではまた、ご連絡します……」
「ええ。明後日、よろしくね」新井はぐいとコーヒーを飲み干すと、一万円札をテーブルに置いて席を立った。「眼鏡のカノジョに、よろしく申し伝えください」
電話を片手に足早に立ち去る新井。
残された葛西の前に、新井の注文したサンドイッチが運ばれてくる。
紅子はガッツポーズをしてキーボードを叩いた。程なくして道哉の見つめる画面にメッセージ。
『リターンマッチだ』
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