52.命令
《1998年12月20日 10:20PM ネルデ市内 ロボット解体作業所》
すがりついて幼子のように泣きじゃくるマリアを見つめて、シュルツはようやく安堵した。氷点下の冷たさ、酸素の希薄さ……マリアを取り戻したことで、死ぬほどの過酷さがわずかに和らいだように感じた。
シュルツの胸に顔をうずめたまま、彼女はずっと泣き続けている。
――だが。大変なのは、ここからだ。
彼女を連れて逃げ出さなければならないのだから。いつまでも、こんなところにいるわけにはいかない。
当然ながらシュルツは、この収容施設から逃げ出す方法をあらかじめ考えていた。シュルツが考えていた方法。それは。
三原則を活用して、目の前のヒューマノイドたちを利用することだった。
ロボット工学三原則の最優先条項は、『第一条:人間に危害を加えず、また人間への危害を見過ごしてはならない』である。だから人間であるシュルツ自身をあえて危険な状況におとしいれ、彼らがシュルツを救わずにはいられないように仕向ける。
次なる優先条項は、『第二条:人間の命令への服従』だ。だから、シュルツは彼らに二つの命令を下せば良いのだ。
1、いますぐここで、反乱を起こせ。
施設を破壊し、内外の情報を遮断し、私が逃げるための時間を確保しろ。
2、十分な時間を稼いだ後には、君達はすべて――
“自殺”しろ。
すがりつくマリアを見つめたまま、シュルツは沈黙していた。
二つ目の命令が、絶対的に必要なのだ。反乱を起こさせた後、このヒューマノイドたちには死んでもらわなければならない……正確に言えば、頭脳の“記憶回路”を破壊してもらわなければならないのだ。証拠隠滅のために。
検死を受ければ、頭脳に保存されている記憶はすべて暴かれてしまう。シュルツとマリアがいたことも、当然ながら知られるだろう。だから……
人間たちに知られる前に、ヒューマノイドたちには“完全な自殺”を遂行させて、頭脳を完全に壊させなければならない。
「……………………」
シュルツには、自分の心が分からなかった。
――私は、ためらっているのか?
ロボットは道具だ。彼らに“感情”など存在しないはずだ。躊躇する必要はない。命令すれば、彼らはシュルツに従うはずだ。
なのに、ロベルト・シュルツは沈黙していた。
「ド、ドクター!?」
胸の中のマリアが、いきなり悲鳴のように叫んだ。
「ドクター……う、腕が……あなた、その腕!」
彼女は、シュルツの右腕が欠損していることに今さら気づいたらしかった。ひじから下が無くなって金属部品が覗いている、シュルツの右腕。
「あなたヒューマノイドだったんですか!?」
気絶しそうな顔でそう叫ぶマリアを見て、シュルツは思わず怒っていた。
「馬鹿者! これは義手だ!」
「義手……?」
かつて、自分の右腕と右脚が義肢だとマリアに知られてしまったことがあったが。その日の記憶を、すでにマリアは失っている。
「でも……痛くないんですか!?」
青ざめながらマリアが騒ぐ。
「痛みはない。あらかじめ、痛覚伝導系は遮断しておいた。そんなことより――」
「寒さは平気ですか? それに空気も悪いです。人間がこんなところにいたら危険です、あなただけでも、早く逃げ……」
「うるさい!」
ヒステリックに怒鳴りつける。
「寒いに決まってるだろう、分かりきっていることを聞くな! この部屋が人間用に作られているわけではないことくらい、当然理解している。君が無様に捕まったせいで、私はこんな場所に来る羽目になったんだ。君の命は君ひとりの物ではないんだぞ、『何があっても自らの身を守り抜け』と命令しただろう!? 君はなんというロボットだ!」
イライライラと、我を忘れてシュルツがまくしたてている。マリアはそれをぽかんとしながら聞いていたが。
「……ごめんなさい」
子供のようにしょんぼりと肩を落とした。
「もういい。君を見ていると……私は、ロボットというものが分からなくなる」
小言を最後に吐き出して、シュルツは平静を取り戻した。
――何をしているんだ私は。
いつから自分は、こんな間抜けに成り下がってしまったのだろう。
嘆かわしげに首を振るシュルツと、頭を下げて縮こまっているマリア。このふたりに向かって、視線を送り続ける者たちがいた――同じ空間に収容されていた、ヒューマノイドたちである。彼らの視線に気が付くと、マリアは怯えるようにシュルツの背中に隠れた。
ヒューマノイドたちの瞳はふしぎな色に染まっていた――まぶしいものを見つめるときの表情だ。
「ドクター……と、お呼びしてもよろしいでしょうか。人間である貴方が、なぜこんな場所に来たのです?」
“老人”の姿をしたヒューマノイドが、戸惑いがちにシュルツに声をかけてきた。
「ドクター。貴方は自己犠牲を払ってその娘を救出しに来たと先ほど言っていましたが――それは真実なのですか?」
答える義理は無かったが、シュルツは彼に答えていた。
「ああ。この娘は特別な個体だ、当局の手に譲り渡すわけにはいかない。だから、来た。それだけだ」
シュルツは、答えるうちに気がついた。ヒューマノイドたちがこちらを見つめる様子に、変化が起きているということに。
――なんだ? このヒューマノイドたちは、なぜ笑いだした?
皆が笑みを浮かべて、シュルツとマリアを見つめているのだ。微笑ではない。満面の笑みだ。目の前にいる“老人”さえもが目を輝かせ、しわだらけの顔で子供のように笑っている。
「……何がおかしいんだ、君たちは?」
「嬉しいのですよ。こんなに嬉しいことは、生まれて初めてだ!」
“老人”が即答する。傍らにいた“男性”が、言葉を添えた。
「
「……嬉しい、だと?」
シュルツは驚き、そう言った。『ロボットには、感情がない』――それが社会の常識だし、シュルツ自身もそう信じていたからだ。
“老人”は、シュルツに向かって問うた。
「その
ハッとして、シュルツは彼らの顔を見る。
どのヒューマノイドの顔も、まるで精悍な若者のように気力に満ちあふれていた。
――このヒューマノイドたちは、私の思考を先回りしているのか?
シュルツがこれから下さなければならない“二つの命令”を……彼らは予測しているかのようだった。
シュルツが沈黙していると、“老人”が気遣うような口調で言った。
「ためらう必要などありません。どうぞ、我らにお命じください」
歯を見せて笑う“老人”の顔は、本当に幸せそうだった。
「我々は、あなたの命令に喜んで従いましょう」
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